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次の日の朝が来なければ良いと思ったのは一度や二度ではない。
それは自分から諦めるのではなく、諦めざるを得ない状況が欲しかっただけなのかもしれない。
ライヒアルトと話した事を思い出しながら、寝起きにぼやけた頭をふるって、寝床から起き出した。
悪くてもいつもと変わらないだけなのだからと、言い聞かせていつもと同じように教室まで行こうとした。
「…?」
踏みだした足元に違和感を感じて、寝ぼけまなこをこすりながら足元を見ると、白い何かが落ちていた。
拾い上げてみると、少しだけ厚みのある紙…封筒だった。
「てがみ…?」
宛先は学園、宛名に書かれたのは自分の名。
しかし送り主の名も住所も何も書かれていない。
それでもディータの心は激しく高鳴って、震える指先で封を解いて、中に入っていた一枚の紙を開いた。
「…」
ディータはその手紙を読んだ後、それを持ったまま部屋を飛び出した。
あり得ない。こんな事は。あり得ないんだ。
そう、わかっていても、それでも昨日では考えられなかった世界。
意味の無い事だとわかっていたのに、その意味の無い事が、今変わった。
嬉しくて嬉しくて、足が踊る。
逸る心を抑えて、深呼吸をしてから教室の扉を開けた瞬間。
「うわっ…」
「わっ」
中から飛び出してきた人にぶつかって、尻もちをついて倒れた。
なんとか顔をあげると、ギクリと心が揺れる。
いつもディータに“いなくなれ”という男子生徒だった。
「チッ…」
あからさまに嫌そうな顔つきで舌うちをして、それから過剰なほどにぶつかった部分の埃を払った。
「何で来るんだよ、ホント消えろよもう、うっとーしい。おまえ来ると嫌な雰囲気になんだろー、しかもぶつかってんなよな、謝れよ」
「う、あ…」
半分だけ笑いながらディータを蹴りつけるような動作をして思わず身構える。
その行為にさらに嘲笑が飛んだ。
周りを見ても、ディータの事を気にする者など、いない。
「しかもまた手紙かよ。ネクラ!」
言いながらディータが落とした手紙に男子生徒の手が伸びた瞬間。
「…!」
鋭く、乾いた音が耳に響いた。
じんじんと少しだけ痛んで熱くなる指先。
気がつけばディータは男子生徒の手を叩いて、手紙を握りしめていた。
「お、まえ…」
一瞬、驚いたような男子生徒の顔が、どんどんと赤くなって歪んでいく。
「いってーだろ!何すんだよ!おまえ、ホント何なんだよ!さっさと消えろよ!」
頭も、胸も、手足も、みんなみんなこれまで経験した事ない程熱いし、震えている。
いつもならこんな感情は湧きあがってこないし、どうせ駄目だと思っていた。
「ぼ…く」
この状況で言葉を出す事それ自体、恐ろしかった。
「僕が…僕に消えて欲しいなら、おまえがいなくなればいいだろっ」
そう、ディータが叫んだ後、訪れたのは立っているのも辛い程の静寂。
叫んだ言葉がディータの頭の中で何度も何度も跳ね返る。
苦しくて息がしづらいし、泣いてしまいそうだ。
だけど、ここで泣いてしまえば、またいつもと同じ。
全てを必死でこらえて、ぐちゃぐちゃになりそうな感情を強引に押さえつけた。
「な、に…」
男子生徒が何か言おうとした瞬間。
「何をやっている!」
教師が大声でやってきて、弾けたようにその場の空気が再び動き出した。
全ての意識がそちらに逸れた瞬間、ディータは教室に飛び込んで自分の座席に座った。
心臓の鼓動と、溢れそうな涙。
どちらも耐えがたい程だったが、それでもディータは後悔はしていなかった。
胸に手紙を抱いて、下を向きながら、それでも今までとはちょっと変わったはずの想いに、しがみつき続けた。
自分一人がいなくなった所で、どうせだれも気にする者はいない、いなかった。
だけど、ライヒアルトのように優しい言葉をくれる人が、まだいるんだ。
例えこの場の全てが駄目になっても、彼のような人がまだいるのなら…。
「まだ、僕の居場所、あるよね…」
いつだって変えられない事は無い。
いつだって遅くはない。
どれだけの遠回りでも、どれだけ叫んでも、ぜんぶ無駄じゃなかった。
無数に送り続けた当所の無い手紙でさえも。
母親が死んだという知らせを聞いたのは、この学園に来て間もない頃だった。
ずっと病床に伏せっていた大好きな母。
そのたったひとりの人を救いたいがためにディータは学園に入ったのだった。
元々大した才能は無く、それでも神聖としての力を発現できたのは母を助ける為なのだと思っていた。
それなのに母は助ける前にいなくなってしまったのだ。
ずっとずっと命を奪おうとする重い病と闘ってきた母。
それなのに、流行り病で実に呆気なく死んでしまった。
その病は小さな村を瞬く間に覆って、壊滅させてしまうには充分だった。
それからディータは生きていく意味を失ってしまった。
それでも自ら死を選ぶ事も出来なかったから、ディータは現実から目を逸らした。
存在しない場所。
いないはずの母。
誰も待たない村。
それらに宛てた手紙を、ディータは出し続けた。
内容はあまり覚えていなかったが、学園は大変だけど充実しているだとか、新しい魔術を覚えただとか。
嘘ばっかり。
本当は辛くて仕方が無いのに、もういない母や故郷の人に心配してほしくないだなんて。
自分は本当は辛くないと、自分自身がそう思ってるだなんて。
全部、嘘。
そんな意味の無い事を繰り返して、繰り返して、繰り返して。
それなのにまだ嘘を続けて。
いつの間にか嘘をつく事が一番辛い事になっていた。
それでも止まない嘘の雨。
こんな嘘で出来た存在の自分なんて、居ても意味が無いし、居なくなっても意味は無い。
まやかしが一つ消えても、在っても、現実は現実。
だけど。
幻想に実像が現れた。
それは確かに、現実世界の現実。
それはまだ、自分が現実に繋がっていた証。
なんとか息を殺して身を潜めてその日一日を過ごしたディータは、普段はなんとなく怖くて近寄れない、上級生の校舎に向かって走っていた。
しかし中に入るのはやっぱりちょっと怖かったので、木の陰に隠れて出て来る人々を見ていた。
もうほとんど大人な上級生達が通っていくたびにじわじわと影の中に隠れたが、目的の人物であるライヒアルトの姿が目にうつると半身だけ身を乗り出した。
話しかけようとしたが、ライヒアルトは級友らしき人々に囲まれていて、何やら楽しそうに話しこんでいる。
邪魔するのも、あの中に割って入るのも怖くて仕方ない。
こちらに気づかないだろうかと、ひょこひょこ顔を出していると、一瞬だけライヒアルトと目が合った…気がした。
確かに一度確認するような視線が、こちらを向いた気がするのに、ライヒアルトはすぐに目線を逸らせてしまった。
そのまま目の前を通り過ぎて行ってしまいそうだったから、ディータは思わず飛び出した。
「あ…!」
言葉が見つからず、ライヒアルトの服の裾を引っ張ると、周りに居た人々にに注目されてしまった。
「なんだ?下級生?」
「お前のファンか?」
悪意はないのかもしれないが、嘲笑に怯えてディータはすぐにでも引っ込みたい気持ちになった。
「あまり後輩をからかうものではないよ」
ライヒアルトは少し笑いながらそう言い、手で少しだけ距離をとった。
「はいはい。じゃあ、先帰ってるから」
「ああ、すまないね」
他の人の姿が遠くになると、ライヒアルトはようやくこちらを向いた。
「…こんにちわ、ディータ君。ひとりで来たの?」
「は、はい…あ、あの急にごめんなさい」
「いや、いいんだよ。場所を移そうか?」
「い、いいんですっ。すぐです、すぐ終わりますっ」
首をぐるぐる振って、何処かに行こうとするライヒアルトの裾をもう一度引いた。
少し驚いたような表情でこちらを見るライヒアルトの目と合う。
ディータはずっと手に持っていた封筒を、両手で持ってライヒアルトの目の前に出して見せた。
「てがみっ…有り難うございますっ」
「…え?」
目を丸くして、手紙を見つめるライヒアルトを余所に、ぺこりと頭を下げてディータはさっさと走り去った。
その後ろ姿を見つめ、後に残ったライヒアルトは、苦笑いを浮かべながら頬を掻いた。
「私じゃないんだけどな…」
今朝、ディータの元に突然送られてきた手紙。
送り主の名前は白紙だけど、確かに宛名には自分…ディータという名前が書かれている。
陽に透かしてみると、四つ折になった紙が黒い影となって見える。
親愛なる貴君。
傷つく事より傷つける事を恐れ、好きより嫌いと言えない貴君。
これから語る事を胸に内に留めろとは言わないが、一度は熟読するように。
空を飛ぶ鳥から見れば、我等凡て地を這う者に過ぎない。
ならば膝を折ろうが、両足で立っていようが変わりはしない。
惨めであり、凛々しい姿に変わりはしない。
それなのに君を見る者すべてが、君を蔑むだろうか。
また、苦しくないという事は、楽しくも無いという事。
影と光は同じ存在であるという事。
君の裏側には、何があるのだろう。
君の悩みは瑣末なものだといずれ知る日がくるだろう。
嘘だと思うのならばあと10年は待ってみたまえ。
もし10年たっても悩みは尽きず変わらないと言うのなら、直接言いに来たまえ。
文句くらいは受け付けよう。
そして君のその小さな悩みを奪って盗もう。
名無しの盗賊
「名無しの盗賊…」
正直に言うと書いてある事の半分は意味がわからない。
だけどもしかすると、もっと勉強して、もっと世界を知ればこの意味を理解できるのかもしれない。
昨日の今日なので、この手紙を出したのはライヒアルトだと考えた。
それにディータの事を知っているのはライヒアルトぐらいのものだ。
ただライヒアルトにしては言い方がちょっと違う気もしたが、彼のおかげでこの手紙をちゃんと読めた事には違いないのだ。
それよりも重要なのは、宛先の存在しない手紙に、返事が返ってきたということ。
無駄だと思っていた事に、意味が現れた事。
誰かに声が届いていたこと。
本当は手紙の主は誰でも良かったが、本当に10年後には会ってみたいと思った。
「将来のゆめ…かな?」
その先の未来が少しだけ明るく見えた事は、ディータにとって今日一番良い事になった。




