第五十二話「鋼に刻まれた刃」
白騎士の左腕に宿った“それ”が、はっきりと形を帯びる。
空気が、沈み風が止む。
遠くで激突していた両軍の金属音さえ、わずかに遠のいたように感じられた。
フォルティス・エクエスの掌が、ゆっくりとヴァルストルムへ向けられる。
「……!」
レイディルが操縦桿を強く握った瞬間、白き掌の中心に紅が灯った。
次の瞬間。
空間が爆ぜた。
奔流となった炎が街路を薙ぎ払う。
石畳が一瞬で黒く焦げ、融解しかける。
屋台の残骸が赤熱し、建物の外壁が弾け飛ぶ。
「魔術!?」
操縦席内が赤く染まる。
視界を埋め尽くす炎。
爆炎がヴァルストルムを包み込んだ。
融合しているのならば、魔術を行使できても不思議ではない。
『遠距離攻撃はヴァルストルムの専売特許というわけではないと言うことだ』
炎が装甲を舐める。
レイディルは機体周囲の温度が跳ね上がったように感じた。
「ヴァルストルムなら……この程度の炎、耐えられる……!」
だが。
レイディルは、わずかな違和感を覚えた。
アーヴィングの放った魔術は確かに高威力だ。
相手が生身ならば、焼き尽くしていたはずだ。
だがヴァルストルムの装甲は、炎をものともしていない。
炎の向こうで、影が動く。
赤の中に、白が走った。
次の瞬間、剣を振りかぶり、炎を裂きながらフォルティス・エクエスが襲いかかってきた。
フォルティス・エクエスの右腕が持ち上がる。
白い騎士の肩装甲が軋む。
剣が、ゆっくりと姿を現す。
その刀身に――紅が残っている。
レイディルの喉がひりついた。
(……嫌な感じがする)
ヴァルストルムも反射的に剣を抜く。
重い金属音。
だが。
(いや……)
鼓動が一拍、遅れる。
視界の端で、炎がまだ揺れている。
あの炎は、ただの目眩ましではない。
刃に、何かが“乗っている”。
(これは──)
フォルティス・エクエスの剣が振り下ろされる。
軌道が見える。
速度も、読める。
間に合う。
間に合うはずだ。
(打ち合っちゃ――)
ヴァルストルムの剣が迎えに出る。
(ダメだ)
もはや遅い。
刹那。
金属と金属が触れた。
フォルティスの刃がヴァルストルムの剣を食らうかのように、刀身にめり込んでいく。
深く。
金属が悲鳴を上げ、火花が散る。
振り下ろされた剣は、石畳に叩きつけられ、地面に深い亀裂を作り出した。
その衝撃で周囲に爆ぜていた炎も空間に溶け消える。
「……!」
レイディルは剣の切り口を見た。
赤く溶け、断ち切られている。
溶断。
アーヴィングの魔術の真髄は魔術にあらず。
『この剣こそが本質だ』
フォルティス・エクエスの手には赤き刀身。
魔術によって赤熱化した刃だ。
両断されたヴァルストルムの剣が、弧を描き後方の建物へと突き刺さった。
レイディルが思考する暇もなく、第二の刃がなおも突き振るわれる。
ヴァルストルムは咄嗟に左腕の盾を構え、剣を防ぐ。
だがしかし、赤熱化した刃は苦もなく盾を食い破り貫いた。
幸いにして、貫いた部分は盾の端。
フォルティス・エクエスはそのままヴァルストルムに刃を押し込んだ。
そのままの勢いで、両軍が激突している戦場へと押され、建物へとめり込む。
建物が内側から爆ぜた。
瓦礫と共に、白と灰の巨体が転がり出る。
「退けッ! 下がれ!」
中隊長の怒号が戦場を裂いた。
アルバンシアの騎士たちは即座に散開する。
命令系統を持たぬ小型ギガスだけが、突進してきた巨体の足元で、数体押し潰される。
フォルティスの剣の切っ先がヴァルストルムへと迫る。
レイディルは堪らず足でフォルティスを蹴り突き放した。
フォルティス・エクエスは十数メートル後退し、体勢を立て直した。
(アレはヤバい……!)
レイディルは操縦席越しに肩を解析する。
フォルティスの剣が、当たった装甲が僅かに削れていた。
装甲に走る、細い抉り傷。
それは今まで存在しなかった線。
レイディルの心に警告が走る。
──あの魔剣はヴァルストルムに届きうる。
防げない。
その結論が、冷たくレイディルの思考に落ちた。
盾は貫かれ、剣は断たれた。
ならば、と。
ヴァルストルムは後退しながら、足元に転がる中型ギガスの残骸へ手を伸ばす。
引き抜いたのは、大型の槌。
それを即席の代替武装とし白騎士目掛け振り抜く。
だが。
赤い閃光が一閃。
槌の分厚い金属で出来た打撃部が、赤く溶け弾け、バターのように斬り裂かれる。
(ダメだ……生半可なものじゃ通じない!)
防御も、代替も成立しない。
赤熱の魔剣は、あらゆる武装を否定した。
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「ヴァルストルムくんが……押されている……?」
博士の声は、静かだった。
だが、その静けさが異常を物語る。
にわかに信じ難い光景。
中型ギガスを苦もなく倒し、大型すら相手にならないあの機体が、正面から圧されている。
「それでも」
アリーシアスが口を開く。
「それでもレイディルは負けません」
「その根拠は……?」
娘の言葉にダイレルが冷静に問いただす。
アリーシアスは視線を街の中央から逸らさず答える。
「……そもそも、ヴァルストルムさんの全ては未だ解析できていません」
「つまりリーシアは──」
ウェリティアの言葉にジトッとした目だけをジロリと向け、アリーシアスは訴えた。
「勝手なあだ名は止めろ」と。
「んんっ……つまりアリーシアスはあの機体の更なる可能性を信じている、ってことね」
ウェリティアは誤魔化すように咳払いをし、言葉を続けた。
「あるいは、レイディル君がソレを見つけるか、だね」
「信じましょう、ディル君もヴァルストルムも」
マリーがそう言い、ゆっくりとそばの階段に足を掛けた。
「それじゃあ私行くわ。そろそろ手が必要だろうし」
「確かに今、戦いは五分五分、治癒の必要が出るころね」
シエナは双眼鏡から目を離さずに言う。
街に広がった戦線は拮抗している。
「五分五分じゃあ、まずいでしょう?」
マリーはそう言い階段を降りていった。
「中型はディル坊が倒してたとはいえ、アルバンシアは山道の消費があるからねぇ……そろそろ私も出番かしら」
ジルベルトが肩を鳴らす。
そのとき戦線を見ていたシエナの視線が、沖合へと向いた。
「……?」
水平線の向こう。
ほんの一瞬、黒い影が揺れた気がした。
「どうしたの?」
ウェリティアが問いかける。
シエナは目を細める。
だが、そこにはただ波があるだけだった。
(見間違い……?)
しかし、シエナの胸の奥に、微かなざわめきが残る。
「……ジルベルトさん。もう少し待機をお願いするわ」
「ん?」
「あくまでも予感、なんだけれど……万が一のためってところかしら」
シエナの視線は未だ水平線に何かを探していた。
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街の至る所で、号令が絶え間なく飛び交っていた。
「前列、盾を上げてください……! 間隔を、詰めすぎないで……!」
街の北東でレイラの声が、戦場を切り裂く。
風魔術で加速し、彼女は帝国兵をなぎ倒しながらも部隊の間を縫うように駆け、逐次命令を繰り出していた。
「負傷者は……直ちに後退を……!」
レイラは言葉を噛み砕き、整えてから吐き出す。
その声を受け、兵たちは迷わず行動に移す。
そこには、確かな信頼があった。
一方、中央西寄りでは、エリオスが戦況を睨んでいる。
「いいか、まずは小型の鎧を削げ! 魔術師、集中砲火! 砕けたら次、本体の防御結界を削る! 順序を崩すな!」
魔術の炎が連なり、小型ギガスの外装を叩く。
完璧とは言えない。だが、確実に削れている。
エリオスは一瞬だけ、街中央の方角を見やった。
「……あとは、レイディル君次第か」
後方、レイディルの存在を思い浮かべる。
「全く……頼むよ。こっちも全力で応戦している」
エリオスの魔術が奔る。
「だから、少しくらい楽させてくれ」
そう呟くと再び視線を戦場へ戻す。
「よし、次弾魔術! 止めるな、畳みかけろ!」
命令と応答が重なり合い、アルバンシア軍は、巨大な敵に立ち向かい続けていた。
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今も尚、続く戦いの中、対峙する巨大な騎士二体。
白金の騎士は赤く染まった刀身を握り、ジリジリと間合いを狭める。
灰銀の騎士は、武器も持たぬまま、詰められた間合いに後退する。
「ラディアント・ブラスターは使えない……」
構えている間に斬り伏せられるだろう。
「機関砲を使うか……?」
恐らくアーヴィングが最も警戒している武器だ。そのまま撃っても避けられる可能性が高い。
操縦桿を握るレイディルの手が、じわりと汗ばむ。頬を一筋の雫が伝う。
攻め手を失いつつある焦りが、レイディルの体力を奪う。
『さて……そろそろ終わりにしよう……』
優勢の筈のアーヴィングの声に混じる息が、少し荒い。
『どうやら、キミも私もそろそろ限界のようだからな』
『確かに……』
レイディルは答える必要の無い言葉に、わざと答えた。
休憩を挟んだとはいえ、数度の戦いを繰り返した。魔力の消耗は元より、肉体的にも限界だ。
『アンタがわざわざバカ正直に言ったってことはだ、消耗して終わりにはしたくないってことだろう』
『……理解してくれて助かる』
顔は見えないが互いが互いに口角を上げていると、感覚で分かった。
『我らの戦いにあるものは、完全決着のみ!』
そう言い放つと、猛然とフォルティス・エクエスは突進をしてきた。
「くっ! まだちゃんと出来るかわからないけどっ!」
ヴァルストルムは左腕を突き出した。
その周囲に魔力が奔る。
収束。圧縮。固定。
赤熱の魔剣が振り下ろされる、その軌道上に──透明な壁が展開された。
衝突。
爆ぜる光。
魔力で編まれた盾が軋む。ひびが走る。魔力が悲鳴を上げる。
押し切られる。
だが、わずかに、ほんのわずかに、刃の軌道が逸れた。
流れた切っ先が背後の建物に触れる。
石壁が一瞬で赤熱し、溶け落ちる。
遅れて、崩落。
『以前は見られなかった手だな』
アーヴィングの声に愉悦が混じる。
『防御壁……隠し球というわけか』
(防げた……けど、次は無理だ)
今のは偶然、上手く行ったに過ぎない。
せいぜい時間稼ぎだ──攻めにはならない。
「いや、まだだ、手がない……わけじゃない!」
一か八か。
解析だけして、試していない。
どんなものが眠っているのかも確認していない。
だが――他に道はない。
ヴァルストルムの右手が左腰部へ伸びる。
その隙を逃さず、フォルティスが踏み込む。
赤い刃が再び振り上げられる。
……
…………
………………
二体が交差するようにすれ違う。
勝負は、一瞬だった。
ヴァルストルムの右手に握られていたのは、立ち上る光。
──光の剣だ。
その瞬間、戦場にいた誰もがその剣に釘付けになっていた。
フォルティス・エクエスの持つ魔剣に一筋の線が走り、赤き刃が半ばから滑り落ち、街路に深々と突き刺さる。
周囲の建物の上部が、わずかにずれたまま静止する。
『ぐふっ……み、見事……』
胸部を走った一閃は、そのまま背へと抜ける。
次の瞬間、白き装甲が音もなく分かたれた。
魔術も、装甲も、その前では等しく意味を失っていた。
やがて、ヴァルストルムが携えたその刃は、静かに消失した。
白騎士を構成していた魔力の結合が乱れる。
巨体が崩れ、その中心から放り出されたアーヴィングが石畳へと着地する。
やがて、膝が折れる。
彼は口に手をやると、派手に吐血した。
指の隙間から飛び散った赤が石畳を染める。
アーヴィングの身体にはフォルティスと同じ傷が付いていた。
融合鎧の損傷が、そのまま彼の身体へと反映されていた。
「どうやら……まだ私の命までは……ぐっ……届いていないようだな……」
アーヴィングは傷口を抑えながら、ふらつく身体を無理やり起こし、天を仰いだ。
「……我が魔剣をも……両断するとは、恐るべき刃……」
アーヴィングはそう呟くと、血に濡れた手を地へ叩きつけた。
次の瞬間、地中の魔力が強引に引き寄せられる。
石畳が内側から突き上げられ、砕け散った。
その下から、荒々しく凝固した岩の塊がせり上がる。
――小型ギガス。
「この勝負、キミの勝ちだ……名残惜しいが……引かせて貰うぞ……」
そう言うと小型ギガスに乗り、場を後にした。
撤退をするアーヴィングに対し、レイディルは……
背後で岩が軋み、重い駆動音が遠ざかっていく。
レイディルは、振り返らなかった。
いや――振り返れなかった。
(視界が暗い……音が遠い……)
精神が削られる感覚。
立っているだけで意識が持っていかれる。
右手に残るのは、光を失った筒状の柄。
あの刃は、機体のエネルギーを根こそぎ喰らっていた。
枯渇しかけた動力を無理やり引き上げるように、サイリンク・リアクターが唸りをあげる。
「まだ……全部終わってない……倒れるのは……後だ」
唇を噛み、遠のく意識を引き戻す。
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司令部の窓から、双眼鏡で戦況を見やるクルト。
白騎士――帝国の切り札。
それを操るのは元帥。
ヴァルストルムを討ち得るとすれば、あれしかなかった。
だが、その切り札は破られた。
「アーヴィング元帥が破れた、か……」
白き巨躯が両断された瞬間、戦局は決した。
「時間稼ぎは……無意味だな」
それでも、ここで退けば完全敗北だ。
ならば示すべきは勝利ではない。
帝国兵としての矜恃のみ。
傍らに控えていた副司令に、クルトは命じた。
「第一班は資料室へ。記録を焼却しろ。
第二班は東階段、第三班は西階段を封鎖だ。
……戦線維持が不可能と判断した場合、撤退を認める」
副司令は短く敬礼すると、足早に部屋を後にした。
室内に静寂が戻る。
クルトは、諦念を滲ませた息を吐き、剣を握り直す。
せめて一太刀。
英雄リオルド・アルドヴァレアに、報いるのみだ。
その時、司令部の扉が開いた。
クルトは反射的に剣を構える。
だが、立っていた人影を認めた瞬間、静かに刃を下ろした。
「意地は結構だが、ここはまだ賭け時じゃあないな」
その言葉には、抗いがたい重みがあった。
------
シエナは双眼鏡を覗き、黙って戦況を見つめていた。
先程まで必死に戦っていた両軍が動きを止める。
ギガスも例外ではなかった。
糸の切れた操り人形のように、力なく崩れ落ちていく。
ある者は剣を収め、ある者は怪我人の救援に当たる。
帝国兵もまた、静かに港方面へと後退をはじめていた。
戦場から熱が引いていくのがわかった。
シエナは要塞の方へと視線を移す。
先程まで掲げられていた帝国の旗は無く、アルバンシアの旗がそこには掲げられていた。
「アリーシアス、あとロルフと他数名、私に続きなさい」
シエナは即座に判断すると、颯爽と街の中央へ続く道を下った。
「ひ、姫!」
シエナは焦るダイレルのことなど気にも止めないかのごとく、歩みは緩めなかった。
慌ててアリーシアスたち護衛もシエナの後を追う。
「ありゃ、あたしの出番無し?」
ジルベルトが肩透かしを食らったような顔をし、一行の進む道を小走りに走った。
街の中ほど、このまま進めば大きな広場に出る主要道。
シエナの横を盾を持った騎士が護り、前方をロルフが。
アリーシアスがシエナの後ろに付きながら、キョロキョロと辺りを見渡した。
魔術の炎によって至る所に火が燻っている。
建物は倒壊し、瓦礫が散乱している。
中にはギガスの残骸も含まれているのだろう。
地に倒れ伏している人間も多数存在した。
「……」
「警戒が必要とはいえ、見たくないものは見なくていいのよ」
口を結んでいたアリーシアスに、シエナの言葉が投げかけられる。
その声色はどこか優しさを含んでいた。
「いえ……戦場ですから……」
シエナは視線だけアリーシアスに向け、「そう」と言いたげな表情だけして、それ以上は何も言わなかった。
後方でウェリティアが「目隠ししたい……」と項垂れていた。
やがて一行は街の中央広場へとたどり着く。
そこにはバーグレイ将軍とグレオールが、各班に命令を飛ばしていた。
「姫! 完全に安全とは言いきれませんぞ!
こちらへ来るのは些か早いのでは……」
将軍の言葉を、シエナは軽く手を上げて遮った。
「ヴァルストルムに勝てないから諦めたのか、もしくはリオルドさんが要塞を抑えてくれたのが決め手かしら」
「あるいは、その両方かもね」
シエナの言葉にジルベルトが、両手を頭に乗せたまま呟いた。
「いずれにしても、後は事後処理となるわけだけど……帝国兵はどうしたのかしら」
「奴らは港の方へと撤退しました。
今ならば追撃も可能ですが」
バーグレイ将軍の隣に立つグレオールが、顎を撫でながら報告する。
「私たちは殲滅戦がしたいわけじゃないもの。逃げるのなら追う必要はないと思うわ」
シエナはそう決断した。
それが甘さであったとしても、彼女はそれを選んだ。
「おーい!」
やがて大きな声を出し、リオルドが合流を果たす。
「はぁ、アンタ一人? 他の騎士はどしたのよ」
ジルベルトが訝しげな目でリオルドを睨みつけた。
「ガハハ! いやぁ、後のことはめんどくせぇんで、全部押し付けて来た」
リオルドはそう豪快に笑いながら言い放つ。
「呆れてものも言えんわ……」
ジルベルトは深くため息を吐いた。
「それがな、不思議なことに俺たちがたどり着いた頃には、司令室に誰もいなかったんだよ。
おかげで簡単に占拠出来たんだが……」
「戦況不利と見て、早々に退却したか……」
リオルドの言葉にバーグレイは推測を立てる。
その顔はほかの可能性も探っているかのようだった。
バーグレイの言葉が風に溶けた、その時だった。
広場の東から、重い足音が響く。
石畳を踏みしめる鈍い衝撃。
規則正しく、だがわずかに重い。
視線が一斉にそちらへ向く。
瓦礫の煙を割り、灰銀の巨体が姿を現した。
ヴァルストルム。
堂々と歩いてはいるものの、心なしか足取りが重そうだった。
「……戻ったか」
バーグレイが小さく呟く。
アリーシアスたちから、安堵の息が漏れる。
歓声こそ上がらないが、その姿だけで十分だった。
だが。
アリーシアスの視線が、ふと止まる。
左肩。
灰銀の装甲に、細く走る一条の線。
それは煤でも、擦過でもない。 抉られた痕。
「……」
彼女は何も言わなかった。
ヴァルストルムはシエナたちの後ろに止まり、静かに膝を下ろした。
「お疲れ様です」
いの一番にアリーシアスが労いの言葉をかける。
ヴァルストルムは右手を上げ、答える。
ほんの一拍、間があった。
(……むっ)
それだけで十分だった。
いつもなら、呼びかけと同時に応じるはずだ。
(余裕、なしかぁ……)
アリーシアスは小さく息を吐いた。
ヴァルストルムの腕が、ゆっくりと降りる。
「しかしまぁ、キッチリチャッカリと中型ギガスを全部倒してくれたよなぁ! こいつぁ勲章ものだぜ?」
リオルドがグレオールの方を見遣り、ニヤニヤと言い放つ。
「嫌味な人ですね……」
グレオールがポツリとそう呟いた。
戦場跡から目を逸らすためか、はたまた暇を持て余したのか、広場の隅でウェリティアが単眼鏡を覗く。
その様子に気付いたクラウス博士が、そっと近づき声をかけた。
「何を見てるんだい?」
「あー、いえ、帝国ご自慢の動力船を一目見ようかなぁと……」
「確かに僕らとしては気になるところだ」
「ですよねー、パドルをギガスで回す、無茶やってくれます……よ?」
クラウス博士とやり取りをしていたウェリティアの言葉が途中で止まる。
「どうしたんだい?」
「おかしいですね……撤退するにしては、船が動く気配もない、甲板に人がいない」
「荷の積み込みに時間がかかっているのかも」
「敗走する軍がそう悠長にしていていいのかしら」
横からマリーが声を挟んだ。
「おや、治療は一段落で?」
「中央はね。重傷者は街入口へ回したわ。ここにいるのは歩ける人だけ」
広場に集まった騎士たちを見渡し、マリーは小さく息を吐く。
「……想像以上に消耗しているわ。立っているのがやっとの人も多いみたい」
「レイディルくんが厄介なのを引き受けたとはいえ、山道から連戦だからねぇ」
クラウス博士が静かに補足した。
「士気は高いけど……体力は別問題だからねぇ」
マリーは小さく頷き、それから港へ視線を向ける。
「それより、あれは……確かに妙ね……」
マリーの言葉が落ちる。
次の瞬間、港を起点にざわめきが広がった。
動けるアルバンシアの騎士たちが、自然と平場へと集まりはじめた。
「どうした?」
「いや……港の方が……」
誰が最初に言ったのかは分からない。
だが、視線は一様に同じ方向を向いている。
港の水面は静まり返り、そこにあるはずの“出航の気配”だけが、決定的に欠けていた。




