九、特別な存在
今の自分が、落ちているのか打ち上げられているのか……廊下を歩いているはずなのに、体はフワフワとしている。
そんな状態で、朝の仕事の外掃除が終わった。
「ルスティ。今日ずっと顔色悪いわよ?」
アイシアが昼食を食べながら、心配まではしていない感じで聞いてきた。
昨日の、陛下との訓練が原因なのは分かっているのだろう。
「うん……。まだ、昨日の移動魔法の、変な感覚が抜けなくて」
「すごい。もう飛べるようになったんだ?」
パッと目を輝かせ、アイシアは胸の前で小さく拍手をしてくれた。
その大きめの胸も一緒に、小刻みに揺れる。
「えっと、ううん。出来なくて悩んでる」
僕も……いずれ膨らんだりするのだろうか。想像がつかない。
(そういえば、そういう感覚が起きないや)
男だった時のような、欲を感じないことにフと気が付いた。
「ルスティ。あなたも、もう少し大人になったら大きくなるわよ」
めちゃくちゃ見てしまっていたらしい。アイシアは胸を手で押さえながら、あまり人のを見ないように、と窘めつつ慰めてくれた。
「あ、ごめんなさい」
僕は目を伏せて、気恥ずかしさで俯いた。
「いいのいいの。お年頃だもんね」
欲は湧かなかったけれど、物凄く興味を持って見てしまっていたから、同罪だと思った。だから、アイシアの優しさが余計に心に刺さる。
もう、見ないように気を付けよう。
「それで、移動魔法の訓練は今日もあるの? ルスティが居ないと、お掃除がつまんないのよね。あ、でもルスティが大変なのも分かってるつもりよ? 変な風に受け取らないでね? 寂しいってだけなの」
「う、うん。僕も寂しい。陛下はちょっと、怖い感じがするし」
「そりゃあそうよ! だって陛下だもの。私は遠くから見るだけでいっぱいよ。ルスティは頑張っていると思うわ」
アイシアとゆっくり話せるのは、この昼食の時だけになってしまった。
だからか、今日のアイシアはよく喋る気がする。
一週間ほど毎日同じ場所で仕事をしていたのが、急に午前だけになってしまったから。
彼女の人懐っこさはもしかすると、どこか寂しがり屋さんの部分の、裏返しかもしれないと思った。
そういう僕も実は、不安と寂しさが入り混じっている。本当なら、アイシアと毎日一緒に掃除をして、一緒に食事をとって、また明日ね、と眠りにつく生活が良かった。
ちなみにお風呂は、陛下に洗濯された大浴場ではなくて、腰上まで浸かる縦長の一人用湯船に、時間を決められて交代で入るシステムだった。常に水流を感じるので、お湯全体がどこか繋がっていて、流れているらしい。肩まで浸かる時に、その水流を正面から受けるか、後ろから受けるかで派閥があったりもした。横派は少数で、前後ろ論争からは弾かれる。
とにかく、目隠し用の壁で隔てられたそれがいくつも並んでいて、整列して順に待つのだ。
お喋り出来るのは、順番待ちの間だけになっている。女子がお喋り好きなのは、どちらの世界でも、そして魔族も、関係なく同じらしい。
そんな変わらない毎日が、不安なく過ごせるのが、楽しいと感じている。
元の世界では、生活のための苦しさを感じて仕事をしていたのに、今はどうだろう。お金なんて貰えないだろうけど、満足していると思う。
子どもになってしまったから、というのもあるかもしれないけれど。ちょっと頑張れば、認めてくれたりする。指示に従って、素直にしていれば嫌な事も言われないという、そういう人達に囲まれているのも大きい。
心が疲弊しないのだ。それだけで、この世界に来られて良かったなと思う。
「ルスティ。そろそろ時間ね」
その声に、どうやら現実逃避の思考に耽っていたことに気付かされた。
今からまた陛下と訓練だと思うと、マンツーマンなのが余計に気が重い。
せめて、他の人達に紛れてなら良かったのに。あの人はいちいち、僕を脅して楽しんでいるきらいがあるから。
悪い人ではないのだけど。たぶん、根っからのドSだ。
「今日は一緒に訓練場まで行きましょ。お見送りしてあげる!」
「え、いいの?」
「私もそうしたいし、元気がないルスティも心配だもの」
「ありがとう……!」
このままアイシアに、少しだけ甘えながら生きていくのも、悪くない。
でも、結婚とかもあるだろうし、ずっと一緒というわけにもいかないか。
訓練場に向かう廊下で、ラティアさんとミリーちゃんが前から来た。
とっさにミリーちゃんに手を振りそうになった所を、アイシアが「端に寄って頭を下げなさい!」と、小声で鋭く言った。
その並々ならない雰囲気に、僕も慌てて同じようにした。
確かに、前にお会いした時とラティアさんの雰囲気が違う。厳かで、近寄り難いオーラを感じる。ミリーちゃんも無邪気な子どもではなくて、感情を読み取れない不思議な微笑で表情を固めている。
そして、相変わらず地を滑るように進むラティアさんと、それをマネしようとしつつ出来ていないミリーちゃんが、ちょうど目の前に来た時に、話しかけられた。
「あらぁ、ルスティじゃない。かしこまっちゃってぇ。隣は指導の子? ……うんうん、偉いわねぇ。頑張るのよぉ?」
僕とアイシアを交互にジッと見て、少し間を置いてからの言葉には、何か含んでいるように感じる。けれど読めない人だから、深読みしてもよくないと思って、僕は普通に返事をした。
「はい。頑張ります」
うっかり頭を上げて、目を見て答えると、アイシアはさらに頭を深く下げ、「この子がとんだ失礼を! 申し訳ございません!」と、強張った声で叫ぶように言った。
アイシアはかなり緊張している。僕は立ち回りをしくじってしまったらしい。
でも、そこに元気いっぱいの声で、ミリーちゃんが話しかけてきた。
「おねーちゃん。まだ飛べないの? えっとねぇ……飛べるんだよ?」
「ふぇ? う、うん……そうなの?」
昨日の僕の訓練を、どこかで見ていたのかもしれない。
「そーだよー! びゅーん、って! だからがんばってねぇ~!」
「ありがとう、ミリーちゃん。がんばる」
ミリーちゃんにつられて、以前のように喋ってしまった。
隣で深く頭を下げたままのアイシアが、ブルブルと震えながら僕に首と視線だけを向けて、
「ルルルルスティ! あなた、なんて口のきき方を!」と、声を殺して叫んだ。
だめだ、僕は。
こういうのに、あまりに慣れていない。もしかしたら、無礼で処刑とか、されるのだろうか。
そう思って少し緊張し始めていたら、ラティアさんが堪えられないという感じで、ふき出した。
「アハハハハ! ごめんなさい。ちょっと悪ふざけが過ぎたわねぇ。そんなに気を張らなくてもいいのよぉ」
本当に可笑しい、といった様子でラティアさんは続けた。
「ルスティが礼儀を知らないのは、知っていたのよぅ。でもね、ルスティは私もお気に入りなの。そして、その指導役のあなたも、ルスティと同じよ。だから気にしなくてもいいわ。それとあなた、ルスティに良くしてあげてねぇ?」
「は! はい! もったいなきお言葉! 光栄でございます!」
良かった……何か分からないけど、僕のことはお気に入りらしい。
「フフ。いい子ねぇ。それじゃ」
「おねーちゃん、またねー!」
「はい。ありがとうございます、ラティアさん。ミリーちゃん、またね」
そして、サッと霧の中に消えて、居なくなる二人。
もしかして、また僕に話すために歩いていたんだろうか。
「あ…………あなたねぇ! ラティア様にもミリー様にも、『様』を付けなさい! 首が飛ぶわよ! ほんっっっとにあきれた。あなた、とんでもない大物ね」
ガバッと頭を上げたアイシアは、視線を合わせて僕の両肩を力いっぱい掴んだ。
「そ、そうなんだ……」
「おバカだって言ってるのよぉ! このおバカ!」
「えぇ? ご、ごめんなさい」
おかしい……僕は一応、ちゃんとサラリーマンしていたのに。
呼称でミスしたことは無いはずだけど……そういえば、お客様には様をつけるけど、社内の人間はさん付けだったから……そのクセが出てしまったんだ。
このお城じゃ僕が一番下っ端だから、誰にも様を付けた方がいいかもしれない。
「それにしても……あなたほんとに、何者なの? 見下すつもりはないけど、人間なのに陛下のお気に入りで、ラティア様からもミリー様からも気に入ってもらってて……」
「やっぱり、すごいことなんだ」
特別扱いかなぁ……? とは、一応、思ってはいた。
「そりゃそうよ! そもそもが私、陛下直々に呼び出されて、あなたの指導役を仰せつかったのよ? それってもう……すっっっっっごい! ことなんだから!」
「そうなんだ……」
異世界だからこういう感じなのだろう、というのは偏見だったかもしれない。
僕もこの世界を、なめていたかもしれない。
「もうっ! それに加えてラティア様にまで気に入られて、ミリー様も……。うん。私、一生あなたに付いて行くわ」
「えぇ? 僕がアイシアに、付いて行こうと思ってたのに」
これでは逆になってしまう。
「何言ってんのよ、もう。可愛いんだから」
そう言うとアイシアは、僕をギュッと抱きしめた。
僕の顔がちょうど、彼女の胸の高さで埋もれてしまって……つまり、とても柔らかい。
「ア、アイシア?」
「あぁ、ごめんなさい。女の私に抱きしめられても、嬉しくないわよね」
「え、ううん。その、胸が……顔に当たって気持ちいいし……」
――しまった。
今の自分の姿に油断して、かなり気持ち悪いことを言ってしまった。
「じゃあ、あなたの背が伸びるまでは、ギュってしても嫌がられないのね~」
あれ。怒られなかった。気持ち悪がられる、ということも……なかった?
「こ、こっちこそ、嫌じゃなかった? 僕は嫌になんて、ならないけど。それに……」
そういえば、人から抱きしめられたことなんて、一度も無かった。
今になって、それが寂しいことだったと、思ってしまうなんて。
「――そういうの、されたことないし。嬉しい……かも」
急に感傷に浸ってしまった。
別にそういう人生だったし、親からは物心ついた時からすでに嫌われていて、それが普通だと思っていたのに。
「あぁ……そうなの。そうなのねルスティ。分かったわ。いつでも私に、甘えていいんだからね?」
アイシアは何かを察したように、切なく哀れむような目で、僕を見つめた。
彼女の目は、真剣だ。
「うん……。ありがとう。その、でも、大丈夫だよ?」
いつも言っていた、大丈夫の言葉。
大丈夫ではない、大丈夫という言葉。
「もう。おバカさんね。もっと素直に、あなたからも抱きついていいのよ? ルスティ」
そう言ってアイシアは僕をまた、ふわりと抱きしめてくれた。
「……あったかい」
「そうよ。人って、あたたかいの」