第二十二話「丘をこえいこうよ」
トレルムの街を出て、ほどなく歩いた野営地。
小鳥のさえずり、草を撫でる風。
空は雲ひとつなく澄み渡っている。
静かで穏やかな朝だった。
その静寂を打ち破る──
悲鳴。
「わ"ぁ"ぁ"ぁ"ーーーー!!」
悲鳴の主はアリーシアスだった。
いつもの物静かでクールさはどこへやら。
今は両腕で何かを必死に抱きしめている。
彼女がしがみついているのは、ヴァルストルムの右手の指。
その掌の上には、彼女とマリーが並んで立っていた。
対になる左手には、レイラが一人。
現在、ヴァルストルムはカーネスへ向かうために直立し、両腕をみぞおちあたりまで持ち上げている。
その掌に三人の女性を乗せての移動だ。
「まだ少し歩いただけだぞ……」
レイディルは操縦席のハッチを開けたまま、様子をうかがっていた。
その顔は、困ったような苦笑に満ちている。
「だいぶ前に操縦席見てた時は平気だったのになぁ……」
「アレは揺れてませんでしたッ!」
アリーシアスは振り向きもせず声を荒らげ反論する。
「レイラさんを見ろよ、微動だにせずみんなに手を振ってるぞ」
「あの人がおかしいんですよ!」
確かにレイラは歩行の振動など気にならないかのように姿勢を崩さず、両手を部下たちに振っていた。
その顔には、いつものような自信のなさがにじんでいたが、少なくとも揺れに怯えているわけではなさそうだった。
そんな彼女と比べられても、アリーシアスには気の毒というものだ。
「無理せず座りましょう? お姉ちゃんがちゃんと肩支えててあげるから……」
マリーは、困惑したような微笑みを浮かべつつ、アリーシアスの様子を気遣うように見守っていた。
「い、いえ……それは無理な相談です……」
アリーシアスの顔がキリッと引き締まり、ぴしりと答えた。
「?」
マリーは小首を傾げる。
何が無理なのか、少し考えあぐねたようだ。
「今は……少しも動けそうにはありません……」
その額には、うっすらと脂汗が滲んでいた。
「おーい、動かすぞー……」
とはいえ、いつまでも止まっているわけにもいかない。
レイディルは開けたままのハッチから顔を出し、一声かけた。
「……ど、どうぞ」
アリーシアスも意を決してうなずいた。
ゆっくりと、ヴァルストルムの足が動き始めた。
大地を踏みしめるたびにズズンという重低音が響き、掌を通じて振動が三人の身体を揺らした。
「~~ッ……」
アリーシアスは、振動が身体を揺らすたびに、声にならない声を必死にこらえていた。
(うーん……馬車くらいの揺れは平気そうだったけど、これはダメか。
そういや、馬も乗れなかったっけ。同じ理由か……?)
アリーシアスの背中をそっと見守りながら、レイディルはそんなことを思い返していた。
ヴァルストルムは、南へ抜けるため野営地の中央をゆっくりと歩いていく。
その背に向かって、レイラの部下たちが声を張る。
「大隊長、お気をつけてー!」
「頑張ってください!」様々な声援が飛び交う。
中には、「カーネスは温泉が良いらしいですよー!」「温泉羨ましい……」と、のんきな声を上げる者までいた。
「ふふっ、ずいぶん慕われてるのね」
マリーは、アリーシアスの体を支えながら周囲の声援に耳を傾け、感心したように微笑んだ。
男女を問わず、多くの部下が親しげに声をかけてくる。
上官に向けたものとは思えないほど、自然で温かい雰囲気だった。
レイラは野営地を抜けるまでずっと手を振っていた。
ヴァルストルムは野営地を後にし、トレルムの街の南へ着いた。
ここからそのまま南東へ向かうとカーネスの街だ。
レイディルは深く息を吸い込み、博士の出発時の言葉を思い返す。
『機動馬車、四日も猶予があったんだから、もう少しマシにできると思ったんだけどね。
無理だったよ、ごめんね。
ならいっそ、こっちが先に出発することも考えたけど──スピードが出ない以上、足を引っぱるだけだ』
その時の博士は、アリーシアスの方を見つめながら、申し訳なさそうな顔をしていた。
今こうしてアリーシアスを見ていると、機動馬車に乗れないのは──
まあ、確かに気の毒ではある。
しかし、悠長に歩いているわけにもいかない。
大隊長をいつまでも連れ回すわけにはいかず、リオ山道の攻略までに、レイラを本隊と合流させる必要がある。
博士が言うには、「出発から合流まで、およそ二週間」が作戦の目安期間──
つまり、それが事実上の期限ということになる。
「さて……アリシア。
悪いけど、少し走るぞ?」
レイディルは遠慮がちに声をかけた。
(ダメって言われても走るが……一応、覚悟だけさせとこう……意地悪じゃないぞ、気遣いだ)
……などと、心の中でこっそり弁明する。
アリーシアスは固まっている。
「か、下半身にこう……グググッと力を入れて……あとは、歯を食いしばれば何とか……!」
レイラが気を使って役に立つのかわからないアドバイスをくれた。
「大丈夫です……やってください……」
アリーシアスは言葉を絞り出すようにそう告げた。
レイディルからは顔は見えなかったが、表情を作る余裕はなさそうだった。
アリーシアスの返事を聞いて、レイディルは軽くうなずいた。
ハッチを閉め、操縦桿に手をかける。
そしてヴァルストルムの足に軽く力を込める。
次の瞬間、巨体は軽やかに、まるで踊り出すように前へと踏み出した。
手のひらに乗せている三人が落ちないよう、慎重に加速をつけていく。
しかし、慎重とはいうが、快適とは程遠い。
機体の動きに合わせ、アリーシアス達の足場は大きく上下に振動した。
しばらく草原を走り抜ける。
一時間ほど走っただろうか。
今の速度は、いつもの機動馬車と同じくらいだ。
このペースなら早々にカーネスへ到着することもできるが──
レイディルは掌の三人に視線を向けた。
さすがのレイラも、振動で身体を大きく揺らしている。
そのまま視線を右へ移すと、マリーがアリーシアスを支えていた。
アリーシアスはすっかり俯いている。
(……もう少し、速度を落とすか……?)
そう考えたその時、目の前に盛り上がった丘が飛び込んできた。
思考に気を取られ、気づくのがわずかに遅れる。
「うわっ!」
ヴァルストルムは大きく跳躍し、丘の上に着地。
そのまま滑るように走り抜けていく。
しかし、跳躍の衝撃は一層大きな揺れを起こし、三人の身体を揺さぶった。
「……今のは、危なかった……」
レイディルは操縦桿を握りなおし、小さく息を吐いた。
(手に皆を乗せてるんだ……ちゃんと集中しないとっ!)
間一髪。
平坦な地面ばかりではない。しっかり前を見て走らねば──
そう思った矢先だった。
「ディルくん! ストーップ!!」
マリーの声が飛び込んでくる。
……
…………
「いや、その……申し訳ない……」
ヴァルストルムを一時的に止め、三人を地面へと下ろす。
レイディルも操縦席から降りていた。
目の前には、岩に身体を預けてぐったりとしているアリーシアスの姿。
「ほんと……安全運転……おねがいします……」
息も絶え絶えといった調子で、彼女はゼェゼェと肩を上下させていた。
平地はなんとか耐えていたが、跳躍の衝撃がこたえたらしい。
「しばらく休みましょう」
アリーシアスの様子を見たマリーが提案した。
「確かに、このままでは後に響きます……無理せずここで休憩を取りましょう」
レイラも同意する。
こうして一行は、小休止を挟むことになった。
「今、どれくらい来ましたか……?」
ふとレイラが尋ねた。
「通常の馬車なら、トレルムからカーネスまで六日と少しくらい……かな?
ざっくり計算すると、今は一割ほど進んだところです」
レイディルの言葉にレイラは顎に手を当て、考え込む。
「あの……少々時間がかかってもいいので……もう少し速度を落としましょう。
きっとそれがいいです……」
レイディルも提案しようと思っていたが、レイラにそう言ってもらえて助かった。
「それでも普通の馬車よりは速いですし、無理は良くない……です。
それに私も疲れますし……」
レイラはアリーシアスの方をチラリと見る。
私も疲れる……気を使ってくれた言葉なのだろうとレイディルは思った。
「大丈夫……」
アリーシアスは項垂れたまま、絞るように言葉を続けた。
「と、言いたいところですが……わざわざ強がる必要はありませんね……速度を落としてもらえると、助かります……」
続けて、ぽつりとこぼす。
「高さだけなら平気なんですけどね……」
速度を落とせば、揺れや振動もいくらかは和らぐだろう。
とはいえ、大きく揺れることに変わりはないが。
マリーによれば、アリーシアスはグレナウや森での機動馬車の激しい運転にも難なく対応し、その後も上々の動きを見せていたという。
(意外な弱点もあったもんだな……)
なんでも出来そうだったアリーシアスだけに、レイディルは妙に親近感が湧いた。
ともあれ、短い休憩を挟んで再びヴァルストルムの掌へと戻る。
今回は安全と安定を重視し、アリーシアスは座ったまま搭乗することにした。
ヴァルストルムの太い指に抱きつくようにして身を預け、背後からはマリーが覆うように支えている。
「……せまい」
アリーシアスがぽつりと漏らす。
前には機械の指、後ろにはマリーの豊かな胸──まさに挟まれた格好だった。
ゆっくりとヴァルストルムが動く。
「シアちゃん、大丈夫?」
心配したマリーがアリーシアスに声をかけた。
「……」
少々の沈黙の後、
「……弱点とは、克服するためにあるんですよ……」
アリーシアスはそう答えた。
しかし、その顔は依然無表情である。
「さすがシアちゃんね。
でも無理だったらちゃんと言ってね?」
マリーは優しくアリーシアスの体を気遣った。
ヴァルストルムは、極力揺れが起きないよう慎重に進む。
適時休みながらだが、すでに四時間は走ったか。
マリーが空を仰げば、そこには赤く染まる空が広がっていた。
夕日が、走る巨躯の影を長く伸ばしている。
やがて、太陽は完全に落ちるだろう。
夜が世界を支配する前に──
レイラが手を振って停止の合図を送った。
たとえレイディルが解析魔術を使い、地形や視界を把握できたとしても、夜間の走行には様々なリスクが伴う。
集中力の持続には限界があり、不測の事態への対応も難しくなる。
加えて、搭乗者たちは外部に剥き出しのままだ。地形の変化による転倒など、万が一の危険を考えれば、無理に進むのは得策ではない。
ヴァルストルムは三人を振り落とさぬよう、静かに停止した。
「こ、ここで……夜営をしましょう。暗くなってからでは、遅いと思うので……」
夜営の準備は、日が落ちる前に終わらせるのが望ましい。
レイラの冷静な判断だった。
動きが止まった途端、静寂が辺りを包む。
固まったままのアリーシアスを平地に下ろし、一行は夜に備えた準備を始めた。
焚き火の燃える木の音が心を落ち着かせ、
水を飲む音が静かな夜の闇に溶ける。
焚き火を囲み各々が座っている。
「ふぅ……」
アリーシアスが水を一気に飲み干し一息つく。
「準備も手伝わず、申し訳ない……」
今しがた硬直から復帰したところだった。
「いいのよ、ゆっくり休んでね」
「そ、そうですよ。しっかり回復してもらわないと……!」
マリーとレイラ、二人が温かい言葉をなげかける。
レイディルはそれを静かに見ていた。
「まぁ……慣れてみせますよ……」
少々自信なさげに答えるアリーシアスにレイディルは短く「おう」とだけ答えた。
言葉は少ないが、彼の視線には励ましが込められていた。
「はい、お姉ちゃん特製のシチューが出来たわよ」
マリーは焚き火にくべられた鍋をかき混ぜ、皆にシチューを振る舞う。
「食べられそう?」
アリーシアスにお皿を差し出しながら、マリーが心配そうに尋ねる。
「はい、大丈夫です。……酔っているわけじゃありませんし、もう落ち着きました」
そう言って、お皿を受け取った。
お皿から立ちのぼる湯気が、冷えた夜の空気にすっと溶けていく。
シチューの温かさが、ひとときの安らぎをもたらした。
四人は静かにシチューを口に運ぶ。
振動に揺られ疲れた身体に染みわたる。
携帯用の食材が使われた簡素なものだったが、その味は素朴で優しく、胃に負担のない軽い味付けだった。
焚き火のパチパチという音だけが、静かな夜に響いている。
「そういえば、マリーさんは何故自分の事を『お姉ちゃん』って言うんですか?」
ふいにアリーシアスがかねてよりの疑問を投げかけた。
「そうねぇ……」
マリーは少し考え言葉を続けた。
「私ね、昔から妹に話す時、『お姉ちゃん』って自分のこと言ってて……それがクセになっちゃったのよ」
マリーは、少し照れくさそうに笑う。
「ほら、ディル君とシアちゃんって、なんだか私にとって弟と妹みたいなんだもの」
そう言うとマリーはフフフと微笑んだ。
なるほど、とレイディルは頷いた。
「……姉妹ですか、良いですね。
わ、私にも兄がいて……とても良く出来た兄です」
「あらあら、妹さんにそう言われるなんてお兄ちゃん冥利に尽きるわね」
レイラとマリーは、顔を見合わせて笑った。
「わたしが妹──ですか」
言われたアリーシアスがポツリと呟いた。
「あら、嫌だった?」
マリーが申し訳なさそうな顔をする。
「いえ、別段そういうわけではないのですが……
一人っ子なものでよくわからない、というか……」
アリーシアスは悩むように首を傾げた。
そしてレイディルの方を「ですよね?」という目で見る。
同じ一人っ子として同意を訴えかけてきた。
「いやぁ、オレは実の兄弟はいないけど、リオルド兄さんがそんな存在だからなぁ」
その言葉を聞いたアリーシアスはジトっとした目になり、「……裏切り者ですね」と、漏らすのだった。
二人のやり取りを見て、マリーは「あらあら」と笑顔をこぼした。




