第6章 開戦準備
第6章 開戦準備
1.
重巡阿蘇での戦略会議の1週間後、山本の元に麻生から大量の図面が届けられた。
山本は旗艦を戦艦大和にしたが、執務室は麻生の意見を採り入れ海軍省に移動していた。
添付された手紙には局地戦闘機『震電』の設計図とあった。 手紙には開発推進者も
指名されていたので、早速山本は指名された鶴野 正敬大尉を呼んだ。
鶴野は技術者ではなくパイロットである。 パイロットとして使いやすい戦闘機の開発は
やはりパイロットが設計する方がいいのかもしれないと、山本は思った。
「鶴野 入ります!」
「おう。 入れ。」
鶴野が山本の執務室に入ってきた。
「長官、何のご用でしょうか?」
「忙しいところすまんが、大尉に頼みたいことがある。」
「私でできることであれば何なりとお申し付け下さい。」
「実はな、この航空機の試作・生産を推進して欲しいのだ。」
と言って山本は震電の図面を鶴野に渡した。
鶴野は図面を見るなり感嘆の声を上げた。
「すばらしい設計です。 私は常々同じ出力の発動機を使って高性能の戦闘機を作ので
あれば空気抵抗が少ない方がいいと思っておりました。
それには、外形寸法を小さくできる、このエンテ型ならば、胴体の前に武装を集中
できますし、操縦席、エンジン、それからプロペラという順番の配置になるので、胴体の
外形寸法を小さくできます。
普通の飛行機が飛ぶ時は水平尾翼の揚力はマイナスですが、エンテ型の前翼はプラスに
働きます。 しかもその効力は主翼より高いのです!
ですから、主翼を小さくできます。 また、前翼の吹き降ろし気流が、主翼と胴体
結合部付近の気流を整えて干渉抵抗をかなり減らす効果もあり、今後の航空機はエンテ型
しか無いと思っています!」
エンテ式とは推進機が機体後方にある機種の設計を指す。 名前の由来は、設計された
機体があたかも鴨の様な格好となることから付けられた。
この当時のプロペラ機は推進機であるプロペラが機首に着いてる。 これは、エンジン
出力の小さいプロペラ航空機には大出力のエンジンを必要とするエンテ式は向かない為で
ある。
「うむ、そう思ってな君をこの機の開発責任者にしようと思っておるのだ。」
「ありがとうございます。 必ず開発に成功させて見せます!
ただ気になるのは、この機体とエンジンを設計したのは誰ですか? 図面に名前が
ありませんが。」
「今は言えん。 この設計者は三菱の天才、堀越二郎をも凌ぐ人物で軍の最高機密に
属するのだ。」
「堀越二郎をも凌ぐ? 判りました。 軍の機密であれば詮索はいたしません。」
鶴野は十二試艦戦の改造の時、堀越が舌を巻いたという外国人技師の事を思い出した。
「たのむぞ。 できれば17年の1月には帝都防空の為に配備したいのだ。
その為には16年の夏までに量産の見通しができていなくてはならん。
あまり時間がないが君ならばできると信じておる。 よろしく頼む。」
「は! 他ならぬ長官のご命令ならば全力を尽くして完成させます!」
鶴野は山本が並々ならぬ期待を自分に寄せていることを知り感激していた。
史実では鶴野が震電の設計を始めるのが16年6月からであるが、開発に時間がかかり
完成した時には終戦を迎えていた。 だが、今回は設計図が出来ていたので開発にかかる
時間はかなり短縮できる。
歴史上の震電の性能は次のとうりである。
全幅 11.114m
全長 9.760m
全備重量 4,928kg
上昇限度 12,000m
航続距離 約22,000km
機銃 30ミリ×4挺
爆弾 30~60kg×4発
エンジン ハ-43-42
出力 2,130馬力
後部6枚羽可変ピッチプロペラ
最高時速 750km
だが、山本の手に届いた震電の性能は歴史上の震電を上回るものだった。
全幅 10.620m
全長 10.630m
全備重量 5,628kg
上昇限度 14,000m
航続距離 約36,000km
機銃 40ミリ×2挺
対空誘導ロケット弾 4発
エンジン 誉26型
出力 2,850馬力 排気過給器搭載
後部2重反転8枚羽可変ピッチプロペラ
最高時速 790km
レーダーによる夜間戦闘能力を有す
まさに高高度要撃機であった。 航続距離も史実の零戦並にあり、通常の戦闘機
としても、また高性能レーダーを搭載しているので夜間戦闘機としても利用でき、
40ミリの機関砲は戦車を要撃するのにも使えた。
プロペラ機は時速800km以上を越えることはできない。 それはプロペラの先端が
音速を超えてしまい、音速を超えたときに生ずる衝撃波でプロペラ,機体を破損して
しまうからである。
この震電はプロペラ機の速度の限界に挑戦していると言ってもよかった。
さらに、この震電は後でジェットエンジンに換装できるようにも設計されていた。
山本は外務省を通じてワルター・ドルンベルガー博士の来日をドイツに要請していた。
麻生の言うとうり独軍に冷遇されていたワルター博士は米内の強い要求もあってすぐに
日本にやってきて、潜水輸送艦のワルター機関の開発にいそしんでいた。
米内がUボートの群狼作戦をほめちぎり、ぜひとも日本海軍にも群狼作戦のできる
潜水艦を作りたいのでワルター博士を来日させて欲しいと懇願したのであった。
だが、本当の目的は潜水輸送艦の建造のため、既存のワルターエンジンを大型化する
為に呼び寄せたのであった。
2.
昭和15年7月になり、米内内閣は陸軍に軍備の拡張と事変の早期解決の為の撤退を
要求した。
これが引き金となり、陸相が参謀本部の突き上げで辞任し、陸軍が替わりの陸相を
選出しなかった為、米内内閣は総辞職に追い込まれた。
東条としては不本意な辞任であったが、日本を救うために参謀本部内の障害となる
顔ぶれが判ったので、説得工作を決意した。 その為には、多少なりとも参謀本部に
迎合して、近づく必要があったので辞任したのだった。
だが、米内は総辞職の前に難民保護法を制定した。 この法案は主に戦争難民となる
ユダヤ人救済の為であり、東条が首相になった時にユダヤ人国家建国のための礎で
あった。
同時にヨーロッパ各国の駐在大使にはユダヤ人には優先的にビザを発行するように
通達していた。
中国にも停戦工作を進めており、東条の協力もあって陸軍は中国軍に対し戦火を広げる
ような事をしなかった。 これは、中国軍が大陸内部におびき寄せ、補給路を分断する
作戦に対抗すべく戦線を縮小させるという陸軍の思惑と一致したせいでもあった。
米内の開戦に向けた布石は他にもあった。 輸送船,タンカーの増強と空母,軽空母の
建造は急ピッチで行われていたし、輸送船護衛用の駆逐艦、通商破壊・索敵用の潜水艦も
建造中であった。
また、航空機の生産とパイロットの育成にも力を入れていた。 航空学校は陸軍と
併せると8校も新設されており、生産された練習用航空機は航空学校に配備されていた。
石油貯蔵用のタンクの建築も米内が首相の間にかなり行われていて、対日石油輸出
禁止の行われる16年8月には約10年分の備蓄が可能になる予定だった。
すでに既存のタンクを合わせて8年分の備蓄が可能になっていた。
航空機の工場には隣に滑走路を作り、生産された航空機は直ぐにテストできるように
なっており、航空機は量産体制に入っていた。
この頃には海軍、軍令部には人道主義が根付き、一般人の海軍に対する評価は
三国同盟に対する厳しい条件は納得できないが陸軍に比べ愛想が良くなったという評判が
流れ始めた。
海軍と軍令部は麻生の意見をほとんど取り入れており、開戦準備は着々と進行して
いた。
陸軍も東条陸相が他の将兵に対し事あるごとに人道主義を強調し、ひいては人道主義が
将来の日本を救うのだと説いて回っていて、徐々にではあるが成果が出始めていた。
しかし、陸軍の参謀本部は頑なで、海軍と対立しようとして東条を困らせていた。
だが、対米戦の軍備に関しては去年から佐官クラス以上が、入れ替わり立ち替わりして
米国に視察しており、その工業力と兵器の性能を知っていたので東条の提案に積極的に
受け入れていた。
トランジスター等の電子部品は量産が始まっており、これらの電子部品を使った高性能
レーダー、通信機、電算機等が開発されつつあった。
電子部品は麻生の提言により、米内が首相になってすぐに国営の電子部品製造工場を建築
した。 この工場の製造装置は全て麻生が持ってきた物であった。
ここで電子部品から基盤まで作っていた。 さらにICの試作も行われていた。
成形炸薬弾や携帯ロケット砲は量産が進んでおり、近接信管も完成していた。
近接信管を利用した対空砲弾も量産され始め、戦艦や重巡の主砲用の零式対空弾も開発に
成功していた。 零式対空弾は史実の対空用砲弾の三式弾に改造を加えたものである。
爆弾用信管は風車で落下距離を測り、途中から赤外線の反射で地上10mの所で
爆発するようにできていた。
近接信管は有眼信管とも言われ、敵影を記憶しその近辺で爆発するようにできていた。
連合艦隊の戦艦は全て改装が終わっていた。 主な改装の項目は、原子炉の搭載と
タービンの変更により全艦最大船速42ノットとなっていた。 他にも、機銃は
レーダー,電算機内蔵の対空機銃に変更した。
副砲は戦艦同士の接近戦がありえないので撤去し、対魚雷迎撃用爆雷と短魚雷発射管,
高角砲,対空機銃の追加、レーダー,ソナーの追加を行った。
原子炉の搭載により、不要になった煙突内に誘導ロケット弾発射装置2基8発が
新規設置された。
艦首には対空ロケット弾発射口10基30発追加されており、戦力的には大和に劣る
ものの航空機に対する防御力は以前にまして大きくなっていた。
主砲もヒヒイロ合金製に取り替えられ、自動砲弾装填装置、砲塔旋回用モーター等を
取り付けて、主砲射撃間隔は3秒を切るまでに短縮されていた。 さらに仰角は70度
にまででき、主砲も対空迎撃が出来るようになっていた。
また、地下工場で製造されていた宇宙戦艦は月の裏側で時空爆弾の索敵に当たって
いたが、5ヶ月の間探査しても見つからなかった。
この頃には管理コンピュータの『アフロ』は全く未知の方式で時空爆弾が隠れていると
判断し、索敵の方法の検討や新しい索敵技術の検討をしていた。
麻生はこの『アフロ』の様子を見て地下工場は人間がいなくても技術の進化があり
得るのか興味深く観察していた。
翌8月に戦艦武蔵が完成、海軍に引き渡された。
3.
9月になって在日ラムウ国大使館に近衛総理が内密に訪れた。
ラムウ大使に会うためであった。 いくら軍機密扱いの国とはいえ、頻繁にレーダーの
購入や艦艇の改造をしているのである。 一応の独立国家としての名目上、大使を
作らざるを得なかった。 実際にはこの大使はアンドロイドである。
「我が国は日独伊三国同盟を締結する事を決定したのだが、どうかね、ラムウ国も
この同盟に傘下しないかね。 既に日ラ軍事同盟が締結しているので悪い話ではないと
思うのだが。」
「いいえ、我が国は日本とだけ軍事同盟を続けます。 大体、ヨーロッパの独伊が
太平洋において共同作戦ができると思いますか?
それに我が国は最初に独立国として承認していただいた貴国には恩義がありますが、
独伊には義理も恩もありませんから。」
と、この様に三国同盟の仲間入りを断った。 近衛首相の心象は悪くなったが理屈は
通っており、格安で大和級戦艦2隻,空母1隻を購入しており、また連合艦隊の全ての
戦艦の改装も行ってもらっていた上、最新鋭のレーダー・電算機内蔵の対空機銃や
レーダー,ソナーの購入をしていたのでそれ以上何も言わなかった。
同月27日に三国同盟は調印された。
この頃には頭の固い陸軍参謀本部も東条の意見を聞く様になっていた。
この日、東条は陸軍首脳陣と参謀本部首脳陣に次の様に力説した。
「諸君! 三国同盟が締結された今、米国とは必ず雌雄を決しなければならない。
また、我が情報では、米国が我が国に戦争を仕掛けてくることは確実となっている!
大国米国と戦うには半年以内に敵本土へ攻撃を仕掛け、米国の工業力を奪わねば国力の
劣る我が国に勝ち目はない!
敵本土へ攻撃を仕掛けるには長距離爆撃機の開発と海軍の連携は必要不可欠なので
ある。 面子にこだわっておっては敵の空襲を受け、帝都は灰燼に帰すことになる。
良い物は受け入れ、いたずらな開発競争は避け、戦略上どうしても必要な物は全力で開発
しなければならん!
統帥権の独立などという言葉は当分の間、倉にでもしまっておくべきである。
米国との決戦はもはや時間の問題である! 学力主義や偏見を捨て、民間人や学者
すらも参謀本部に動員して米国の分析を急ぐよう要請する! 敵を知り己を知れば百戦
危うからずである。
今は一時の猶予も惜しんでなりふり構わず行動すべき時なのだ!」
「しかし閣下、米国本土まで攻撃できるとは思えませんし、その必要も感じられません
が。」
「君は米国の工業力を見ていないからその様な呑気なことがいえるのだ!
仮に16年12月に開戦したとしよう。 それから1年間で敵は空母100隻以上、
潜水艦200隻以上も生産できるのだ。 こうなってからでは戦局をひっくり返すのは
出来なくなるし、敵の工業力を奪うことなど不可能になる。」
「閣下、我が日本民族は他の民族よりも精神力が高いのです。 数の差は精神力で
補えば良いではないですか。」
「では、君は燃料のない戦闘機を精神力で飛ばして敵と戦闘できるというのかね?
できるものならやって見せて欲しいものだがな。」
これには発言した将校も渋い顔をして「できません。」と答える以外にはなかった。
「精神力で何でもできるというのは明治以前の考え方だ。 近代戦は兵力の大きい方が
必ず勝つのだ。 精神力など戦力にはならん! この事を肝に命じておきたまえ!!」
居合わせた全員が沈黙してしまっていた。
「さらに、我が情報によれば米国はマンハッタン計画を実行している。 この計画は
1発で1都市を消し去り、後には放射能という生物の生存を許さない有害物質が残る
爆弾の開発だ。
この爆弾は原子爆弾と言い、いわば最終破壊兵器だ。
この兵器が18年初頭、いや早ければ17年の終わりに試作が出来るという。
もし、この原子爆弾を搭載した敵機が大挙して空襲に来たとしたまえ。
帝都どころか日本人は歴史から姿を消してしまうかもしれんのだ!
したがって開戦から半年以内に米国本土を攻撃しなければならないのだ!」
この東条の申し入れに、渋っていた参謀本部も次第に協力するようになった。
特に、極秘に米国に視察に行った将校は積極的であった。
だが、一部では米国本土への攻撃は補給面で不可能とみる者もいた。
東条がマンハッタン計画が早めに完成すると偽ったのは言うまでもない。
4.
翌年の昭和16年になるとヨーロッパの情勢はドイツが有利になっていた。
この頃になると海軍の全ての船舶にレーダー及びレーダーと電算機内蔵の自動対空
火器が設置されていた。 また、主砲用の零式対空弾も全ての戦艦,巡洋艦に配給されて
いた。
更に、鉄鋼砲弾の中身を零式対空弾にして、1発で敵艦を撃沈あるいは戦闘不能にさせる
ための一式鉄鋼弾の研究も行われていた。
戦艦に続いて空母,重巡も改装が終わっていた。 戦艦は全て原子炉に換装されて
いたので、史実のように碇停泊中でも大量の石油を消費することがなくなった。
空母は全ての主砲が撤去され武装は40ミリ機関砲と対空ロケット弾に変更されて
対空防衛力は格段に向上していた。 飛行甲板は1段に変更され、さらに赤城,加賀には
アングルド・デッキが採用されて、同時離発着が可能になっていた。
トップヘビーを避けるため、装甲甲板にはできなかったものの、甲板の随所には
移動できる対空機銃の為の固定用穴が各所に追加され、さながらハリネズミのような
武装となっていた。
格納庫は解放式とし万一直撃を受けても爆圧を左右に逃がすようになっており、
嵐などの時はシャッターで締め切ることも出来るようになっていた。
大型客船を改装した中型空母の雲鷹,沖鷹、護衛空母の飛鷹,隼鷹,神鷹,海鷹が
史実よりも早く完成していた。 水上機母艦の千歳,千代田も空母に改装されていた。
改装は全てラムウ国の工廠で行われたため、空母に改装されて日本に戻ってくる時は
巡洋艦のように見える偽装がされていた。
また史実と異なり、ミッドウェー敗戦後急造された大鳳,雲龍,天城,葛城の4空母も
大和級戦艦の資材を使って完成していた。 この4空母は全て日本国内で作られたため、
スパイの目を欺くため張りぼての煙突等を使ってカムフラージュされて造船された。
史実と異なり、12隻もの空母が開戦前に完成しており、南方方面の作戦にも空母を
割り当てることが可能になった。 12隻の空母は、帰港時に煙突などの艦上構造物を
偽装させ、米国にその存在を悟られないように工作されていた。
各空母の機関は全てガスタービンに換装、凌波性を良くするための艦首の改造が
された。
おかげで一番遅い神鷹でも27ノット、翔鶴,瑞鶴に至っては38ノットも出せるように
なっていた。
重巡は機雷敷設機の撤去、主砲をヒヒイロ合金に変更し仰角を70度まで上げて
対空迎撃もできるようにされていた。 その砲弾は成層圏の敵まで迎撃する事ができた。
凌波性を良くするため艦首を改造し、速度向上も計っている。
軽巡,駆逐艦は全て日本国内で改造された。 基本的に凌波性を良くするための艦首の
改造と燃料タンクの増大そして不要な機雷施設機を外した。
空母護衛用の軽巡,駆逐艦は魚雷発射管すら外されて、替わりに高角砲や対空機銃を
搭載された。 これにはさすがに水雷屋と呼ばれる駆逐艦乗組員が反対したが、艦隊
防空力の強化と言うことで説得された。
各艦艇ともダメージ・コントロールは強化されており、魚雷1発で沈没する事は考え
られなくなっていた。
海軍は改造された艦艇を使いこなすために、連日、猛訓練を行っていた。
戦艦大和の訓練には造船官平賀博士が乗り込み、隅から隅まで調べ廻っていた。
彼にしてみれば完成までに4年かかるのは当たり前であり、わずか数ヶ月で完成する
などと言うことは常識ではあり得なかったからだ。
しかし、調べれば調べるほどその設計思想の良さ、造船技術の高さを痛感するので
あった。 戦艦大和の設計を携わった平賀博士は、自分が設計した大和よりも桁違いの
戦闘力と防御力に脱帽したのであった。
この猛訓練で、大艦巨砲主義者の古賀中将は航空攻撃の威力を見せつけられたし、
海外で建造された大和は、駆逐艦並の小回りを見せて、航空攻撃をまったく寄せ付け
なかったので、己の器量の小ささを恥、改めて米内,山本の深慮望遠に脱帽したので
あった。
麻生の提言で東条,米内はドイツのロケット技術、ジェットエンジン技術を入手
しようと努力していたが、その甲斐あってジェットエンジン生産技術を入手できた。
後はより良いエンジンの生産が出来るかを三菱等の工場に打診していた。
また、フォン・ブラウン博士,テッヘル博士のロケット技術はスパイを使ってでも
入手するように勤めていた。
麻生は震電のジェットエンジン搭載型の設計図及を山本に託していた。
ジェットエンジン搭載の震電改は
全幅 11.020m
全長 11.030m
全備重量 6,828kg
上昇限度 16,000m
航続距離 約58,000km
機銃 40ミリ×2挺
爆装 対空誘導ロケット弾4発 又は 800kg爆弾1発 又は
航空魚雷1本
エンジン 寿11型×2(胴体内蔵)
出力 2,550馬力×2
最高時速 1590km
レーダーを内蔵し夜間戦闘能力を有す
となっており、主翼は折り畳めないが艦上機にも転用でき、搭載兵器を変える事に
より、艦爆,艦攻,戦闘機にもなる万能機となった。 さらに、最高速度が音速を超える
こともでき、敵地にすばやく侵入出来るようになった。
『ブレインズ』の設計したジェットエンジン『寿』の生産に見とうしがつけばすぐに
でも生産ラインに乗せられるように手はずを整えられていた。
既存の航空機にも全機無線装置が取り付けられ、偵察機にはレーダーや小型電算機も
設置されていた。
零戦,震電も順調に生産されていたが、爆撃機の生産は思ったほど延びなかった。
LSIを使った電算機は開発されており、この電算機を利用してマイクロプロセッサー
等の開発が加速される事が予想された。
超長波通信の無線も完成し、通常の無線と併設されていた。 これは敵にワザと偽りの
情報を流し、混乱させるための通常無線と、正しい作戦のみを通信する為の超長波無線
である。 普段は通常無線を使い米国を油断させる事に勤めていた。
麻生の指示した艦艇の改造もほぼ終わりつつあった。 軽巡は対空設備を強化し、
駆逐艦は対潜・対空設備を強化した。
さすがに魚雷発射装置を外した駆逐艦は少なかったが、それでも魚雷発射装置を
撤去して高角砲と機銃を強化した防空専用の駆逐艦は10隻にもなっていた。
真珠湾を模した攻撃訓練、夜間の空母からの離発着訓練など、対米戦を意識した訓練が
続けられていた。
陸軍は航空機において、100式司偵以外の生産を取りやめ、麻生から設計図を
渡されたB-17フォートレスを凌駕する空の要塞、一式重爆の生産に全力を尽くしていた。
一式重爆の性能は
エンジン 誉26型×4 排気過給器搭載
出力 2850HP×4
上昇限度 13000m
全幅 30.0m
全長 250.0m
最大速度 550km
航続距離 7600km
武装 20ミリ機関砲×6挺
爆弾 250kg爆弾×16 又は 1トン爆弾×4 又は
800kg魚雷×4
乗員 4名
となっていた。 まさに空飛ぶ要塞であった。 が、基礎工業力が低い為、生産し辛い
機体でもあった。
また、戦車においては75ミリ90式野砲を搭載した戦車を開発・量産していた。
装甲の厚い重戦車の開発も必要だという意見もあったが、屑鉄は艦艇の改装や砲弾の
備蓄を優先したため、重戦車の開発は行われなかった。
携帯兵器は、炸薬成形弾とロケット砲を組み合わせたものを生産していた。
とくにこの携帯ロケット兵器は戦車による大軍を相手にする名目で各部隊への配備を
急いでいた。
さらに中堅将校、場所によっては参謀本部の将校まで戦場になると予想される地域に
見聞を行わせ、現地の状況を持ち帰り作戦を検討していた。
この事は作戦立案に大いに役立った。
史実の陸海軍は作戦現地の見聞を行わず、地図上でのみ作戦を立案したため、補給
不可能な場所にすら将兵を向かわせ、食糧難で餓死者が続出し、戦力が半減する事が
良くあったのである。
2月になり、空母信濃が引き渡された。 信濃の仕様は
新型信濃:
満載排水量 7万4200トン
全長 287メートル
最大幅 42.1メートル
最大速力 48ノット
航続距離 200000海里
高角砲 12.7センチ2連装16基(32門)
自動追尾機銃 40ミリ3連装16基(48門)
20ミリ5銃身回転式30基
移動式対空機銃 25ミリ連装30台(60門)
対空ロケット弾発射口 20門60発
側舷短魚雷発射管 連装4基16本
爆雷射出機 4基64本
乗組員 1600人
完全防御方式 耐46センチ3重装甲
搭載機数 130機
飛行甲板 アングルド・デッキ採用
エレベータ 側舷に2基
飛行甲板のあちこちに対空機銃を固定できる穴がある。 これは、普段は格納庫の隅に
保管されており、いざとなればエレベータで上げられ、車で所定の位置まで牽引して
固定される移動式対空機銃の為にもうけられていた。
実物とこの仕様を交互に見て山本は「正に不沈空母だな。」と感嘆の声をあげた。
3月に大島 浩 駐独大使が日本からの電報でユーゴに内紛が起こる事を
リペントロップ外相に告げた。
これを受けたリペントロップ外相は大慌てでヒトラーに報告した。
電話を受けて仰天したヒトラーは直ちにベオグラードに連絡、内紛首謀者を捕縛し
事なきを得た。
喜んだヒトラーは感謝の意を日本に表したところ、日本からは近く米英との開戦に
なりそうなので、ジェットエンジン,ロケットエンジン,レーダーの技術提供の要請と
万一開戦となった場合の米英の即時宣戦布告を要求してきた。
米英への宣戦布告に関してはヒトラーにしてみればいずれ雌雄を決する相手であるので
快く承認したが、技術提供の方は肝心の研究者達が新兵器開発に没頭しており、すぐには
できなかった。
この内紛の情報は歴史を知っている麻生が山本に頼んでドイツに知らせたものだった。
この時期にドイツの力が無くなるのは困るからであった。
4月に米内が軍令部総長に返り咲いた。 山本の根回しで伏見宮がその籍を譲った
からであったし、伏見宮も対米戦が始まれば戦争を終結させることができるのは米内しか
いないと思っていた。
5月10日についにドイツはソ連に侵攻した。 歴史より一ヶ月以上早くバルバロッサ
作戦が始まったのである。 米国との開戦も間近であった。