第四十五話「理の外に立つもの」
かつてアリーシアスがグレナウの時計塔を、二キロという距離から、魔術による狙撃を成し遂げた。
それは街中に立つ、動かぬ標的だった。大きさも、比べるまでもなく巨大である。
放った氷槍は、魔術──事象の再現であるがゆえに、世界の理、すなわち物理の干渉からは逃れられない。
それでも彼女は卓越した能力により、二キロの狙撃を成し遂げた。
今回、レイディルが狙うのは中型ギガス、全高およそ十五メートル。
巨大と言えば巨大だが、今回は時計塔と違い静止しているわけではない。
さらに五キロもの距離。その長大さは通常の神経では考えられないほど常軌を逸していた。
限界まで引き絞られた弓。
──ヴァルストルムの右手、その指が弦を離した。
放たれる一矢。
その瞬間、レイディルの背に冷たいものが走った。
──僅かに狙いがズレた。
通常、五千メートルもの狙撃には、あまりに多くの不確定要素が介在する。
標高差による気圧の変化、谷底から吹き上げる不規則な上昇気流、湿った空気がもたらす摩擦。
果ては、この大地、星そのものが回転していることによって生じる、目に見えぬわずかな歪みですら、長距離を飛翔する矢にとっては弾道を逸らす大きな要因となり得る。
だが。
ヴァルストルムが剛弓によって叩き出したその一射には、微塵も誤差の付け入る隙もなかった。
風を裂き、重力を置き去りにし、空気を熱変換させて真空の道を作る。
圧縮された空気が空を白く歪め、刹那の静寂の後、破裂音を伴って弾けた。
矢を曲げうるすべての物理的干渉を、常識外の圧倒的なまでの膂力がねじ伏せて直進した。
計算も、予測も、回避も──意味を失う。
すべてを過去のものとする絶対的な一矢が、五キロ先の静寂へと突き刺さる。
本来狙うべき位置から、わずかに逸れた軌道で、その矢は吸い込まれるように盾を持ったギガスへと飛来する。
瞬間、盾など意味をなさないかのように矢は防御を貫き、その勢いを持ってギガスの胴体を粉砕した。
さらに着弾の衝撃波によって周囲のギガス全てを巻き込み、砕く。
矢はなおも威力を失わず、岸壁を抉り、大地を穿った。
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数秒の、奇妙な静寂。
五キロという距離は、光と音の到達に決定的な差をもたらす。
まず異変に気付いたのは、敵軍まで残り一キロの地点まで進軍していたエリオス大隊だった。
「あれは……!?」
エリオスが前方を見上げた瞬間、視界を埋め尽くしたのは山道を逆流してくる猛烈な勢いの巨大な砂埃の壁だった。
着弾地点を起点に、大気が押し出されたのだ。
エリオスたちは咄嗟に腕で顔を覆った。
着弾の余波が生んだ砂埃と轟音が、大隊を丸ごと飲み込んだ。
さらに離れた、レイラ率いる大隊。
そこで戦闘をしていた騎士たちは、斜め前方──東の空に立ち上る巨大な土煙に、思わず視線を奪われていた。敵を前にしながら、誰一人としてそれを無視できなかった。
そこへ、遅れてやってきた“それ”が届く。
ッゴォォォォッッ!!
空気を震わせ、鼓膜を叩き、地面を介して内臓を揺さぶる重低音。
遅れて届いた着弾音は、もはや弓矢が立てていい音ではなかった。大気そのものが悲鳴を上げているかのような轟き。
「今のは……爆発音……?」
レイラは目を細め、遠方の土煙を一瞥するが、視線は敵から切らさない。
原因の特定は後回し。今は、この異常が戦場に与える影響を抑える必要がある。
彼女は即座に判断を下し、鋭い声で指示を飛ばした。
「陣形を維持してください……! あちらのことはエリオス大隊が、対処します!」
強烈な音を受け、レイラ大隊と戦闘中である帝国兵ですら浮き足立ちはじめていた。
音を聞きつけ、レイラ大隊より後方のグレオールが隊を停止させようとした。
しかし、すかさずバーグレイが首を振り進めと促す。
「おそらく──ヴァルストルムだろう」
将軍は短くそう告げ進軍を続けさせた。
機動車の二号の窓からジルベルトが顔を出し、マジマジと遠方を見やっている。
「随分と派手な音ね」
「えー、なに……今の音……こわっ」
遠くで上がる土埃と轟音、それを聞いたウェリティアがボヤいていた。
ジルベルトは音の方角からすかさず位置を割り出し、単眼鏡を取りだし、遥か遠くの崖を見た。
「な~る……ディル坊の仕業ってわけ」
ヴァルストルムの一撃に、さすがのジルベルトも冷や汗を一筋垂らした。
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「……いや、まさかこうなるとは……」
ヴァルストルム内部の壁に映し出された映像を見やり、レイディルは言葉を失っていた。
本来は盾持ちの隣りのギガスを狙い、仕留め数を減らす算段であった。狙いがズレたと確信した時、盾で弾かれるかもしれないという思考が一瞬にして脳裏に走った。
だが、それでも矢はいとも容易く、ギガスを纏めて吹き飛ばしたのだ。
「結果としては良かったけど、気をつけないとな……」
幸い、矢があらぬ方向に飛んでいかなかったと安堵する。
もしも人のいる場所へ飛んでいったのならば大惨事を引き起こすだろう。
いや、人のいない場所──例えば山道、あるいは崖に直撃したとしても問題だ。道は崩落し、進軍に支障をきたす。
それどころか、より重篤な災害を引き起こしかねない。
弓矢とて、ヴァルストルムが放つ際には細心の注意と調整が必要だとレイディルは肝に銘じた。
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矢の着弾による突風と埃を凌いだエリオス大隊はなんとか先へと歩を進めた。
彼らが進んでいたのは、本来であれば港と諸都市を結ぶ、馬車が日常的に行き交うなだらかな主道である。
そうして、彼らの前に光景が現れる。エリオス大隊はそこで、ようやく何が起きたのかを理解した。
飛散した岩石と、鎧であったであろう金属片。爆発で抉ったかのように深い爪痕を残す道。
更にはくり抜かれたかのように大きな穴を開ける崖。
そして離れた場所に斜めに突き刺さる溶けた金属の棒。
訝しげに兵たちがそれへと注目する。
「あれは一体?」
部下の一人が疑問を口に出した。
「うーん、あれは……多分、矢……かな」
周囲の動揺をよそに、エリオスは冷静に状況を見極めた。
「ほら、あの突き出た先端……なんだか矢羽根みたいじゃないか?」
彼は棒を指さした。
ほんのわずかに残る矢羽根。
だが、大部分が金属でできた矢を、どう射てばここまで至るのか──その場にいる兵のほとんどが理解できずにいた。
「そうだな……私の考えでは、矢がああなるほどの力は、理の外。深く考えても無駄だろう」
そう言いエリオスは気を取り直す。
「さあさあ呆けてないで警戒態勢を! そろそろ敵が来るぞ!」
その言葉とほぼ同時に、エリオス大隊は小型ギガスと帝国兵士の混成部隊との戦闘に突入した。
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それから、しばしの時が流れた。
エリオス大隊は正面の敵を押し返し、レイラ大隊もまた、西側から確実に戦線を前へと進めていた。
戦況は、アルバンシア軍優勢。
──しかし。
それぞれの部隊を包み込むように、白い靄が立ち昇りはじめる。
気付けば視界は急速に悪化し、霧が戦場を等しく覆い隠していった。
その霧は目の前にいる敵も、隣にいる友軍さえ隠すほどに濃いものだった。
「あら、霧が出てきたわね……?」
マリーが機動馬車の窓に手を添え訝しげに霧を見つめる。
「……おかしいな、リオ山道に霧が発生したこと自体はあったが、ここまで濃いものとなると話は別だ。この百年、そんな事例は無い」
ダイレルは過去の記憶を洗ってみるが、そんな異常気象とも呼ぶ程のものは無かったと告げる。
クラウス博士は御者台の屋根に備え付けられた二対の魔導ランプの明かりを灯しなんとか視界を確保しようとした。
「博士、ランプはつけない方がいいわ。かえって目立ってしまいます」
マリーが即座に博士を止めた。
「あ、あぁ、それもそうか……ありがとう」
博士は片方のランプに伸ばしかけた手を止め、手綱に意識を戻した。
刻一刻と深まる白の中、機動車二号の窓を叩く影があった。
グレオールが、まるで散歩の途中に隣家の門を叩くような気軽さで歩み寄り、窓から顔を出しているジルベルトへ声をかけた。
「お楽しみのところ失礼しますよ、ジルベルトさん。戦場が白すぎて、前が見えなくて兵が困っていましてね」
グレオールは親指で、周囲を埋め尽くす濃霧を示した。その口調は軽やかだが、眼光は少し焦りが混じっていた。
「ダイレルさんの話では、この山道でこれほどの霧は『百年例がない』そうです。……となると、これは自然の悪戯か、それとも誰かの“悪意”か。専門家の意見を聞きたいと思いましてね」
ジルベルトは単眼鏡を隣りの座席へと放り出し、窓枠に肘を突くと、外の空気をじっと見た。
「それはそれは、百年も保った記録が台無しね」
そう軽く答えると、アリーシアスの方へと声をかける。
「お嬢様、どう思う?」
「そうですね……これは魔術だと思います」
「だ、そうよ?」
「ふむ……」
グレオールは短く唸る。
「各部隊に伝令! 風魔術によってこの霧を吹き飛ばせ!」
グレオールの指示が、伝令を通じて各部隊へと行き渡った。
各魔術師は速やかに魔力操作へ移る。
紡がれた実行言語は、殺傷能力を持たない制御風のみ。兵同士が入り乱れる戦場である以上、巻き添えを避けるための、安全を最優先した調整だった。
合図とほぼ同時に、戦線の各所で風魔術が発動する。
刃を持たぬ圧縮気流が低く唸り、白い霧へと叩きつけられた。
霧は一度、乱暴に引き裂かれる。
千切れた白が渦を巻き、押し流され、戦場の輪郭がほんの一瞬だけ露わになった。
敵影と味方の陣形が断片的に視界へ戻り、兵たちの間に、わずかな安堵が走った。
──だが。
吹き飛ばされたはずの霧は、ほどなくして再び立ち込めた。
兵の安堵など刹那だとせせら嗤うかのように、霧は地を這い、うねり、寄り集まり、まるで意思を持つかのように、再び立ち上り、戦場を覆い尽くしていく。
「……まずいですね」
アリーシアスが、ほとんど独り言のように呟いた。
「まずい?」
姫は眉をひそめる。
「敵だって同じように視界を奪われているでしょう?」
その問いに、アリーシアスは静かに首を横に振った。
「ギガスは視覚に頼って動いていません。
人大の魔力反応を検知して、それを追って襲ってきます」
霧の向こう、何も見えないはずの戦場を、彼女はまっすぐ見据える。
「つまり──この視界の悪さは、人間側……私たちにだけ不利に働く。ギガスにとっては、ほとんど影響がないということです」
その言葉が落ちたあと、馬車の中に短い沈黙が生まれた。
姫は一度、ゆっくりと息を吐く。
「……それは、確かにまずいわね」
霧はなおも濃さを増し、白は静かに、しかし確実に戦場を呑み込んでいった。
だが、ギガスの進行は止まらない。
アリーシアスの言う通り、ギガスにとって視界は問題ではない。岩の塊は、魔力の反応があるものへ、ただ攻撃を加えるだけだ。
小型とはいえ、その数は多い。 五メートル級の岩兵の拳が振り下ろされれば──防御の薄い兵など容易く押し潰される。
レイラは瞬間、判断を下した。
「全軍……盾兵を前にして防御です!
……友軍の位置は声を掛けあってください!」
霧で上手く陣形が取れぬまま、それぞれの兵がなんとか固まり防御を形作る。
霧の向こうから岩の拳が振り下ろされアルバンシアの騎士が展開した防御壁へと突き刺さる。
攻撃を視認した上で構える防御と、いつ来るか分からないまま張り続ける防御とでは、精神の消耗がまるで違った。
その重圧は、防御壁を保てる時間を確実に削っていく。
(いずれ、この防御も破られる……)
決して口に出さなかったがレイラはそう考えた。
(いえ、それもあるけど──)
レイラの懸念はまだあった。
「魔術で作られた霧だとしたら、長期戦はちょ~っとよろしくないわね」
二号の座席に身を預けるように座るジルベルトが飴を噛み砕き言う。
「耐えてるばかりでは、事態は好転しないものね……でもジルが言うのはそういうことではないのでしょう?」
シエナ姫が説明を続けるよう促した。
「ん、魔力によるオキマリのアレ。
魔力負荷」
ジルベルトは飴を食べ切り残された棒を持って、ブラブラとさせながら続けた。
「このままじゃ、みんな身体性能が落ちてくるわよ」
魔力負荷──他者の魔力に長時間さらされ続ければ、身体は徐々にそれを拒み、倦怠や集中力の低下を引き起こす。
戦場という極限状態では、そのわずかな不調が命取りになる。
防御に徹するという選択は、時間と引き換えに確実な消耗を招く……そんな危うさを孕んでいた。
「さて……どうすっかな~……」
顎に手を当てジルベルトが思案する。
前線の防御壁の向こうで、岩がぶつかる音は止まらない。
時間は、静かに、しかし確実にアルバンシア軍を追い詰めていった。




