第四十七話「霧を裂くもの」
操縦席の映し出す景色は、もはや一面の白のみを映している。前も、奥行きも、何もわからない。
山道を外れ、すでに山の奥へと踏み出している。
視覚を頼りに動こうものならば、突如現れる木や岩肌に突っ込むことになる。
無駄な衝撃は致命的な減速になる。
一歩踏み誤れば、おそらくすぐさま谷底だ。
落下してもヴァルストルムは耐えられるだろうが──立て直す時間がもったいない。
レイディルはいっそ目をつむり、神経を解析魔術の「手応え」だけに集中させた。
指先から伝わるヴァルストルムの駆動音。足の裏から伝わる、山肌の粘土質な感触と、時折踏み抜く岩の硬い反発。
霧という名の「情報の断絶」の中で、彼は盲目のまま駆けていた。
外は視界ゼロの湿気が満ちる空間。だが、ヴァルストルムの操縦席内は、不気味なほどに静まり返っていた。
ヴァルストルムの操縦席はどうやら外気の侵入を一切許さないようだった。
一定の温度に保たれた空気と、低く途切れない、かすかな稼働音。
その「静寂」に包まれた箱の中で、レイディルは静かにヴァルストルムを操縦する。
(……外はあれだけ霧に満ちているのに、操縦席の湿度が変わらない)
その違和感が、レイディルの意識の片隅で小さく引っかかった。
(霧が入ってこない……空気の循環しているのか……ヴァルストルム──コイツは、もしかしたら水の中に入っても平気かもな……)
ふと、そんな考えがレイディルの脳裏によぎった。
地面の凹凸に一瞬足を取られそうになるが、すぐさま体勢を立て直す。
(余計なこと考えてる場合じゃないな)
解析魔術が直接脳内に描く「空白」の座標。
その情報と周りの地形を常時拾いながら彼は突き進んだ。
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一方、高所の「空白」──
帝国軍の妨害部隊は、霧に沈んだ高所の中央に布陣していた。
彼らの立つ場所だけが、奇妙に“空いている”。
周囲を取り巻く白い霧が、まるで見えない壁に遮られるかのように、その一帯を避けて流れていた。
魔術師たちはその霧の縁に沿うように配置され、それぞれが霧を生み出す魔術を維持している。
手のひら、そこから溢れ出した白い霧が、足元を這い、やがて合流し、ひとつの巨大な霧の塊となって辺りへと散らばっていく。
そこでは、帝国軍の妨害部隊が作戦の成功を確信し、静かな活気に包まれていた。
彼らの足元は、アルバンシア軍の戦場から一キロ以上も隔てられた断崖の上で、その下には百メートルの落差と深い森が口を開けていた。
この距離と高さを越えて人間が来るなど、想像する価値すらなかった。
ここは、物理的にも完全に隔絶された場所だ。
「各個、霧を絶やすな。消されてもいい」
指揮官の男は遠きの戦場を見つめ、表情一つ変えず独りごちた。
「……アルバンシアの連中は必死に対抗しているようだが、無駄なことだ」
そうして帝国の霧の部隊の指揮官は、また淡々と部下に命令を下し、作戦の維持を続けた。
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常時発動している解析魔術が描き出す「空白」の輪郭が迫っている。霧の発生源まであとわずか。
ヴァルストルムの脚部が、湿った土を踏みしめる。
いや──湿っている、というよりも、霧に触れた地面そのものがぬかるんでいる。それは視界だけでなく、足場まで奪う副次効果。
レイディルは即座に、角度をわずかに修正し、出力を絞った。
それだけで、谷へ落ちる未来と、敵に近付く未来が分岐する。
レイディルは呼吸をひとつ、深く抑えた。
──まだ見えない。だが、座標はもう重なりつつある。
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「霧の濃度は?」
感情のない質問。
その声を受け、部下が返す。
「安定しています。アルバンシアの対抗魔術とも拮抗していますが」
指揮官はそれを聞いて、小さく「ふむ」とだけ告げた。
指揮官は、はるか眼下の森と、その向こうに霞む戦場を見下ろしたまま、眉一つ動かさなかった。
──このままアルバンシアを削る。
予定通りだ。
だがその直後、背後の霧がゆらりと揺れた。
「……?」
指揮官の視線が、ゆっくりと背後の霧へと向いた。
続けて聞こえる、低く体の芯に響くような「ゴッ……ゴッ……」という鈍音。
そうしてしばらくすると音は霧に溶け込み、再び静寂が訪れた。
「なんだ……?」
目を細め霧の向こうを見通そうとする指揮官。
霧の端に拳大の岩が落ちる。
指揮官は岩を見た後、すぐさま霧の壁へと視線を戻した。
「!!」
霧の膜に、巨大な黒い影が滲み出るように映る。
青い双眸が、まっすぐ指揮官を射抜いていた。
影は、長い何かを持ち上げ、ゆっくりと上へと
構えた。
(……弓、か?)
霧越しでは判然としない。だが、その影が何かを「引き絞る」ような予備動作を見せた瞬間、鼓膜を震わせる異質な音が響いた。
──ギ、ギギギギィィッッ……!
金属と金属が、あるいは強靭な何かが限界まで軋む、重苦しい音。
そこにあるのは、ただの音ではない“圧”だった。この崖の上の静寂を、その音だけで塗り潰していく。
指揮官がその異常なプレッシャーに息を呑んだ、その時だった。
──バシュッッ!!
空気が爆ぜた。
弦が弾ける、衝撃波のような轟音。
その凄まじい放出力が生んだ、猛烈な爆風が辺りに吹き荒れる。
あまりの膂力で放たれた鉄矢が、空気との摩擦で瞬時に赤熱化し、咆哮を伴って天へと突き進む。
それは、戦場のどこからも見て取れる鮮烈な紅い線となり、澱んでいた霧の天蓋を強引に引き裂いていった。
崖から離れた主戦場。帝国軍の防衛線と激突していたアルバンシアの騎士たちは、不意に前方の空を奔った衝撃に、思わず剣を止めて呆気にとられた。
「なっ……!?」
妨害部隊の指揮官も驚愕の声を上げた。
その直後、その爆風の余波が、空を覆っていた濃密な白を軌道に沿って強引に引き裂き、指揮官たちの隠れ蓑としていた霧までも剥ぎ取っていった。
霧が引き剥がされ、一瞬にして広大な視界が開けた。
差し込む陽光。
その光を背負い、巨大な弓を構えたまま立ち尽くす機械の巨人。
ヴァルストルムが、その全貌を現した。
「我らの霧が……」
指揮官の男は、目の前に現れた「ヴァルストルム」の青い双眸に射抜かれ、金縛りにあったように動けなくなった。
魔力を使った形跡はない。
ただの力のみで──さらに空に放った余波だけで霧を文字通り、霧散させた。
「馬鹿げた……力だ……」
指揮官の頬に一筋の汗が流れる。
場には妨害部隊、三体の中型ギガス──そしてヴァルストルム。
周囲に配置した中型ギガスは、全部で四体のはずだった。
互いが互いの姿を確認した、その瞬間。
霧は、まるで何事もなかったかのように、静かに場を覆い隠した。
再度訪れた白濁の世界。
だが、それはもはや、先ほどまでの自分たちを一方的に優遇する環境ではなかった。
(……いや、まだだ。まだこちらが有利だ)
指揮官は荒くなる呼吸を整え、自分に言い聞かせるように内心で毒づいた。
確かに見つかった。だが、巨人は視界を封じられ、こちらにはギガスの魔力探知がある。数は明確に「一」であり、こちらは「三」の“岩の怪物”だ。
「……構うな……姿が見えないのはあちらも同じだ。ギガス、叩き潰せ!」
指揮官は極めて冷静を装った。
霧の向こうで鎧を纏った三体の中型ギガスが重い足音を立てて前進を開始する。
しかし、その足音はすぐに「異質な音」にかき消された。
──ドォォッ!!
右方、霧の奥で何かが爆ぜるような、凄まじい衝突音。
その直後、指揮官の視界の端、霧の壁にあの青い双眸と同じ光が一瞬だけ灯り、そして消えた。
ガギギギッ!!
魔力を一切介さない、鋼鉄と鋼鉄が真っ向から激突し、一方が一方をひしゃげさせる音。
断末魔のような金属の軋み。直後、霧の向こうから「ゴロゴロ」と何かが転がってくる。……それは、首から上を物理的に捥ぎ取られた中型ギガスの頭部だった。
「ひ……っ!?」
魔術師の一人が悲鳴を上げる。
音が止む。再び訪れる不気味な静寂。
──ゴッ……ゴッ……
次は左。
重厚な足音が規則性なく響く。
残されたギガスが闇雲に霧の中へ拳を振るうが、その手応えは虚空を掴むばかり。
右。
背後。
左斜め前。
不規則に、そして確実に距離を詰めながら響く破壊音。
霧がうねる隙間から、ヴァルストルムの青い瞳が、まるで獲物を見定めるように冷たく光っては霧に溶ける。
どこから来るかわからない。
何が起きているのかも見えない。
ただ、自分たちを護る岩の兵士たちが、目に見えない巨大な手に握りつぶされるように、一つ、また一つと「沈黙」していく。
指揮官の背筋を、これまで感じたことのない、純粋な恐怖が駆け抜けた。
だが彼は動揺を、恐怖を、軍人としての冷徹さで無理やり押さえつけた。
叫び出したい本能を殺し、霧の向こうを見据えたまま、音を立てずに部下たちへ手で合図を送る。
迷いのない、短い指の動き。
部下たちは一瞬だけ目を見開いたが、すぐさま何かに取り憑かれたように無言で頷く。
やがて、霧の中の破壊音はすべて消えた。
訪れたのは、耳が痛くなるほどの静寂。
自分たちの心臓の鼓動だけが、不気味なほど大きく響く。
そうしてしばらくの後。
濃密な白の向こうから、揺れるように二つの青い光が現れた。
それはまるで、暗闇で獲物を探す獣の瞳のように、不規則に揺れながら、着実にこちらへと近づいてくる。
霧がうっすらと割れ、そこから巨人のつま先が見えた。
ヴァルストルムが、指揮官との距離を物理的に詰める。
一歩、また一歩。
「……フッ……」
指揮官が、今日初めて口の端を吊り上げ、嘲笑を浮かべた。
次の瞬間、彼の姿が空へと吸い込まれるように、音もなく後方の霧の層へと溶けた。
「……!?」
レイディルが一瞬、反応が遅れたその隙に、部下たちも八方散り散りに崖へと飛び出した。
レイディルは慌てて踏み出し、崖下を覗き込んだが、時すでに遅し。
指揮官たちは既に手の届かない中空に身を置いていた。
『しまった……!』
レイディルの声がヴァルストルムを通し響く。
空中を舞いながら、指揮官は確信していた。
(いかな機械の巨人とて、空中の人間までは追えまい。我々の作戦勝ちだ)
後は風の魔術で微細に操作すれば、高所とて着地は訳はない。
しかも下は、霧に覆われた深い森だ。着地と同時に姿を隠せる。
霧の中、八方に飛び立った人間に的を絞ることは難しいだろう。誰かが飛び道具でやられたとしても、残った人員で妨害を続行する算段だ。
そのための崖。
──のはずだった。
そう思い、眼下の地面を見据えた、その時だった。
「…………え?」
深い森を覆っていた白い帳が、下から真っ向に引き裂かれた。
風が駆け抜けるような、異様に鋭い音が耳に届く。
直後、一筋の金色が霧を線状に切り裂き、凄まじい速度で跳ね上がってきた。
重力を否定するような、爆発的な跳躍。
百メートルという“高さ”が、ただの数字に変わる速度。
それは、空中で自身の展開した魔術壁を蹴り上げ、何度か細かく切り返しながら無防備に身を晒す指揮官たちを目指し、吸い込まれるように迫りくる。
風を切り裂き、上昇してくるその影の正体を認めた瞬間、指揮官の心臓が凍りついた。
金髪を荒々しくなびかせ、双眸に鋭い殺気を宿した一人の剣士。
彼女は抜いたばかりの双剣を構え、空中で獲物を見定める猛禽のような眼で、指揮官を射抜いていた。
冷徹な双剣の音が、風の音を突き抜けて鼓膜に届く。
遠き「空白」で戦っていたはずのアルバンシアの剣士が、今、自分たちの逃げ場のない「空」を食い破りに来る。
逃げるための崖。
身を守るための空。
それらすべてが、彼女にとっては格好の狩り場でしかないことを、指揮官は両断されながら理解した。
彼が最後に見た光景は、自身を切り抜けた後、霧と部下たち全てを切り裂く。空を縫う、金色の稲妻だった。
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術者を失った霧の魔術が霧散し、戦場に本当の、突き抜けるような青空が戻ってきた。
崖の上には、陽光を反射して輝くヴァルストルム。
そしてその足元にひらりと着地をし、双剣を鞘に収める金髪の剣士。
『いや……お見事です師匠』
ヴァルストルムから、レイディルの安堵したような声が響く。人間離れしたレイラの技を、崖上から見ていたレイディルは半ば苦笑いをしている。
「ゼェ……ゼェ……師匠、じゃない……です。……でも予め決めていて……ゼェ……良かったですね」
レイラは余程急いできたのだろう、息も絶え絶えと言った感じだった。
ここから一キロ。
それを全力で走り、さらに崖を跳び越えて来たのだ。
息が上がらないはずがなかった。
いや、そもそも……
(人間にそんなこと可能なのか……)
「ハァ……さすがに……無茶……しちゃいました……」
そう言い息を整えるレイラ。
レイディルが操縦席から彼女を見ると、その額や頬には汗が滲んでいる。
次の瞬間には彼女はほっこりと笑った。
レイディルは申し訳ない気持ちと共に、レイラとバーグレイ将軍に感謝した。
“対人戦になりそうだったら、どんな手段でもいい、合図を出せ”
出陣前に交わした、現実的な“落とし所”としての取り決め。
レイディルの“甘さ”や“矜持”を否定するのではなく、それを守るための“仕組み”を、将軍は用意してくれた。
『とはいえ、部隊が来ると思ってましたけど……』
「一番速い……私が飛んできちゃいました……適材適所、です」
そう言いながらレイラは辺りの岩の残骸を指さした。
どうやらレイディルが中型ギガスを掃討したことも適材適所に含まれているようだ。
「私の剣じゃ、ギガスとの相性は良くないので……」
あくまで対人特化だと彼女は言った。
だからこそ、レイディルは最初から別の決着を思い描いていた。
中型ギガスを叩き伏せ、敵が心折れてくれれば、それが一番だと。
霧の中でのレイディルの行動は、そうした想定を越えて、半ば無意識に選び取られたものだった。
それでもその戦法は確かに敵に恐怖を与え、レイディルの思惑以上に効果を発揮した。
しかし、敵指揮官の精神力はレイディルの想定を越え、恐怖を乗り越えたのだ。
その点では、敵の方が一枚上手だった。
(あの調子だと、捕まえるのも無理だったか……)
ヴァルストルムの手は非常に繊細に制御が効く。人を生かしたまま捕まえることも可能だった。
だが、敵は八方に散った。ヴァルストルムの腕は二本。どう足掻いても全員を捕まえることは無理だろう。
そこまで織り込んだ上での散開なら、やはり敵の作戦勝ちと言えるだろう。
誰か一人でも逃げ延びて、再び霧を発生させられたら、そこで詰んでいたのはレイディルの……アルバンシア軍の方だ。
「何かほかに手を考えないとな」
ポツリと独りごちて、レイディルは汗を拭うレイラへと視線を向ける。
そのはずもないのに、レイラはなぜか、見られている気がして顔を上げた。
「それじゃあ……私は、本隊に……戻りますね」
そう言って、レイラは崖の向こう──戦場の方角を一度だけ確認する。
(大隊長が前線を離れ続けるわけにはいかない……か)
多くの騎士たちを指揮する立場なのだ。
こうして飛び出してきたこと自体が、すでに限界ギリギリだったのだろう。
息を整え、崖の縁に爪先をかけたまま、彼女は次の役割へと意識を切り替えた。
『ありがとうございました』
レイディルの礼に対し、レイラは不器用に片目を瞑ってみせた。
「あ、あはは……ウインク、上手くできませんね……」
頬を赤らめ、照れ隠しのように頭を掻き──そのまま、勢いよく崖下へと飛び出した。
小さくなっていくその姿を、レイディルはただ見送った。
「この崖を飛び降りて行ったよ……凄いな」
レイディルは、レイラの身体能力に最後まで圧倒されっぱなしだった。
だが、いつまでも感心しているわけにはいかない。
彼は静かに気持ちを切り替える。
次なる目的地は、山頂砦の一歩手前。
帝国はそこに、巨大な山門を備えている。
その突破こそが今の自分がやるべきことだ。




