王様の猫が、今日も私の机にやってくる
朝のうちに確認しておきたい書類を机に並べ、日付と担当部署を照らし合わせていると、窓のほうから小さな物音がした。
顔を上げると、開け放していた窓の縁に、茶と白と黒のぶち猫が座っていた。こちらを見ているのかと思えば、猫はすぐに室内へ顔を向け、慣れた様子で前足を踏み出す。
「あら、ミケが来たのね」
向かいの席から先輩の声がした。
ミケというのは、国王陛下が飼っている猫のことだ。正式な名前はミヒャエル・レオポルト・アウグスト・セバスティアン・エンリケ。陛下が自ら名づけたそうだけれど、あまりに長いためか、名づけ親である陛下まで普段はミケと呼んでいる。
「この部屋にも来るんですね」
「秋になると毎年ここに来るのよ。季節によって居心地のいい場所が違うみたいで、夏の間はあまり見かけないんだけどね」
「そうだったんですか」
私が王城で働き始めてから、もう半年になる。春に配属されたときからこの窓際の席を使っているけれど、ミケが訪ねてきたのは初めてだった。
窓枠から机へ飛び移ったミケは、積み重ねていた書類を器用によけながら近づいてきた。紙の端を踏まれないように少し引き寄せると、その動きが気になったのか、ミケが私の手元で足を止める。
「おいで」
指先を差し出してみると、ミケは鼻を近づけて匂いを確かめ、そのまま手の甲へ頬を擦りつけてきた。
「あらまあ。ずいぶん懐かれたわね」
「人懐っこいんですね」
「人には慣れているけど、初めて会った相手にそこまでくっつくのは珍しいわよ」
先輩が少し驚いた様子でこちらを見ている。
ミケの顎の下へ指を入れると、気持ちよさそうに目を細め、喉の奥からごろごろと音を立て始めた。
初めて会った相手、というのは少し違う。
父の用事で王城へ来ていた頃から、ミケとは何度も顔を合わせていた。庭を歩いていればどこからともなく現れて後をついてきたし、腰を下ろせば当然のように膝へ乗ってくることもあった。
ただし、それは私がレオノーラ・アルブレヒトだった頃の話だ。
今の私は、レイ・ヴァルトという名で予算課に勤める男性文官である。
公爵令嬢という身分を伏せて文官試験を受けたのは、自分の力が実際の仕事でどこまで通用するのか試してみたかったからだ。父には無理を言って協力してもらい、顔も髪も変え、声も魔道具で低くしている。
おかげで採用されてから半年、正体を疑われたことは一度もなかった。
それなのに。
「よく分かったな」
周囲に聞こえない程度の声で呟き、もう一度首の下を撫でてやると、ミケは返事でもするように私の手へ頭を押しつけてきた。
見た目が違っても分かるものなのだろうか。猫の鼻がどれほど利くのか知らないけれど、こうして以前と変わらず甘えてくるのは、少し嬉しい。
もっとも、いつまでも相手をしているわけにはいかない。
「さて、そろそろ仕事に戻らせてくれよ」
ひとしきり撫でてから手を離し、確認の途中だった書類を取ろうとすると、ミケがすかさず前足を伸ばしてきた。
ちょうど取り上げようとした紙の上に、白い前足が載っている。
「……それ、使うんだけどな」
端をつまんで引いてみたものの、ミケは前足をずらして、また同じ場所を押さえてしまった。
それなら反対側から、と手を伸ばすと、今度は両方の前足を載せてくる。
「ミケ。さっきまで散々撫でただろう?」
顔を覗き込んでも、当の本人は尻尾を一度振っただけで、書類を返すつもりはなさそうだ。
仕方なく別の書類から確認しようと手を伸ばしたところで、向かいの席から笑い声が聞こえてきた。
「気に入られたのはいいけど、大変そうね」
「そうですね。できれば書類だけでも返してほしいんですが」
「ミケに言って聞くかしら」
「今のところ、まったく聞いてくれませんね」
先輩に答えながら、もう一度書類へ手を伸ばす。
すると、こちらが紙に触れるより先にミケの前足が動いた。
どうやら今日は、仕事を片づけるのに少々時間がかかりそうだ。
◇
翌朝、窓を開けて机へ戻ったところで、昨日と同じぶち模様が窓枠に現れた。ミケは私と目が合うと、ためらいもなく机へ飛び移ってくる。
「今日も来たんですか」
「あら、やっぱりヴァルト君のところへ行くのね」
先輩が書類から顔を上げて笑った。昨日は紙を返してもらうのに苦労したので、今日は最初から机の端を空けてある。
「昨日ので覚えられたみたいですね。ミケ、寝るならここにしてくれ」
空いた場所を指で軽く叩くと、ミケはそこまで歩いて腰を下ろした。
「今日は話が通じそうですね」
「昨日よりはね」
先輩に返事をした途端、ミケが隣に置いていたペンへ前足を伸ばした。机から落とされる前に取り上げると、今度はペンを握った私の手を追いかけてくる。
「これは駄目だ。仕事で使うんだから」
ペンを持つ手を離して書類を確認し始めても、しばらくすると視界の端に白い前足が現れる。そのたびに手を引っ込める羽目になり、結局、昨日と大して変わらない速度でしか仕事が進まなかった。
昼前になり、廊下側の扉が開いた。
「失礼する。ミケが来ていないか」
聞き慣れた声に思わず顔を上げる。扉のところに立っていたのはクラウス・エルヴェイン。エルヴェイン公爵家の令息で、宰相を務める父の補佐官でもある。
私たちは子供の頃からの顔見知りだ。家同士の付き合いがあるため、茶会でも夜会でも何度となく顔を合わせ、そのたびに些細なことで張り合ってきた。勝ち負けを決めるような遊びをしなくなった今でも、彼と言い合う時間は私にとって楽しいものだった。
「来ていますよ。昨日からヴァルト君の机がお気に入りみたいで」
先輩の声で我に返ると、クラウスがこちらを向いた。いつもならレオノーラとして向かい合う相手に、レイの姿で見られているのが妙に落ち着かない。
「ヴァルト君、こちらは宰相補佐官のクラウス・エルヴェイン様よ」
「レイ・ヴァルトです。よろしくお願いします」
「クラウス・エルヴェインだ。よろしく」
クラウスはごく普通に挨拶を返すと、すぐミケへ視線を移した。
気づかれたくないから変装している。それなのに、こうも何事もなく通り過ぎられると少し面白くないのだから、我ながら勝手なものだ。
「今年はこの机が気に入ったのか。ミケ、戻るぞ」
クラウスが手を伸ばすと、ミケはするりとかわして私の腕の横へ入り込んだ。もう一度抱こうとした手からも逃げ、今度は書類の隣へ伏せてしまう。
「逃げられましたね」
「珍しいな。いつもはここまで嫌がらないんだが」
言っているそばからミケがペンを狙い始めたので、私は慌てて持ち上げた。前足までついてくる様子を見て、クラウスが口元を緩める。
「できれば連れていっていただけると助かります。朝からずっとこれなので」
「仕事にならないか」
「なってませんね。書類よりペンのほうが気になるみたいで」
「それなら連れていくか」
クラウスがまた手を伸ばそうとしたが、ミケは私のほうへ体を寄せるばかりだ。
「ミケ、そろそろ仕事をさせてくれ」
両脇に手を入れて持ち上げると、さっきまで逃げ回っていたのが嘘のようにおとなしく腕に収まった。そのままクラウスへ渡せば、今度は暴れることもない。
「俺からは逃げたのに、お前には素直だな」
「昨日からずいぶん懐かれてまして」
「随分気に入られたらしいな。今年はお前の机に通うつもりかもしれない」
「仕事の邪魔をしないなら歓迎します」
「それはミケ次第だな」
「……あまり期待できそうにないですね」
私が机に残ったペンを見下ろすと、クラウスは笑いながらミケを抱き直した。扉の向こうへ姿が消えるまで見送ってから、ようやく途中だった書類を引き寄せる。
◇
三日目の朝、窓枠にミケの姿を見つけた私は、真っ先にペンを引き出しへしまった。書類も机の奥へ寄せ、前足が届かないようにしておく。
「今日は何も取らせないからな」
ミケは聞いているのかいないのか、昨日から空けてある場所へ飛び移り、そこで毛繕いを始めた。
「あら、今日は準備万端ね」
「二日続けて邪魔されましたから。これくらいはしておかないと」
「そこまでして座らせてあげるの?」
「追い出しても、また来そうですし」
しばらくするとミケは前足を折りたたんで眠り始めた。今のうちにと書類へ集中していると、いつの間にか机の端が空いている。
「ミケ、いなくなりました?」
「さっき窓から出ていったわよ」
先輩に教えられて外を見たものの、庭にも窓枠にも姿はない。今日は早く帰ったのかと思い、再び書類へ向き直ったところで、机の下から硬いものが床を転がる音がした。
椅子を少し引いて覗き込むと、ミケが赤い組紐を前足で押さえていた。
「……いつの間に戻ってきたんだ。それに、それはどこから持ってきた?」
手を伸ばした途端、ミケは紐をくわえて机の奥へ下がる。引きずられた組紐の先が床を擦った。
「おい。たぶんミケの物じゃないだろう? 返してくれないか」
もう一度近づいてみても、今度は前足で抱え込んでしまった。
「見つけた」
頭の上から声がして、私は机の下から顔を出した。すぐ横にクラウスが立っている。
「補佐官殿。何かお探しですか?」
「ミケが赤い飾り紐を持って来なかったか?」
「それなら、ここにあります」
私が机の下を指さすと、クラウスは片膝をついて覗き込んだ。ミケは紐をくわえたまま、さらに奥へ体を引く。
「それだ。陛下の筆箱についていたものらしい」
「外したんですか?」
「いや、外れたところをくわえて逃げたそうだ。さっきから追ってるんだが、こういうときだけ逃げ足が速い」
クラウスは床に膝をついたまま手を差し出した。
「ミケ。寄越せ」
ミケは返事の代わりに組紐をくわえ直す。右から手を伸ばせば左へ、左から近づけば右へと逃げるので、クラウスはなかなか捕まえられない。
「駄目みたいですね」
「見れば分かる。お前も何か手を貸してくれないか」
このまま二人で追いかけても、ミケを喜ばせるだけだろう。私は椅子へ戻って引き出しを開け、昼食用に持ってきた干し魚を少しちぎった。
「何をしてる?」
「これと交換できないかと思って」
「それで出てくるか?」
「試してみます」
指先につまんだ干し魚を机の下へ差し出すと、ミケの耳がこちらへ向いた。鼻先を動かしながらも、しばらくは組紐を放そうとしない。
「ミケ。こっちにおいで」
もう一度見せると、ようやく紐をくわえたまま前へ出てきた。手の届くところに干し魚を置けば、ミケは迷わず組紐を放す。すかさずクラウスが拾い上げた。
「取れた。まさか本当に出てくるとはな」
「こっちのほうが欲しかったんでしょうね。じゃあ、これは約束なので」
ミケの前へ干し魚を置くと、夢中になって食べ始めた。クラウスは取り戻した組紐を指先で持ち上げ、私とミケを交互に見る。
「甘やかしてないか?」
「交換条件です。渡すと言っておいて取り上げるわけにはいきませんから」
食べ終えたミケは満足したらしく、今度はその場で前足を舐め始めた。
「ミケも連れていくか?」
「仕事の邪魔をしないなら、そのままでも構いません」
「昨日とは随分違うな」
「昨日はずっとペンを狙われてましたから。今日は今のところ、これだけです」
「陛下の物を持ち込まれてるけどな」
「それは困ります」
顔を見合わせて笑ってしまった。クラウスが組紐を持って立ち上がると、ミケはすっかり興味を失ったように机の端へ戻っていく。
「次は何も持ってこないといいな」
「本当にそうしてほしいですね」
クラウスが部屋を出ていったあとも、ミケは帰ろうとしなかった。何事もなかったように丸くなる背中を見て、私は小さく息をつく。
「反省してないな」
もちろん、ミケから返事はなかった。
◇
王城の大広間に入ると、楽団の演奏に混じって人々の話し声が聞こえてきた。すでに多くの招待客が集まっていて、色とりどりの衣装が燭台の明かりを受けている。
今夜の私はレイ・ヴァルトではなく、レオノーラ・アルブレヒトだ。母に付き添って国王陛下と王妃殿下の前へ進み、先に挨拶をしている夫人が退くのを待ってから、揃って礼をした。
「レオノーラ、久しぶりですね」
「ご無沙汰しております、王妃殿下」
「元気そうで安心しました」
「ありがとうございます」
「元気なのは間違いないだろう。それにしても今日はずいぶん華やかだな」
横から口を挟んだ陛下が、面白そうにこちらを眺めている。普段は文官として働いている姿もご存じなのだから、何を言いたいのかは分かっていた。
「……陛下、それは普段の私が地味だとおっしゃっているのでしょうか」
「いや。普段とはまるで別人のようだと思ってな」
「それは、お褒めいただいたことにしておきます」
「そうしておけ」
陛下が笑い、隣の王妃殿下も口元を押さえた。私はもう一度礼をして母とともにその場を離れる。少し進んだところで母に何を話していたのかと尋ねられたが、陛下のお戯れですとだけ答えておいた。
その後は顔見知りの夫人や令嬢たちと挨拶を交わし、途中で母と別れて友人たちの輪へ加わった。久しぶりに会う相手も多く、近況を聞いているうちに思いのほか時間が経っていた。
ようやく話がひと区切りついたところで給仕から飲み物を受け取り、菓子の並んだ卓へ向かう。皿の上には小さな焼き菓子がいくつも並んでいたけれど、目当てのものは残り一つだった。
手を伸ばしたのとほとんど同時に、横から別の手が現れる。けれど、私の指のほうがわずかに早く焼き菓子を取った。
「それ、俺も取ろうとしていたんだが」
聞き慣れた声に顔を向けると、クラウスが隣に立っていた。
「残念だったわね」
「一歩遅かったか」
「次はもう少し早くどうぞ」
「菓子一つでずいぶん得意そうだな」
「クラウスに勝ったからよ」
「昔から本当に負けず嫌いだな」
「それはお互い様でしょう?」
取った焼き菓子を皿に載せると、クラウスも別の菓子を選び、自然と並んで卓を離れた。こうして顔を合わせると、子供の頃と変わらず何かにつけて張り合ってしまう。
しばらく話していると、近くを通った給仕が新しい杯を差し出した。手元の飲み物が少なくなっていたので交換しようとしたところで、クラウスに止められる。
「そっちはやめておけ。かなり甘いやつだぞ」
「それくらい分かるわよ」
「前にもそう言って取って、結局俺に押しつけただろ」
「……よく覚えてるわね」
「忘れられるか」
クラウスは給仕の盆から別の杯を取り、こちらへ差し出してきた。受け取って一口飲むと、確かにこちらのほうが好みだった。
「こっちで正解だっただろ」
「そうね。今回は認めてあげる」
「ずいぶん上からだな」
「さっき負けた人にはこれくらいで十分よ」
「まだ言うのか」
クラウスが笑う。彼といると、昔のことを一つ持ち出すだけで、いくらでも言い合いが続いてしまう。
「そういえば、ミケが最近、予算課のヴァルトという文官の机を気に入ってる」
唐突に自分のもう一つの名前が出てきて、私は杯を持つ手を止めた。顔に出さないよう飲み物へ視線を落とし、できるだけ何でもない調子で尋ねる。
「そんなに気に入っているの?」
「ああ。最近は毎日のようにそこへ行ってる。昨日なんて陛下の筆箱についていた飾り紐を持って逃げて、またヴァルトの机の下に潜り込んでた」
「見つかったの?」
「ヴァルトが昼食の干し魚を出したら、すぐに出てきたよ。紐も無事に取り返せた」
「それならよかったじゃない」
「次から何か持っていけば干し魚がもらえると覚えなきゃいいけどな」
「それはありそうね。ミケ、気に入ったことはよく覚えているもの」
「そうなると、またヴァルトのところに持ち込むかもしれないな」
まさか目の前の相手が、そのヴァルト本人だとは思っていないのだろう。私も普段なら一緒になってミケの話をするところだけれど、今日は自分のことを他人の話として聞くのが妙な気分だった。
そんなことを考えているうちに、右手の人差し指が親指の爪へ触れていた。
「親指」
クラウスに指摘されて手元を見る。顔を上げると、彼の右手も指輪にかかっていた。
「指輪」
「俺もか」
「人のことを言えないでしょう」
「お前が先だった」
「先ならいいわけ?」
「よくないな」
そう言いながら、クラウスは指輪から手を離した。考え込むと親指を触ってしまう私と、無意識に指輪へ手をやるクラウス。子供の頃から何度も互いに指摘してきた癖だ。
「それで、何を考えてたんだ?」
「教えないわ」
「じゃあ聞かないでおく」
「あら、珍しく素直ね」
「聞いたところで、お前は言わないだろ」
「よく分かってるじゃない」
言い返したところで、少し離れた場所にいる母がこちらへ手招きしているのに気づいた。
「呼ばれてるから行くわ」
「ああ。またな」
クラウスと別れ、母のところへ戻る途中で自分の右手を見下ろした。あの癖は仕事中にも出ているのだろうか。少なくとも、今まで誰かに指摘されたことはなかったはずだ。
◇
翌朝も、ミケはいつもの窓からやって来た。私が机の端を空けるのを覚えてしまったらしく、窓枠から飛び移ると迷わずそこへ座る。
「今日は何も持ってないな」
声をかけると、ミケは一度こちらを見ただけで前足を舐め始めた。私は机に広げていた書類へ戻り、昨日の続きから数字を確認する。
午前中はおとなしく眠っていたミケだったが、昼前になると目を覚まし、机の中央へ歩いてきた。確認中の書類に前足が載ったので、紙をそっと引く。
「そこは使ってる。返してくれ」
ミケは前足をずらしてまた押さえた。昨日までのようにペンを取られることはなくなったものの、今度は書類が気になるらしい。
「……さっきまでおとなしかっただろ」
「何をしてるんだ、お前たちは」
声のしたほうを見ると、クラウスが机の前に立っていた。私とミケを見比べて、笑いをこらえている。
「補佐官殿。見てのとおりです」
「朝からずっとそれか?」
「今までは寝てたんですけどね」
「陛下のところにいなかったから、またここだろうと思って来てみたんだが、正解だったな」
「もう探す場所が決まってきましたね」
「おかげで助かってる」
「こっちは仕事が止まってますけど」
そう言って書類の端を引くと、ようやくミケが前足をどけた。私はすかさず紙を抜き取り、前の頁と見比べる。
ところが、合計額が合わない。計算をし直しても同じ数字になり、元の記録へ戻って一つずつ確かめていると、ふと誰かの視線を感じた。
顔を上げれば、クラウスがこちらを見ている。
「何ですか?」
「……いや、何でもない」
「そうですか」
少し妙な間があったけれど、数字のほうが気になっていたので深くは考えなかった。書類を一枚戻して確認すると、前の欄で転記を間違えている。
「あった」
「何が?」
「数字が合わなかった原因です」
「仕事してたのか」
「仕事中ですからね」
「ミケと遊んでるように見えた」
「邪魔されてただけです」
クラウスが笑うと、ミケはその声に反応したのか、書類から離れて机の端へ戻った。
「やっとどいてくれた」
「じゃあ、今日はこのまま置いていくか」
「書類に乗らないなら構いません」
「ずいぶん慣れたな」
「毎日来られれば嫌でも慣れますよ」
ミケは会話など聞こえない様子で丸くなっている。クラウスはそんなミケを見てから、何か考え込むように私へ目を向けたものの、結局何も言わずに部屋を出ていった。
私は手元へ書類を寄せ、見つけた転記ミスに印をつけた。
◇
翌日の昼前、机いっぱいに広げた記録と集計表を見比べていると、向かい側からミケを呼ぶ声がした。
「いたか」
顔を上げると、クラウスがこちらへ歩いてきていた。ミケは机ではなく、窓際に置いた椅子の上で丸くなっている。
「補佐官殿。ミケならあそこですよ」
「ああ、見つけた」
「迎えに来たんですか?」
「いや。陛下のところにいなかったから、どこにいるのか確認しに来ただけだ」
「なら、しばらくここにいると思いますよ」
眠っているミケを見たクラウスは、それでもすぐには帰らなかった。私は机へ視線を戻す。集計表の一か所だけ数字が合わず、どこで違ってしまったのかを探しているところだった。
「何か気になることでもあるのか?」
「数字が一つ合わなくて、どこで間違ったのか探してるところです」
元の記録を一枚めくり、次の項目へ目を移す。
「親指」
「指輪」
答えながら、別の書類を引き寄せた。ここでもない。では、その前の欄だろうか。
しばらく数字を追っていたが、クラウスが何も言わないことに気づいて顔を上げた。彼は右手を下ろしたまま、私を見ている。
「どうかしました?」
「いや。邪魔したな」
「はい。お疲れさまです」
クラウスは眠っているミケには手を出さず、机を離れた。視界の端で一度足を止めたようにも見えたけれど、こちらはまだ数字が合っていない。確かめるより先に、私はもう一度記録へ目を落とした。
◇
昼の鐘が鳴る少し前、窓辺で眠っていたミケが起き上がった。伸びをしてから窓枠へ飛び乗り、こちらを振り返りもせず外へ出ていく。
「もう行くのか。今日はずいぶんあっさりしてるな」
返事のない背中を見送り、途中になっていた書類へ戻った。残りは数項目だから、ここまで終わらせてから昼休みにしよう。
鐘が鳴ると周囲で椅子を引く音がし、同僚たちが次々に席を立った。私も最後の一枚を手元へ寄せたところで、廊下からクラウスが入ってくる。
「ミケはいるか?」
「少し前までそこにいたんですけど、窓から出ていきましたよ」
「そうか。陛下のところにもいなかったから、またここにいると思って来たんだが、少し遅かったみたいだな」
「だったら、補佐官殿がこちらへ来ている間に戻ったんじゃないですか? ちょうどすれ違ったのかもしれませんよ」
「それなら、わざわざ探しに来る必要もなかったな」
クラウスは窓の外へ目を向けてから、私の机に広げられた書類を見る。
「ところで、昼の鐘はもう鳴ったぞ。まだ仕事を続けるのか?」
「これだけ片づけてから行きます。あと少しなので、途中で止めるより終わらせたほうが早いですから」
「ちゃんと昼は食べてるんだろうな。この間は自分の干し魚をミケにやっていただろ」
意外な話を持ち出され、私は思わず手を止めた。
「まさか、あれだけが昼食だったと思ってるんですか? ほかにもちゃんと持ってきてましたよ」
「俺が見たのは干し魚だけだったからな。毎日ああいうもので適当に済ませてるのかと思った」
「ちゃんと食べてます。そこまで心配されるような食生活はしてませんよ」
「それなら、今日は俺が確認してやるか」
書類から顔を上げると、クラウスは何でもないことのようにこちらを見ていた。
「何を確認するんです?」
「昼を食べるんだろ。一緒に行けば、本当にちゃんと食べてるか分かる」
「……俺と一緒に昼を食べるんですか?」
「ほかに誰の話をしてるんだ。嫌なら無理にとは言わないが」
ミケを迎えに来るたびに話すようにはなったけれど、二人で昼食を取ろうと誘われたのは初めてだ。何か特別な理由でもあるのかと思ったが、クラウスは返事を待っているだけだった。
「嫌ではないですけど、急ですね。これだけ終わらせるので、少し待ってもらえますか?」
「ああ。それくらいなら待つ」
私は残りの項目を確認してから書類を揃え、確認済みの箱へ移した。机に散らばった記録を重ねて立ち上がると、クラウスは扉の近くで待っていた。
「お待たせしました。行きましょうか」
並んで廊下へ出ると、昼休みに入った職員たちが食堂のほうへ向かっている。私たちもその流れに加わった。
食堂にはすでに多くの職員が集まり、料理を受け取る列ができていた。二人分の料理をそれぞれ選び、空いている卓へ向かう。向かいに腰を下ろしたクラウスは、私が皿を置くなりその中身を確かめた。
「確かに干し魚だけではないな。それだけ食べるなら、俺が心配する必要もなかったか」
「だから最初からそう言ってるでしょう。あの日はたまたま干し魚を持っていただけです」
「ミケに全部やったのかと思ってた」
「少しだけですよ。俺だって昼食を全部渡したりしません」
「そこまで甘くはないか」
「補佐官殿よりは懐かれてますけど、何でも言うことを聞くつもりはありません」
「それは否定できないな。昔からあいつは気に入った相手には随分分かりやすい」
クラウスはそう言って、自分の料理に手をつけた。私も食べ始めると、今度は仕事の話を振ってくる。
「予算課にはもう慣れたのか? 半年もいれば、最初の頃とは随分違うだろ」
「そうですね。仕事の流れも分かるようになりましたし、最初よりは周りを見る余裕もあります。ただ、数字を一つ間違えると全部合わなくなるのは今でも面倒ですけど」
「それでも嫌そうには見えないな。昨日も随分長いこと数字と睨み合ってただろ」
「原因が分からないまま残すほうが気になるんです。どこで間違ったのか見つければ終わるので、そういう仕事は嫌いじゃないですよ」
「そういうところは昔から――」
クラウスが言いかけて、ふいに口を閉じた。私は料理を取ろうとした手を止める。
「何ですか?」
「いや。思っていたより、お前には向いてるんだろうなと思っただけだ」
「補佐官殿にそう言ってもらえるなら、悪くないですね」
「ずいぶん素直に受け取るんだな」
「褒められたときくらい素直に受け取りますよ。普段はあまり褒めてくれませんし」
「俺は何度か褒めたつもりなんだが」
「分かりにくいんですよ」
クラウスは笑って、自分の皿へ視線を戻した。私も料理を口へ運んだところで、また声をかけられる。
「それで、どうして文官になろうと思ったんだ?」
「そこまで聞くんですか?」
「せっかく一緒に昼を食べてるんだ。ミケの話だけして終わる必要もないだろ」
確かにそうだ。私が文官になった理由を知っている人は多くないけれど、レイ・ヴァルトとして答えるのに困る質問でもない。
「自分がどこまで通用するのか試してみたかったんです。試験に受かったなら、実際の仕事でもやっていけるのか知りたくなったので、そのまま働くことにしました」
「試すために王城で働こうと思うあたり、思っていたより無茶をするな」
「そうですか? 受かったのに働かないほうがもったいないでしょう」
「お前はそう考えるのか」
「補佐官殿は違うんですか?」
「俺なら、そこまでして試そうとは思わないかもしれないな」
「だったら、そこは俺のほうが行動力があるってことでいいですね」
「どうしてそうなる」
「今の話ならそうでしょう?」
クラウスは言い返しかけたものの、結局笑ってしまった。私は残っていた料理を食べ終え、空になった皿を少し持ち上げて見せる。
「これで、ちゃんと昼食を食べてるのは確認できたでしょう?」
「ああ。今日のところはな」
「今日のところ?」
「また干し魚だけ持ってきてたら分からないだろ」
「毎日確認するつもりですか?」
「それは今後考える」
「考えなくていいですよ」
私が皿を持って立ち上がると、クラウスも席を立った。
◇
それから、昼の鐘が鳴る頃にクラウスが予算課へ顔を出すことが増えた。ミケを探しに来たついでに昼食へ誘われる日もあれば、私が先に食堂へ行っているところへクラウスがやって来て、向かいの席へ腰を下ろすこともある。
毎日というわけではない。互いに仕事があるし、昼休みの時間が合わない日もある。それでも、以前ならミケを連れて帰るだけだった相手と、食事をしながら仕事や城の出来事を話すようになったのだから、不思議なものだ。
ある日、ミケは朝から私の机で寝ていたものの、昼前に陛下付きの侍従が迎えに来た。
「陛下がお探しですので、今日は連れて戻ります」
「分かりました。ミケ、今日はちゃんと帰れよ」
侍従に抱き上げられたミケは、名残惜しそうにこちらへ顔を向けていたが、暴れることもなく連れていかれた。私はようやく広くなった机で午前の仕事を片づけ、昼の鐘が鳴ると書類を重ねた。
席を立とうとしたところで扉が開き、クラウスが入ってくる。
「ちょうどよかった。昼、行くか?」
「ミケなら陛下のところですよ」
「知ってる。さっき見た」
椅子を引きかけたまま、私はクラウスを見た。
「……知ってるんですか?」
「ああ」
「じゃあ、何をしにここへ来たんです?」
「お前と昼を食べようと思って」
あまりにも普通に言われたので、返す言葉がすぐには出てこなかった。これまでは、ミケがいるからここへ来ているのだと思っていたのに。
「この間は、ちゃんと昼を食べてるか確認するためじゃなかったんですか?」
「最初はそれで誘ったな」
「最近はミケがいなくても来ますよね」
「そうだな」
否定する様子もない。私は片づけかけていた書類を机へ戻し、もう一度尋ねた。
「何でですか?」
クラウスは答える前に室内を見回した。向かいの席の先輩は席を外していて、近くにこちらの話を聞いている者はいない。それを確かめたように、クラウスが声を落とす。
「分からないか、レオノーラ」
一瞬、聞き慣れた自分の名前がここで呼ばれたことを理解できなかった。レイとして働いているこの部屋で、その名前を聞くはずがない。
「……誰のことです?」
「その返しはさすがに無理があるだろ」
「何を根拠に――」
「親指」
そこで言葉が止まった。クラウスは私の手元を見ながら、あの夜会の話を始める。
「前に夜会で会ったときも、考え込んで親指を触っていただろ。そのあとヴァルトが同じことをしてるのを見た」
「それだけで?」
「それだけなら似た癖の奴がいると思ったかもしれない。でも次の日、俺が『親指』と言ったら、お前は何の迷いもなく『指輪』と返した」
クラウスが右手を持ち上げる。指にはいつもの指輪があった。
「そのとき、俺は指輪に触ってなかった」
数字が合わずに書類をひっくり返していた日のことを思い出す。あのとき私は、クラウスに何を言われてどう答えたのか、ほとんど意識していなかった。
けれど、言われてみれば確かに、あの掛け合いは子供の頃から二人で繰り返してきたものだ。
「……いつから分かってたんですか?」
「確信したのはそのときだ。ミケがお前に妙に懐いてるのも気にはなってたけど、それだけじゃ分からないからな」
私は椅子の背へ手を置いたまま、これまでクラウスと交わした会話を思い返した。そういえば、初めて昼食へ誘われたのは、ちょうどあの日のあとだった。
「……じゃあ、最初に昼へ誘ったのは」
「確信した日だな」
「どうして文官になろうと思ったのかって聞いたのも、知っててですか?」
「ああ」
「趣味が悪いです」
「お前の口から聞きたかったんだよ」
あっさり返されて、頬が熱くなる。私は何も知らずに、自分の力を試したくて働いているのだと得意になって話していた。クラウスはそれを、レオノーラだと分かったうえで聞いていたのだ。
恥ずかしい。それなのに、彼が「お前の口から聞きたかった」と言ったことも気になって、うまく言い返せない。
「それなら、どうして何も言わなかったんです?」
「わざわざ正体を隠して働いてるのに、俺が勝手に暴く理由がないだろ。それに、周りに聞かれるような話でもない」
確かに、誰かに知られれば困るのは私のほうだ。クラウスは近くの机に人がいないことをもう一度確かめてから、少し笑った。
「ただ、知ったら知ったで、レイ・ヴァルトとして働いてるお前がどんな奴なのか気になった」
「中身は同じですよ」
「そうでもない。俺と話してるときのお前と、仕事してるときのお前じゃ随分違う」
「それは仕事中なんだから当たり前でしょう」
「そういう返しをするところは同じだけどな」
思わず言い返そうとしたところで、開いていた窓からミケが飛び込んできた。私たちの間を通り抜けるように机へ飛び移り、いつもの場所へ腰を下ろす。
「……陛下のところに戻ったんじゃなかったのか?」
ミケは私の声など気にも留めず、前足を揃えて座っている。クラウスがそれを見て笑った。
「やっぱり戻ってきたな」
「笑ってないで、連れて帰ってください」
「今来たばかりだろ」
「誰のせいでこんな話になったと思ってるんですか」
「ミケじゃないか?」
机の上のミケを見て、否定しようとした言葉を飲み込んだ。確かに、クラウスがこの部屋へ来るようになったのは、ミケが私の机を気に入ったからだ。
その当のミケは、私たちの会話に興味もないらしく、さっそく毛繕いを始めていた。
◇
※クラウス視点
レオノーラとは、物心がついた頃にはもう顔を合わせていた。
同じ公爵家ということもあって互いの屋敷を行き来することが多く、茶会や夜会でもよく一緒になった。子供の頃は遊戯をすれば勝った負けたで言い合い、どちらかが納得しなければ、もう一度やることになる。大人たちが次の話題に移っても、二人だけで勝負を続けていたこともあった。
面倒だと思うときがなかったわけではない。それでも次に会えば、こちらから何かと話しかけていたし、彼女が来ると聞いている日は、つい姿を探してしまった。
ミケが陛下のもとへ来たばかりの頃のことも覚えている。自分が呼んでも振り返るだけだったミケが、レオノーラを見つけると椅子から飛び降り、まっすぐ彼女のところへ走っていったのだ。
「何でお前のところに行くんだ」
「私のことが好きなんじゃない?」
「さっき会ったばかりだろ」
「それでもクラウスより私のほうが好きなのかもしれないわね」
「そんなわけあるか」
そう言い返したものの、ミケはそのあともレオノーラの膝から降りようとしなかった。それ以来、二人が同じ場所にいれば、ミケは彼女のほうへ行くことが多い。
年を重ねるにつれ、張り合う内容は変わった。家のことや社交のことを話すようになっても、顔を合わせれば互いに言い返すのは相変わらずだった。彼女と話していると楽しい。それもずっと変わらなかった。
そんなある日、ミケを探して予算課へ行くと、見慣れない若い文官の机に居座っていた。自分が抱き上げようとすれば逃げるくせに、ヴァルトというその文官には平気で触らせている。ずいぶん気に入ったものだと思ったが、あの頃はそれ以上のことを考えなかった。
何度かミケを迎えに行くうちに、ヴァルトとも話すようになった。書類を押さえられれば文句を言い、ペンを狙われれば取り返そうとする。それでも本気で追い出すことはなく、陛下の飾り紐を持ち込まれたときには、自分の昼食に持ってきていた干し魚と交換して取り戻した。
こちらが補佐官だと知っていても、必要以上に遠慮はしない。言いたいことがあれば普通に言い返してくるので、ミケを探しに行っただけなのに、つい話し込むこともあった。
その後、王城の夜会でレオノーラと顔を合わせた。菓子を取り合って、飲み物の好みを言い当て、いつものように言い合った。その途中、彼女が考え込んで親指へ触れたので指摘すると、こちらの指輪を指摘し返してきた。
翌日、予算課でヴァルトが親指に触れるのを見たとき、夜会のことが頭をよぎった。だが、癖が同じというだけで別人を疑うのは無理がある。
その次の日、数字を確かめるのに夢中になっていたヴァルトへ、つい「親指」と声をかけた。すると、こちらが指輪に触れてもいないのに、彼は顔も上げず「指輪」と返した。
あの返事を、何の迷いもなくできる相手を自分は一人しか知らない。
それまで別々だった出来事がつながった。ミケの懐き方も、仕事中の何気ない仕草も、言い返してくるときの調子も。目の前にいる若い文官は、顔も髪も声も違うのに、レオノーラだった。
半年もの間、同じ城で働いていたことを知らなかったのは、さすがに可笑しかった。しかも自分は、ミケを探しに行くたびにヴァルトと話すのを楽しみにしていた。その相手がレオノーラだと分かったあとも、今までと同じように顔を合わせられるだろうかと考えてしまう。
彼女は昔から、勝負に勝つと本当に嬉しそうな顔をした。自分はその相手の一人にすぎないのかもしれない。それでも彼女と話せるなら構わないと思ってきた。
けれど、ヴァルトとして働く彼女を知った今は、勝ち負けを言い合っていない時間にも、もう少し一緒にいたいと思うようになっていた。
◇
仕事を終えて屋敷へ戻ると、自室へ向かう廊下で侍女に呼び止められた。手には一通の封書が載っている。
「エルヴェイン公爵家から届いております」
「クラウスから?」
差出人を確かめると、見慣れた名前が書かれていた。部屋へ入ってから封を切り、便箋を広げる。長い挨拶もなく、用件だけが書かれているのはいかにもクラウスらしい。
『次の休みは予定があるか。なければ、一緒に出掛けないか』
そこまで読んで、思わず最初から読み直した。
予定を聞かれること自体は珍しくない。家同士の付き合いも長く、夜会や茶会で顔を合わせる機会も多い。けれど、クラウスがわざわざ手紙を寄越して、二人で出掛けようと誘ってきたことはなかった。
「……一緒にって、二人で?」
便箋にはそれ以上の説明がない。返事を書こうと机に向かい、紙とペンを用意したものの、最初の一行で手が止まった。
次の休みに予定はないし、誘われたことも嫌ではない。それなら行くと返せば済むはずなのに、なぜか書き始められない。
何度か便箋を読み返したあと、私は返事用の紙を引き出しへ戻した。今日はもう少し考えてからにしよう。
翌朝もミケは私の机へやって来た。窓際で眠り、昼を過ぎても帰ろうとしない。午後の仕事がひと区切りついた頃、予算課の扉が開いた。
「やっぱりここにいたか」
「今日は朝からずっといますよ」
クラウスがミケへ手を伸ばすと、猫は一度匂いを嗅いでから素直に抱き上げられた。
「今日は大人しいな」
「眠いんじゃないですか?」
「かもしれないな」
ミケを抱いて帰ろうとする背中を見て、昨日の手紙を思い出した。このまま返事をしなければ、いつまでも気になってしまう。
「補佐官殿」
「何だ?」
「少しよろしいですか?」
クラウスが足を止めて振り返った。私は周囲に聞こえないよう声を落とす。
「昨日、手紙が届いたんですけど」
「ああ」
「……あれ、二人で出掛けるって意味ですか?」
クラウスが少し眉を上げた。
「ほかに誰かいると思ったのか?」
「書いてなかったでしょう。『一緒に出掛けないか』としか」
「俺からお前に送った手紙なんだから、二人で行くつもりだった」
「そういうものですか?」
「少なくとも俺はそのつもりで書いた」
何でもないことのように言われてしまい、今度はこちらが黙る。クラウスの腕の中でミケが顔を上げ、私たちを交互に見た。
「それで、予定は?」
「ありません」
「なら行くか?」
昨日から考えていたことなのに、本人を前にすると返事をするまで少し間が空いてしまった。
「……はい」
「分かった。時間はあとで知らせる」
「場所は?」
「それも決めたら知らせる」
「何も決まってないじゃないですか」
「お前の予定が空いてるかも分からなかったんだから、先に決めても仕方ないだろ」
「それはそうですけど」
「行きたいところがあるなら考えておけ」
「私が決めるんですか?」
「二人で行くんだから、俺だけで決める必要もないだろ」
その言い方を聞いて、ようやく本当に二人で出掛けるのだという実感が湧いてきた。
「分かりました。考えておきます」
「ああ」
クラウスがミケを抱き直して廊下へ向かう。数歩進んだところで、ミケが肩越しにこちらを振り返った。
「ミケ、今日はちゃんと帰れよ」
「お前が呼ぶから戻りたがるんじゃないのか?」
「呼んでませんよ」
「今呼んだだろ」
「そういう意味じゃないです」
クラウスは笑いながらミケを連れていった。私は扉が閉まるのを見届けてから机へ戻ったものの、次の休みにどこへ行こうかという考えが、しばらく頭から離れなかった。
◇
次の休みの日、約束の時間より少し早く待ち合わせ場所へ着くと、クラウスはすでに来ていた。通りを行き交う人の中に見慣れた姿を見つけ、こちらから声をかける。
「早いわね」
「お前にだけは言われたくない。まだ約束の時間前だぞ」
「遅れるよりいいでしょう?」
「俺も同じ理由だ」
結局、顔を合わせた途端に張り合うような言い方になってしまった。思わず笑うと、クラウスも笑った。
「それで、今日はどこへ行くの?」
「この前、新しい店ができたって話してただろ。まずそこに行こうと思ってる」
「覚えてたの?」
「夜会で聞いた」
「私、行きたいとまで言ったかしら」
「気になるとは言ってた」
言われて思い返すと、確かに友人たちとそんな話をしていたところへ、途中からクラウスが加わった覚えがある。自分でも忘れかけていた会話を覚えていたらしい。
「よく聞いてるわね」
「聞こえてたからな」
「そういうことにしておくわ」
「何で疑うんだ」
「クラウスだから」
「理由になってないだろ」
言い合いながら歩き出す。普段なら王城か互いの屋敷、あるいは夜会や茶会で顔を合わせることがほとんどだ。こうして待ち合わせをして、二人だけで街を歩くのは初めてだった。
通りに並ぶ店の看板を見ながら歩き、目当ての店に着くと、二人で中を見て回った。私が気になった品を手に取ればクラウスも覗き込み、彼が別のものを見つければ私もそちらへ寄っていく。昼になって食事をしたあとも、すぐに帰ろうという話にはならなかった。
仕事のことを話す必要もなければ、社交の場で誰と挨拶を交わしたかを気にする必要もない。そんな時間が思いのほか楽しくて、店を出たあとも気づけば次に寄る場所の話をしていた。
午後になり、通り沿いの店で飲み物を買って外へ出たところで、クラウスが私の手元を見た。
「今日は親指、触らないんだな」
「そんなにいつも触ってないわよ」
「考え込んでないってことか」
「今日は数字も書類もないもの」
「俺といるときは?」
何気なく答えたつもりだったのに、思いがけない問いが返ってきた。私は飲み物の杯を持ち直し、隣を歩くクラウスを見る。
「何を答えさせたいのよ」
「別に」
「絶対何かあるでしょう」
「だったら自分で考えろ」
「そうすると親指を触ることになるけど」
「それは困るな」
「どうしてクラウスが困るの?」
「また指輪って言われるから」
言われて彼の手を見ると、すでに指輪へ触れていた。
「指輪」
「ほらな」
「自分から触ったんでしょう」
「癖だから仕方ない」
「それ、私が言ったことあるわ」
「知ってる」
あっさり返されて、今度はこちらが笑ってしまった。クラウスも指輪から手を離し、私の歩調に合わせて隣を歩いている。
しばらくして、ずっと気になっていたことを聞くなら今かもしれないと思った。
「クラウス」
「何だ?」
「どうして私を誘ったの?」
「今さら聞くのか」
「手紙をもらってからずっと気になってたの。今まで二人で出掛けようなんて言ったことなかったでしょう」
クラウスはすぐには答えなかった。人通りの多い場所を少し進み、通りの端へ寄ったところで足を止める。私も隣で立ち止まると、彼はこちらを向いた。
「レイがお前だって分かってから、知らなかったお前を随分見た気がしたからかな」
「知らなかった私?」
「仕事してるところなんて見たことなかっただろ。ミケに邪魔されて文句を言って、それでも追い出さなくて、数字が合わないってずっと書類と睨み合ってるところも」
「最後のは別に知らなくてもよかったんじゃない?」
「俺は面白かったけどな」
「人が困ってるのを見て?」
「そういう意味じゃない」
クラウスが笑ったので、私は少しだけ眉を寄せてみせた。すると彼は、言葉を選ぶように一度視線を落としてから続ける。
「昔から知ってるつもりだったけど、知らないところもあったんだなと思った。それでも話してみれば、結局お前だった」
「それはそうでしょう。同じ人間なんだから」
「ああ。だから、今度はミケも仕事も関係なく会ってみたくなった」
思っていたよりまっすぐな答えだった。クラウスは照れ隠しに冗談を言うでもなく、ただ私の返事を待っている。
「……そういうこと、普通に言うのね」
「聞いたのはお前だろ」
「もう少し適当に誤魔化すかと思ったの」
「誤魔化す必要があるか?」
そう聞かれると困る。私が黙っていると、クラウスが少し顔を覗き込んだ。
「嫌だったか?」
「嫌なら来てないわよ」
「それならいい」
「それだけ?」
「何が?」
「……もういい」
「何なんだ」
いつもならそこでまた言い合いになるのに、今日はそれ以上続ける気になれなかった。私たちは歩き出し、しばらく通りを進む。隣にいるクラウスの横顔を見ているうちに、今度は私のほうから口を開いた。
「私ね、クラウスは私と勝負するのが好きなだけだと思ってたの」
「何の話だ」
「だから手紙をもらったとき、本当に驚いたのよ。勝負の相手なら、わざわざ二人で出掛けようなんて誘わないでしょう」
クラウスが足を止めた。私も立ち止まって顔を見ると、彼は驚いたようにこちらを見ている。
「それは、俺のほうがずっと思ってたことだ」
「どういうこと?」
「お前は勝つたびに、一番楽しそうな顔をするだろ。相手が俺でなくても、同じ顔をするんだと思ってた」
「そんなわけないでしょう。相手がクラウスじゃなかったら、あんな顔はしないわ」
口にしてから、何を言ったのか気づいた。勝つことが楽しいのではなく、クラウスに勝つことが楽しい。そう言ったも同然ではないか。
クラウスは何も言わなかった。けれど、いつの間にか右手が指輪へ触れていて、耳の端が少し赤い。
「指輪」
「……言うな」
吹き出すのをこらえようとしたものの、クラウスが困った顔をするので、結局二人とも笑ってしまった。
通りの角まで来たところで、今度はクラウスが口を開く。
「また誘ってもいいか?」
最初の手紙をもらったときのように、聞き返したりはしなかった。
「予定が合えばね」
「そこは普通にいいって言えないのか?」
「クラウスが得意そうな顔をするから嫌なの」
「もうしてるけどな」
見ると、本当に得意そうな顔をしている。夜会で菓子を取り合ったときにも、似たようなやり取りをした気がした。
「じゃあ言わなくて正解だったわ」
私がそう返すと、クラウスはまた笑った。
◇
次の出勤日、いつものように朝の書類を広げていると、窓枠にミケが現れた。もうすっかり道を覚えてしまったらしく、迷うことなく私の机へ飛び移ってくる。
「おはよう。今日も来たのか」
頭を撫でると、ミケは当たり前のように机の端へ移動し、そこで丸くなった。以前はペンや書類を取られないようにするだけで一苦労だったけれど、今ではミケの場所を空けてから仕事を始めるのが習慣になっている。
しばらくして予算課の扉が開き、クラウスが入ってきた。こちらへ向かってくるのを見て、私はいつものように声をかける。
「補佐官殿。ミケならここですよ」
「ああ。知ってる」
「知ってる?」
「さっき陛下のところから出ていくのを見たからな」
それなら、ミケを探しに来たわけではないらしい。クラウスは机の前で立ち止まり、いつものように私を見る。
「じゃあ、何か用ですか?」
「昼、一緒にどうだ?」
机の端では、ミケが何も知らない顔で目を閉じている。私はその丸い背中をちらりと見てから、クラウスへ向き直った。
「……今日は干し魚の確認じゃないですよね?」
「もうその理由はいらないだろ」
クラウスが笑う。その顔を見て、私もつられて笑ってしまった。
「分かりました。昼になったら行きましょう」
「ああ」
そう返してクラウスは部屋を出ていった。私は書類へ戻る前に、机の端で丸くなっているミケをもう一度見る。
最初は仕事の邪魔をされて困っていたのに、今ではこの猫が窓から入ってくるのを、毎朝当たり前のように待っている。
ミケはそんなことなど知らない様子で、気持ちよさそうに眠っていた。




