八、陛下のお戯れ
次の日、僕は昼食を急いで食べると、訓練場へと向かった。
食事だけは一緒にしたアイシアからは、ひらひらと手を振りながら、
「頑張って射止めるのよ~!」
と、謎の応援をもらった。
「そんなんじゃないから……ていうか、シア様の耳に入ったらどうするのさ」
これは聞こえた所で意味がないと分かっているから、ほぼひとり言だ。
そして、駆けつけた訓練場には、陛下はまだ来ていなかった。
「陛下の後だったら恐縮だったし、良かったぁ」
厳密な時間指定はなかったけれど。というより時計が無いので、そもそもとしてあやふやなのだけど。
とにかくホッと胸をなで下ろしたところに、後ろから声がかかった。
「何が良かったのだ?」
「ひゃぁぃ!」
飛び上がるほどびっくりした。
そして、心臓がバクバクと激走してしまった。
「へ、陛下。後ろから声をかけないでください」
「我に文句を言うとは、良い身分になったものだな」
「すっ、すみません!」
確かに、なぜだろう。
僕は殺されたりはしないと、どこかで高を括っているのだろうか。
いや、今の環境が、まだまだ現実感がなくてマヒしているんだ。だからどこか悠長で、誰に対しても絶対に下手に出るのだ、とまで思えていない。
「ふん。それでは今から、移動魔法を覚えさせる。……我の手を、煩わせてくれるなよ?」
「ぜ、善処します」
心臓のバクバクが治まらなくて、余計に緊張が強くなる。
アイシアが変なことを言ったからか、妙に、そういうことを意識してしまっている。
――らしい。
元男の僕が、男の人にときめくなんてありはしない。ハズだけど、それとは別に、今は女の子なのだと、変に意識してしまったのだ。
「さて、魔力循環は順調なようだな。良い香りだ」
そう言って陛下は、事も無げに僕の頭に顔を近付け、クンクンと匂いを嗅いだ。
「ふぇ……」
また変な声が漏れてしまった。
でも普通に、匂いを嗅がれるのはやっぱり、緊張というか変な感じがするじゃないか。
それだけだ。
「忘れるなよ? 基本は全て、ここへの意識だ。ゆくぞ」
僕がバカなことを考えているうちに、懐かしい浮遊感に見舞われた。
「浮くか飛ぶか、好きな方をイメージしろ。地面に触れれば死ぬぞ?」
陛下は僕の真横で、確かにそう言った。
――数秒前には。
あぁ、これ、落ちてるんだ。
半ば諦めつつ、落下の勢いを感じている方を見ると、やはりお城が遠い。小さく見える。
その周りの城下の街並みも、広がる平原や森、さらに遠くには連なる山脈も、眼下に一望できた。はるか先の地平線まで見えて、それが大きな円の一部であることさえ確認できた。
「すごい眺め……」
絶景だった。
僕自身に加速度がついているのを除けば、壮観だ。
でも、今はとにかく、浮くか飛ぶかしなくてはいけない。
あの人は本気だ。教えるのがたぶん下手で、数段上のレベルを基礎だと勘違いしているような人だ。
つまり、『ふーふーの魔法』から浮遊に至るまでの、何かすっ飛ばされた基礎を想像しなくてはならない。
――いや、待てよ?
あの時僕は、ミリーちゃんに吹き上げられた後、ギリギリ浮けたはずだ。
あれで腰を抜かして、今まで失念していた。
「で、できる、はず!」
恐怖で手が、ぶるぶると震えているけれど。
必死で浮けと念じていて、それで出来たのだから、今回も同じように……。
「浮け、浮け、浮け!」
バクバクうるさい心臓のせいで、うまく集中できていない気がする。意識がそっちに行ってしまう。
陛下に対して、変に意識してしまったせいで。自分が女の子であると、今さらながら実感したせいで。
――ああ、関係ないことばかりが頭に浮かぶ。
そうこうしている間に、みるみる地面が近付いている!
お城が大きい!
もう数秒もない。浮け浮け! 浮いてくれ!
まさか陛下は、これで死んだらそれまでだ。なんて思っていないよね?
出来な――――
**
「まさか、ここまで不器用だったとはな。可哀想な事をしたか」
その声には、純粋な哀れみが込められていた。
僕は……耳は、聞こえているらしい。
でも、あの高さから一直線に落下したのだし、死ぬ寸前なんだろう。
全身が冷たくなっているし、心臓のバクバクも止まっている。
もしかしたら、魂が剥がれて抜けて、天に上る寸前なのかもしれない。
「おい。水をかけても起きないとは、どういう事だ。さっさと目を覚ませ」
陛下は、お戯れが好きらしい。
死人に何を言って――。
(え、水?)
「僕……生きて、ます?」
「ちっ。やはり起きているではないか。まさか、サボれるとでも思ったか?」
真っ暗だったのは、単純に目を閉じていたからだった。
冷たいのは、びしょ濡れで地面に伏しているせいだった。
「助けて……くださったんですか」
と言うには、大分と雑な感じがするけれど。
「前に出来ていただろうが。危うく本当に死ぬところだぞ」
陛下としては、出来るだろうと思って、僕に絶景を楽しませてくれようとしただけ。だったらしい。
なので、地面に触れる寸前だったのだという。
どういう原理で落下エネルギーを一瞬でゼロに出来るのかは、どうせ理解出来ないから聞かないけれど。
「ありがとう、ございまう」
噛んだ。
今回は、恐怖で血の気が完全に引いているようだ。
だけどそんなことは、陛下は構う気がないらしい。
「もう一度だ。どんな時でも使えるようにするのが、練習だからな」
「ぁ…………はい」
それから何十回と、いや数え切れないくらい、絶景を楽しませてくれた。
感謝しかない。
――と、僕はそう思うことにした。