ついてないカタヤイネン
はー……――。
盛大な溜め息をついた青年は、格納庫の向こうに広がる青い空と、整備中のブリュースターF2A――バッファローを見つめてからもう一度深く溜め息をついた。
彼の手の中にはほうきがある。
どこまでも屈辱的だ。
彼の戦友は空を舞っているだろうに。
どうして自分は地上要員として格納庫の掃除番などをしていなければならないのか。まったくもって納得いかない。いや、頭では理解している。納得もしている。
――……わかっているのだ。それでも。
「どうして掃除番なんてしなけりゃならないんだ」
どうして俺が……。
胸の奥にわだかまるのは祖国への愛国心と、ソビエト連邦に対する苛立ち。そして、小さな弱き国――フィンランドを見捨てた世界に対する憤りだ。
空を飛べないという苛立ちが。
操縦桿を握れもしないというもどかしさが、青年に苛立ちを募らせた。
*
「しばらく地上要員として掃除番でもして頭を冷やせ、ニパ」
第二四戦隊のエイノ・アンテロ・ルーッカネンにそう言われたニルス・カタヤイネンは、言葉もなく肩を落としてうつむいた。
貴重な戦闘機で事故が連発すれば、貧乏な祖国ではそう判断せざるを得ないのもやむを得ない。
祖国が貧乏だ、ということは他でもない。
カタヤイネン自身が理解している。
貧乏すぎて単独ではソビエト連邦相手に戦う事すらできはしない。
金食い虫の空軍――そのパイロットだからこそ、彼は国内の財政事情もわかっていた。それでも、落胆を隠しきれない。
「……承知しました」
自分が戦隊の一員でありながら、フィンランドにとって貴重すぎる戦闘機を飛行不可能な状況にし続けてきた。
それでも……!
カタヤイネンは叫びたくなる言葉を飲み込んだ。
――仕方がなかったのだ!
俺のせいじゃない……っ!
ほうきを握りながら危うく悔しさに滲みそうになる涙を押し殺して、ニルス・カタヤイネンは下唇を噛みしめた。
軍隊に所属している以上、結果が全てだ。
地上要員としてひとり黙々と掃除番をこなす彼は、奥歯をかみしめる。もうすぐ、一九四二年も冬が訪れる。
同盟国であるドイツの状況は余り好ましいものではないらしい。
さらに言うなら、フィンランド軍はこの夏のソビエト連邦との戦闘で大きな被害を受けた。結果的には、その後、夏を通して戦闘は膠着状態に陥り、なんとか一進一退の状況を続けて今に至る。
おそらく、ソビエト連邦赤軍は、ドイツを迎撃するための主要戦力をフィンランドから引き揚げたのだろう。
唐突に追撃の手のゆるんだ赤軍に、フィンランドの兵士たち誰もが訝しげに。そして不気味な静けさに戦慄した。
圧倒的な物量で攻め込んでくるソ連赤軍。
もっともそれでも尚、フィンランド上空は単発的なソビエト連邦の空軍による空襲を受け続けており、戦隊の忙しさには変わりがない。
そんな状況で、カタヤイネンは地上要員としての掃除番に回されてしまった。
これが男なら悔しくなくて何だというのか。
三年前の祖国の危機においては、パイロットたちのように国を守る戦闘機パイロットとして名前を連ねたくとも、訓練中の身の上ではそれもかなわなかった。
やっと彼が戦闘機隊に配属されたのは一九四一年だ。
戦争など、国内に大きな被害を生み出すばかりだからまっぴらごめんだったが、ソビエト連邦との再戦の日が迫りつつある昨年の夏。彼は名誉あるフィンランド空軍第二四戦隊に配属された。
「なにを腐ってるんだ」
声が聞こえてニパ――カタヤイネンは振り返る。
そうすると飛行帽を片手にして歩いてくる金髪長身の好青年の姿が見えた。
「腐ってません」
ムッとした様子で唇を尖らせたカタヤイネンがほうきを持ち直せば、金髪の青年は穏やかに笑うと、ポケットに無理矢理飛行帽を突っ込みながら自分も格納庫の壁に立てかけてあるほうきを取った。
カタヤイネンよりも五歳年長の二八歳。
スコアは三十を越えたエイノ・イルマリ・ユーティライネン。彼はなにもかもがカタヤイネンとは対照的だった。
どんなに激しい空戦を繰り広げて帰ってきても、ユーティライネンは決して機体を損傷させることがない。
ユーティライネンの機体の整備士が言うには、彼の乗る戦闘機のメンテナンスは非常に楽だとか。
それはそうだろう。
損傷らしい損傷も受けなければ整備は楽だ。
「そんなことを中隊長自らやらなくても良いのでは……」
面白くないと、内心で思っていたところを見透かされたのがなんとも居心地が悪くてカタヤイネンがそう告げると、ユーティライネンはひらひらと片手を振って見せた。
「我が軍はいつも人手不足だ。掃除をロッタに任せるわけにもいかないだろう」
「いえ、ロッタは空軍基地の掃除はしないと思いますが……」
「冗談だ、冗談」
「……――」
わかっている。
「とにかく、掃除は大事なことだし、”君”の命はもっと大切だ。ニパ」
不意にからかうような声から、真剣な声に変わる。その変化に瞠目したカタヤイネンはほうきを動かす腕を止めた。
ごくりと息を飲み込んだ。
「我が国は貧乏だ。それは紛れもない事実で、君が貴重な戦闘機をスクラップにし続けたのも事実だ。君はそんな自分に負い目を感じてるし、歯がゆさも感じているだろう。けれどな」
そこでユーティライネンは言葉を切ってから小首を傾げてほほえんだ。
「君の命は代えがきかんのだ」
言葉を一語一語確かめるように言う金髪の青年は、ほうきで格納庫の床をざっと音をたててはいてから青い瞳に真剣な光を揺らす。
「ニパ、君は我がフィンランド空軍の誇る戦闘機パイロットで、いくら貧乏でも戦闘機は修理すればなんとでもなる。しかし、君の命はそうはいかない。死なないかも知れない、しかし操縦桿を二度と握れなくなるような状況になるかも知れない。君のことが我々は誰よりも大切だから、失うわけにはいかんのだ」
――しばらく頭を冷やせ。
ルーッカネンの言葉がカタヤイネンの耳の奥に蘇った。
「しかし、中隊長……」
「なぁ、ニパ。俺は思うんだが、諦めなければなんとかなるもんだ。この間、初めて姉貴との喧嘩に勝ってな……。いや、まぁ、勝ちを譲ってくれたのかもしれないが」
「……中隊長のお姉さんというと、”あの”モロッコの恐怖?」
「そうそうそれだ」
人生二八年にして初めて姉との喧嘩に勝ったと言う、エイノ・イルマリ・ユーティライネンの言葉がなんだかおかしくて、カタヤイネンは苦笑した。
「君が戦隊復帰の請願書をせっせと書いているのも知っている。君の腕は上も認めていることだから、決して諦めるな。忌々しいあのイギリスのチャーチルも言っているだろう?」
奇跡の撃墜王と呼ばれることになるユーティライネンと、「ついてない」とからかわれるカタヤイネン。
どちらもフィンランド空軍の素晴らしいパイロットだ。
「君は、本当に運の良い奴だ。死んでも当然の空の戦いで、生き残ることができるのは天使に守られているかもしれんな」
ユーティライネンはそう告げると掃除を再開した。
そんな彼を見て、カタヤイネンもほうきを握り直す。
「陸軍は、俺たちを必要としてくれているんでしょうか」
「……――フィンランドの国民、三五〇万人を守るのは、俺たちの任務だよ」
ニルス・カタヤイネンの言葉に、エイノ・イルマリ・ユーティライネンはそう言葉を返すのだった。