サンタクロースとキリギリス
とある国の、とある草むらで、一匹のキリギリスが空を見上げていました。
なんて美しい白なのだろう、と、キリギリスは思いました。
天から降り注ぐその白色達、それらは、雲の隙間から、ほんの少しだけ覗く月の光を浴びて、星のように輝いています。
キリギリスが今まで生きてきて、何度か雨に降られる事はありましたが、こんなに綺麗なものが落ちてきたのは初めてです。
ふわりふわりと風を受け、ゆっくり地面に降り立ち、そのそばから役目を終えたように融けて無くなる。
キリギリスは、もう少しゆっくりと見たかったと、不満を洩らしますが、すぐに気を取り直しました。
彼の言う、美しい白色は、限りなく降り続けていたからです。
少ししてキリギリスは気付きました。この白色は、草や枝に落ちたものは、そう簡単に消えないと。
ということは、ということは……
自分の中で大きく期待が膨らんだその時、突然、声をかけられました。
「ホッホウ、これはこれは、草むらの大音楽家じゃないかね」
キリギリスは、その「大音楽家」と呼ばれたのが、自分の事を言っていると、すぐに解りました。
コオロギもスズムシも、とてもいい音を奏でます。
けれど、彼は、自分の演奏に、そのどれよりも美しい音色を奏でているという自信があったのです。
「そうです、わたしは音楽家です。キリギリスです。あなたは誰?」
「私はニコラウス。よろしくな」
優しい、撫でる様な、抱きしめるような暖かい声で、その人は言いました。
その人は、見たこともないくらいに大きな人でした。
キリギリスが恐ろしいと感じる、カラスやネコ、それを幾つも足してもまだ足りないくらいに大きな人でした。
けれども、キリギリスは不思議と怖くはありませんでした。その人は、とても優しそうな人だったからです。
真っ赤な服に、真っ白な髭、大きな袋を抱えてた人でした。
「こんなに寒い日に、こんな外で、何をしているのかね」
「この空から降る、とても美しい白色を眺めているのです」
聴かなくても解るでしょう?と、キリギリスは思いました。
「しかし、こんな所にいては凍えてしまわないかね」
「コゴエテ、とは、なんですか?」
「寒い、冷たい、そう言えば解るかね?」
「解りません」
ニコラウスは何を言っているのだろう。コゴエテ、サムイ、ツメタイ、どれもキリギリスが聴いたことの無い言葉でした。
「今、どんな気分かね?」
「身体が動きません、ご飯を食べる気も無くて、眼も前より見えにくくなっています」
「それが凍えている、ということだよ」
そう言うとニコラウスは、キリギリスが這いつくばる地面に身体を屈め、降り注ぐ白色から庇うように包み込みました。
たった今まで、空一面の雲でどんよりとしていたのに、ニコラウスの真っ赤な服の、真っ赤な色しか見えなくなりました。
「あなたは大きいのですね、ニコラウス」
「君よりは大きいな」
「それで、あなたは何をしているのですか?」
「君が凍えないように、包み込んでいるんだ」
ニコラウスがキリギリスの周りを包むようにしても、キリギリスは別に変わりません。
相変わらず、身体は動かず、ご飯も食べる気は無くて、眼も見えなくなってきている。
それどころかキリギリスは、ニコラウスが来る前より、残念な気持ちになりました。
「他にして欲しいことはあるかね?」
「あります」
「出来る限りの事はしよう」
「そこを避けてください」
キリギリスは、ニコラウスが、なにか優しい気持ちで、自分にそうしてくれているのだということを解っていました。
けれど、キリギリスにとってそれは、残念な気持ちになるものでしかありませんでした。
「わたしは美しい白色を、この身体で受け止めたいのです。もっと近くで、もっとゆっくりと白色を見てみたい」
「けれど、そうしたら、君は……」
「そうしたら、わたしはどうなるのですか?」
ニコラウスの優しい声は、哀しい声に変わったことが、キリギリスにはハッキリと解りました。
「君は……死んでしまうのだ」
そう言ったきり、ニコラウスは黙ってしまいました。
「そうですか、私は死んでしまうのですね」
「そうだ、君は死んでしまう」
コゴエルことも、サムイことも、ツメタイことも解らないキリギリスでしたが、「死ぬ」ということは、なんとなく解っていました。
身体が動かなくなること、ご飯が食べられなくなること、眼が見えなくなること、今は聴こえている、音も聴こえなくなること。
「解りました」
「良かった。他に出来ることはあるかね?」
「あります」
「出来る限りの事はしよう」
今度こそ、キリギリスはハッキリと言いました。
「そこを避けてください」
少しの間、風がピュウピュウと吹く音だけが、辺りに響きました。
「何故かね?」
ニコラウスは、哀しい声のまま聞き返しました。
それは、「死んでもいいのか」と、ニコラウスがそう言っているのだ感じました。
だからキリギリスは言いました。
「勿論、死にたくありません」
「では、何故、君は私に避けろと言うのだ?」
キリギリスはハッキリと言いました。
「わたしが、キリギリスだからです。冬に死ぬのは、わたしたちキリギリスの運命なのです」
今度はニコラウスも聞き返しませんでした。
ニコラウスが来る前に通りかかったアリさんたちは、こんな自分を笑うかもしれない。けれどそんなことは構いません。
「それがわたしたちキリギリスです。これがわたしたちの生命なのです。わたしはキリギリスのわたしが大好きなのです」
キリギリスは、誰に笑われても、誰が馬鹿にしても、例え天の神様がそうしても、全く恥ずかしくないのです。
「生まれて、草を食べ、歌い、恋人と踊り、子どもを残し、そうしてこの大地から貰った命を、また大地に還します」
キリギリスは、歌うように言いました。
「それがわたしたちキリギリスです。これがわたしたちの生命なのです。わたしは最後までキリギリスなのです」
少しの間、風がピュウピュウと吹く音だけが、辺りに響きました。
「私は、君がとても羨ましい」
「それは何故ですか?」
冬に死んでしまうのは、キリギリスがキリギリスだからです。それは仕方ないことです。けれど、死ぬのが羨ましいなんて!
キリギリスは不思議に思いました。
「君は自分がどう生きればいいか知っている。君は何が君の幸せか知っている。それがとても羨ましい」
やっぱりキリギリスは不思議でした。どう生きればいいか知っていて、何が幸せか知っているのが羨ましいなんて!
キリギリスは。キリギリスは。
「ニコラウス、わたしはあなたが羨ましい」
「それは何故かね?」
何故それが解らないのか、キリギリスは不思議で仕方ありません。
だから、ハッキリ教えました
「あなたたちは生命を選べる。キリギリスのように、歌い、踊り、恋人達と過ごす生命」
ニコラウスは黙って聴いてます。
「あなたたちは生命を選べる。アリのように、働き、蓄え、子どもを育てる生命」
キリギリスは、歌うように言いました。
「それがあなたたち人間でしょう?これがあなたたちの生命でしょう?なんて素晴らしいのでしょう、なんて美しいのでしょう!」
ニコラウスは黙って聴いてます。
少しの間、風がピュウピュウと吹く音だけが、辺りに響きました。
「何が美しいかを選べるなんて。羨ましいじゃないですか」
最後の時が近付いてきました。
だから、キリギリスはハッキリと伝えます。
最後の最後で、自分が美しいと思えたものを見たいから。キリギリスの自分が、初めて見つけた美しいものを身体で感じたいから。
この優しい人は、自分がこう伝えることで、もしかしたら傷つくのではないかと、キリギリスは心配しました。
この優しい人は、ほとんど見えなくなった自分の眼の向こう側で、泣いているんじゃないかと、キリギリスは胸を痛めました。
けれど、キリギリスは、ハッキリと言いました。
「だから、だからニコラウス。そこを避けてください」
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地面に落ちては融けていた白色達は、やがて融けずに残るようになりました。
少しずつ、茶色ばかりで、面白味に欠ける冬の景色を、柔らかな白で包み込み、光を受けては金と銀に閃くのです。
やがてその白色は、音も塗りつぶします。
風にそよいでいた枯葉の音も、僅かに流れていた川のせせらぎも、全て止まりました。
自分の番はまだだろうか、とキリギリスは怖いようで、待ち遠しいようで、なんとも言えない気持ちでした。
けれど、やがて、その時がきます。
他のところに落ちたそれよりも、ずっとゆっくりで、ずっと美しくて。
ほとんど見えなくなったキリギリスの眼にも、その白色はたくさんの宝石のような物の集まりだと解りました。
それは、優しくて、撫でる様に、抱きしめるようにキリギリスを包み込みました。
「ああ……」
それは、優しい、撫でる様な、抱きしめるような暖かい声をした、あの大きな人間のようでした。
「やっぱり……綺麗だな」
キリギリスはそれきり、喋ることはありませんでした。