第三十話「瞬きの防壁」
暗闇を駆け抜ける多数の兵士。
人知れず司令官を殺害し、そして残された帝国兵をあざけ笑うかのように逃げ続ける賊。
街をさらに北に進むように、賊の女は逃げていた。
目標は前方、二十メートル先を走る。
追いかける副司令は、時折手を挙げ、無言で部下に命令を下す。
すると建物と建物の間から、新たな帝国兵が槍で賊を強襲する。
が、しかし、恐るべき反射速度を持ってして、槍を躱し、帝国兵の腕を切りつけた。
そして、そのまま真っ直ぐに道を駆ける。
それを何度か繰り返した。
(ククク、それでいい。その先は行き止まりだ……頭上には渡り廊下が架かり、屋根のように塞がっている。
選択肢を潰せれば兵の一人や二人安いもの。
これでさっきのようなふざけた逃げ方は出来んぞ!)
さらに万端に、その場所には先回りさせた多数の伏兵を忍ばせてある。
複雑な街の地図は全て頭に入っていた。
改築もあり、複雑さは増し記憶するのは大変だったが、全ての帝国兵は道を覚えている。
(ふん、バルゲインは気に食わんやつだったが、無理にでも覚えさせられた道は役に立ったな)
──逃げ場は無い。
ようやく自分の思い描いた通りにいきそうになり、副司令は心の中でほくそ笑んだ。
多数の足音が道に響くこと数分。
走れども走れども予定の場所にたどり着かなかった。
おかしい……この建物がある道は知っている。
間違えるはずがない。
なのに、未だに目的の場所へたどり着かない。
一人の兵士が疑問を口にする。
「あ、あれ? こんな道だったか?」
その一言が引き金となり、部隊にざわめきが広がる。
「狼狽えるな!」
副司令が走りながら怒鳴る。
次の瞬間、視界が開けた。
たどり着いたのは……
中央区の広場だった。
「は……?」
副司令の思考が一瞬止まる。
北へ向かって真っ直ぐに走ってきたはずだ。
曲がりはしなかった。
間違えようがない。
「それなのに──なぜ広場に……?」
副司令の視線が手元の部下に鋭く刺さる。
目の前の現実が計算と食い違う。
しかし、部下も首を振り理解が追いついていないことを示した。
「い、一体何が……?」
「いや、そんなはずは……」
部隊の声が小さく入り混じる。
ざわめき、どよめき、動揺は伝播する。
そして広場の真ん中、月明かりに照らされるその姿──女は微動だにせず、帝国兵の混乱をただ静かに見つめていた。
「な……ぜだ……!」
副司令は喉を焼くように叫んだ。
地図に狂いはない。自分は正しい。
だが目の前の現実は、無慈悲にその確信を打ち砕く。
(違う……間違えてなどいない……!)
必死に思考を巡らせる副司令をよそに、兵たちのざわめきは止まらない。
広場に吹く夜風さえ、嘲笑の声のように思えた。
──その頃。
街中の各所でも、同じように困惑の声が上がり始めていた。
住民を追っていた別の班が、変わり果てた街並みに立ち尽くす。
「ギガスの術師を呼べ! あいつらにこの岩壁を操らさせろ!」
兵の一人が叫ぶ。
叫びに応じ、兵の中から術師が現れる。
「……無理ですよ。
ここにある岩は……操るための骨子がない。」
ギガスは自然に宿る魔力を骨組みにして、術者の魔力を動力源として動く。
一度解除されれば岩に宿る魔力は抜け、骨組みも消失する。
つまり普通の術者なら、どう頑張っても操れない状態だ。
あるいは元帥ほどの力があれば可能かもしれないが……
「だったら地面の下の岩を使ってギガスを作れよ!」
「そんなにすぐには……」
そう言い術者は狼狽えた。
「えぇい、もういい!」
我慢の限界らしく、声を荒らげた兵が魔術を撃ち込んだ。
しかし、虚しく弾かれる。
「結界魔術!?」
岩壁には万全の防御膜が貼られていた。
中央区、西の外れ。
「さて、レイディルが調べてくれた通り、元ギガスの岩壁は魔力がゼロの状態でした」
アリーシアスはそう言い、手をつけた壁を起点に、街中に魔力を放っていた。
これはレイディルの解析魔術を街へ使用する時の魔力の広げ方に似ている。
彼女なりに工夫を加え、真似をしたのだろう。
「普通ならこの街丸ごとなんて無理な話ですが……邪魔するもの──自然魔力がなければ地の術でこの通り、燃費の問題もないです」
静かに壁が動く。
それは幾重にも折り重なり、正解の道を覆い隠すかのように形を変える。
「と、なると恐らく破壊を目論むでしょうが──そこは、わたし特性の結界魔術入りです。
ちょっとやそっとじゃ、崩せない」
その顔は自信たっぷりだ。
予め各所に仕込んだ魔術が、アリーシアスの魔力を受けて始動する。
街の岩壁が次々と動き出し、巨大な迷路を作り上げた。
あとはルートを覚えている衛兵たちが、住民を連れて安全圏まで誘導すればいい。
「あいつらの元ギガスを、逆手に取ったってわけか」
レイディルの言葉に、アリーシアスは満足気に頷いた。
「これで作戦中、ノーラさん達は大丈夫でしょう。
とはいえのんびりはしてられません。さあ気を引き締めて行きましょう」
そう言って二人は、街の中央の大通りへと駆け出した。
大通りを走る二人。
ここは監視装置が並んでいた場所だ。
しかし、岩の目は今も氷に閉ざされ沈黙を続けている。
ただただ、滑らかな石畳を蹴る二人の足音と、荒い息遣いだけが、静かな通りに響く。
目論見通り、監視装置を無力化したことにより、元々帝国兵の見張りが少なかったこの通りは障害もなく走り抜けられそうだった。
アリーシアスは全力で走り抜けながらも、周囲への警戒は怠ることはなかった。
こういう場面は自分の方が適任だと思っていた──その時。
突如、路地から帝国兵が弾かれるように飛び出してきた。
その手には鋭い槍。
穂先は鋭くアリーシアスの喉元を狙い伸びてくる。
気付くのが遅れれば、間違いなく串刺しにされていただろう。
次の瞬間、彼女の手から火球が閃き、轟音と共に爆ぜた。
眩い炎が槍を呑み込み、爆風に弾かれた帝国兵は路地へと吹き飛ぶ。
「ふう……警戒してて正解でしたね」
アリーシアスは小さく息を吐き、胸に手を当てた。
その表情には、さすがに危機一髪を抜けた安堵の色が浮かんでいた。
「たしかに……危なかったな。俺じゃ反応できなかったかも」
レイディルの言葉と視線に気付いた彼女は、すぐに胸を張り直す。
腰に手を当て、「どうです?」とでも言いたげに、自信たっぷりの笑みを浮かべた。
しかし、レイディルはそんな彼女の表情を見てはいなかった。
硬直したまま、視線は彼女の背後に釘付けになる。
通りの二十メートル先。
帝国兵が赤熱した魔術を構築していた。
空気が焦げるような熱気が走り、兵の両手には赤い光が渦を巻く。──火の魔術だ。
目の前のアリーシアスは、まだ気付かない。
こちらを振り向いたまま、無防備に。
(まずい!)
そう感じた瞬間、思考より早く、レイディルの体は駆け出していた。
全力で駆ける。
(間に合うか?)
全力で駆ける。
(だめだ、間に合わない)
全力で駆ける。
石畳の感触がいつもより重く、足音だけがやけに大きく耳に響いた。
心臓は脈打つたびに頭の中で雷鳴のように轟き、周囲の景色はスローモーションのように歪む。
(あと十メートル……!)
背後でアリーシアスが何か叫んでいる。
言葉はわからないが、危機を知らせる緊迫の気配が伝わる。
ようやく敵兵の存在に気づいたらしい。
(あと少し)
三呼吸もあればたどり着ける距離。
だがしかし、帝国兵の魔力は荒々しい渦を巻き、赤銅色の炎の塊となり、空気を焼き放たれる。
レイディルの目の前に迫る火炎弾。
(おそらく喰らえば致命傷だろう)
驚くほど思考がクリアになっている。
(どうする……腕で防ぐか? 腕一本で済むなら安いもんか。
けど、利き腕はダメだ。
ヴァルストルムを動かすのに支障が出る)
焼けた空気の匂いが鼻を刺し、皮膚が熱さを感じる。
徐々に迫る炎。普通なら既に当たっていてもおかしくはない。
しかし、心拍が頭に響き、脈打つたびに時間がゆっくり流れるように感じられた。
レイディルは次の一手を考え続けた。
(無理だな……直撃する……
まぁ、最悪アリシアの盾にはなれたから良いが……また怒らせちゃうか……?)
ふと悲しそうなアリーシアスの顔が浮かんだ。
胸が痛む。
(ああ、もう! わかったよ、泣かせるなってことだろ!)
自分にそう言い聞かせると、無意識に左手を前にかざした。
浮かんだのは、線と線を編み込んだ格子状の像──
それを必死に掴み取るように、意識をそこへ集中させる。
直撃。
剛火は大きな音とともに、レイディルの左腕に着弾し、爆発が生じた。
熱が体をつつみ、鼓膜まで響く轟音が周囲の静寂を断ち切った。
炎の余波が身体を撫でる。
着弾した炎は霧散し、その中からは──
淡く輝く小さな障壁が現れ、そして瞬きの間に消えた。
「!」
帝国兵が魔術を防がれ、僅かに硬直する。
レイディルは一瞬だけ目を見開いたが、迷う間もなく突進し、勢いそのままに剣を持った右手で帝国兵の兜ごと顔面を殴りつけた。
兜は吹き飛び、兵は二歩、三歩と後退、たたらを踏む。
だが無力化には至らない。すぐさま大きく後方へ飛び退き、壁を支えにし再び魔術の構築を始めた。
「うおぉぉ!」
レイディルは咆哮し、手にしていた剣を渾身の力で帝国兵に投げつけた。
剣は縦に回転し、勢いよく帝国兵の左肩を目掛けて飛翔する。
帝国兵は大きく右に身をひねり、剣を躱した。
剣はそのまま民家の壁に深々と突き刺さった。
帝国兵が一瞬安堵した表情を見せた。
だが、先程大きく動いた事が仇となり、その隙にレイディルは間合いを詰める。
空いた距離はそのまま助走となる。
一気に懐に飛び込み、加速を乗せた一撃──
右の拳が再び帝国兵の顔を捉えた。
叩き込まれた衝撃で、後頭部を壁に打ち付け、その場に崩れ落ちた。
大通りは再び静まり返り、レイディルの荒い呼吸だけが、夜に染みる。
大慌てでアリーシアスがレイディルの元へ駆けつけた。
「だ、大丈夫ですか!?」
息を整えたレイディルに、ようやく彼女の声が耳元に届く。
駆け寄る彼女の顔は少し青ざめていた。
「見たか!? 今の!」
アリーシアスの心配も他所に、壁に刺さった剣を引き抜きつつ、彼は嬉々とした声を上げた。
「出来た! 出来たぞ!」
開口一番、これである。
さすがのアリーシアスも呆れてため息をついた。
「ええ、ええ、見てましたよ……
確かにそれも大切です。よく出来ました。
……でも、その前に左手見せてください」
「……?」
言われて初めて、自分の腕がまだ熱に痺れていることを意識する。
「あっ、そうだった……」
そう言いレイディルは腕を差し出した。
「医療の専門家じゃないんで正確には言えませんが……浅くはないですね。
幸い防御壁が構築できたからよかったものの……」
レイディルのその手は火傷により、皮膚が赤く焼けてひどく腫れていた。
戦闘中は極度の集中状態だったため気にもならなかったが、落ち着いた途端、じわじわと痛みが意識を侵食してきた。
「改めて言われると、なんか痛い気がしてきたな……」
「腕が吹き飛ばなかっただけでも、御の字です。
どうせ、わたしの盾になれれば上等だとかなんとか考えていたんでしょう……まったく……」
アリーシアスはぶつぶつと文句を言いながら、レイディルの手に指を近づけ、魔力を放つ。
放たれた魔力は優しい冷気となって、彼の腕を包み込み、一時的に痛みを静めていった。
「応急処置としてとりあえず冷やしておきます。
あとでマリーさんにちゃんと治療してもらいましょう」
アリーシアスは一瞬沈黙する。
「……まあ、助けてもらったことは事実ですね。ありがとうございます」
少し目を横に逸らしながらも、淡々とぶっきらぼうに言い放つ。
「ということで、お礼は言いました。
ここでのんびりはしてられないので、さっさと行きましょう」
そう言うと、そそくさと大通りを駆け出した。
レイディルはやれやれと言った感じで彼女の後をついて行く。
「──あ、言い忘れましたが。あとで無茶したお説教ですからね」
背中越しに投げられたその一言に、レイディルは思わず肩を落とす。
彼の視界にあるのは揺れる銀髪と小さな背中だけ。
だが、どうせあの半目でじとっと見られているに違いない、と彼は思った
ひりつく左腕が、妙に存在を主張してきた。
静まり返った大通りに、二人の足音だけが遠ざかっていった。




