第七章 熊か蛸か
千影とルイの行く手を塞ぐ長身の男は、優雅に目を細めて笑った。
「かの鳳蝶の方々に俺達を知っていて貰えるなんて光栄だ」
すらっとしたスタイルにウェーブのかかった栗色の長い髪の毛。一見女性に見えそうだが、声と身長でかろうじて男性だとわかる。
…そしてまわりを圧倒するオーラ、場に流れる緊張感からこいつがこの場所で一番偉い人物で間違いない。
「お前がここのボスか?」
ルイが尋ねると、「うちの大ボスは俺じゃないけれど」と一言置いて男は言った。「僕は愚裏厨離の第二郡長を務める緋狩結尭さ。ぜひお見知り置きを。」
ルイは顔色には出さないが、警戒を解かず緋狩から視線を逸らさない。
「なるほど。聞いたことがある、愚裏厨離は全部で4つの群、うちで言う隊みたいなのがあると。つまりお前は四大幹部…と言って差し支えないポジションって訳か。」
「まさしく!して、君達は何方か聞いても?」
少し変わった緋狩の言葉遣いに怪訝な顔をしながらルイは答える。
「俺は鳳蝶二番隊副隊長の小鳥遊ルイ。こっちは、一番隊見習いの千影だ。」
フム…と言って顎に手を当て、緋狩は頷いた。
「なるほど。副隊長さんか。
フムフム、今日はどのようなご用件で?」
そう言って怪しげににやけた緋狩に苛つき顔を歪めて千影は答えた。
「…分かってんだろ、そっちも」
「千影、そんな怖い顔しないの」
ルイが諭すが、千影は睨みつけるのをやめない。
「この商店街を荒らすのを止めろって話?だよね!そんな顔してるし。
でもごめんね、それは無理。俺もボスの命令があるし、止めさせたいなら君達が力づくで止めなきゃ。ってことで…」
緋狩はパチンと指を鳴らし、人差し指を頭へと当てた。その瞬間、ふっと緋狩の指は自身の皮膚をすり抜けて脳のある辺りへと入って行った。
「手術1:神経」
緋狩が突然白目を剥いて、ぐるりと黒目を一回転させる。何が起こったのか理解できずにいる千影の腕を引き、ルイは再度千影にしっかり斧を握らせて構え直させた。
「ただの能力だ、慌てるな」
どんな能力か見極めろ、そう言ってルイはじっと緋狩を捉えた。
「サて、今日ハどんナ手術にシよウかな?」
突然、緋狩の体が大きくなった。
嫌、膨らんだと言った方が正しいのかもしれない。全身の血管が浮き出て、筋肉という筋肉が盛り上がり、一見しただけではとても人には見えない。
「マッスルターイプ!」
満面の笑みを浮かべながら緋狩は叫んだかと思うと、次に瞬きした時には緋狩は千影の目と鼻の先にいた。
「まずはキミからバイバイだねぇ」
もうダメだ、千影が思ったその時。
「目ぇこじ開けろ、千影ぇ!!」
巻き上がる旋風に乗って、千影は空高く放り投げられる。
「鷹羽撃」
ルイが羽で風を作り出す。上昇気流に押し出され緋狩が一歩後退り、目に砂が入ってよろめく一瞬の隙をルイは見逃さなかった。
「鳥撃・一式」
手を前で交差させ、勢いよく振り下ろした。
「風鷹」
「ぐっ…!」
血飛沫が舞い散る。風が鎌鼬のように緋狩の体を切り裂いた。致命傷には届かなかったが、ダメージは入ったはず。ルイも千影もそう思っていた。
しかし、「痛いなぁ〜」と首をゴキゴキと鳴らして、緋狩がまた脳に指を突っ込んだ次の瞬間、先程の傷は綺麗さっぱり消えてしまった。
「なっ…」
ルイが一撃で仕留められると思っていたわけではないが、あっさり全回復されてしまって、千影は少なからず焦っていた。
向こうが郡長といえど、こっちは二番隊副隊長なのだ。もしルイがやられてしまえば、後には隊長である文清しか残っていない。文清の実力がわからない以上、こちら側が詰む可能性だってあるのだ。
「焦んな、千影」
青ざめる千影の顔から何か察したのか、ルイは自分の手を千影の肩にポンと乗せてさすり、自分の口を千影の耳元へと寄せた。
「俺が…するから、お前は…の隙に…しろ」
囁くルイに千影は眉根を寄せた。
「そんなんで上手くいくのか?もしそれでアイツが倒れなかったら…。」
ルイは口角をにっとあげて、イタズラっぽく笑った。
「俺らが負けるわけねぇよ」
そう言ってルイは地面を思い切り蹴り上げる。
前から緋狩がまっすぐ襲いかかるのを小さな体躯でするりと躱したかと思うと、右手で銃のような形を作りその後ろに左手を開いて当てた。
「早贄」
途端に緋狩の動きが糸で釣られたかのように止まる。
「何故だ、何故動けない…!」
必死に口だけ動かしても、緋狩は身動きが全く取れないようだ。
「よぉし千影、頼むぜ!」
ルイが目配せすると同時に千影は自分の斧を振り上げ、緋狩の脳、彼は指を差し込んでいた部分を目掛けて思い切り振り下ろした。
「うあああああ!!!!」
緋狩の断末魔が響き渡る。勝った、と確信してルイが結んでいた手を緩めた時。
「かはっ」
目を見開いてルイが地面に倒れ伏した。
「ルイっ!?」
トドメを刺そうとする緋狩から庇うようにして、千影はルイに駆け寄った。
ルイの背中には3本の引っ掻き傷のようなものがついていた。
「駄目じゃないか、熊に背中を見せちゃ」
目の前の緋狩は筋肉が落ち、最初にあった時の体型へと戻っていた。手には金製に見える熊の手ようなグローブを嵌めていた。長い鉤爪が鋭く尖り、鈍く光っている。
「いやはや、危ない危ない。まさか急所を狙われるとは。モデル:蛸じゃなければ死んでいたよ」
じりじりと近づく緋狩に斧を構えながらも、千影の手は震えていた。…どうする、どうする、俺達はここで負けて死ぬのか…勝敗を悟った千影は、全てを諦めたように力を抜いた。斧が音を立てて地面に落ちる。…せめて敵の弱点くらい見つけたかったな、そう思い千影は空を見上げた。
…蛸?
千影は幼い頃奏恵が言っていたことを思い出す。蛸には3つ心臓があるのだと。
…もし蛸の心臓の場所と同じ場所に急所があるのだとすれば?
熊か蛸かどっちかにしてくれ、と突っ込みたくなるのを抑えて、落ち着いて頭を回す。
千影は蛸の心臓の位置など知らない。しかし、この情報を伝達さえできれば勝利への糸口が掴めるかもしれない。
…なら、ここで死ぬわけには行かない!
「ぁぁぁあああああ!」
緋狩の鉤爪を防ぐようにして、斧を振る。金属のぶつかり合う音が響き渡り、千影の斧を持つ手に力が入った。
斧が怪しげに光りだし、緋狩が異変を感じる。千影は口角をにいっと上げ、すうっと息を吸って呪文を唱えた。
「十影斧術・円武」
遠心力をつけて斧を回す。緋狩はたかがへなちょこ野郎の斧だ、といった顔で腕を前に交差し、防御の姿勢をとった。しかし、千影の斧は緋狩を切り裂き、赤い飛沫をあたりに散らした。決して深くはないが、緋狩の腕に一本の傷が走った。
「ただの斧だと思って油断したな…!」
千影は口元を緩めにやりと笑い、斧を振り回す。その切先が緋狩の体を掠めるたび、緋狩のスピードが僅かに落ちる。千影の斧は代々伝わる魔力の込められたものであり、「蜥蜴」のパワーを持つものが使うことで、その真価を発揮する。戦闘時に表に出ず体の奥底で眠るパワーを斧の威力として発動でき、さらには相手に傷をつけるごとに相手にごく少量ずつだが毒を与えることができる不思議な代物なのだ。
ただ、パワーを消費することは体力の消耗につながる。千影の先ほど放った一撃は千影にとって大分負担が大きかった。この状況が変わらなければ、千影とルイ、2人で生還することは厳しいだろう。
「ごめん、ルイ!」
ルイのバッグを弄り、何かのレシートとペンを取り出し、「タコの心臓」と書いてルイのズボンのポケットに捩じ込んだ。
何をしているか分からず呆気に取られていた緋狩も、情報を伝達しようとしていることに気づいて眉を顰め、千影に近寄る。
緋狩が千影のことを捕まえるのと殆ど同時に、千影はルイを思い切り蹴飛ばした。
ルイが商店街の奥の方まで吹き飛ぶ。ドンという鈍い音がして、石畳に小さな体がぶつかった。
あの衝撃でルイが目を覚ましてくれれば。この間に誰かが助けに来てくれれば。千影は一縷の望みにかけ、自分が少しでも時間稼ぎになるように祈るばかりだった。
「彼を遠ざけたところで、一時の気休め。君を殺した後に抵抗しない彼を殺せばいい話だ。」
愚かな子、そう言って悲しそうな顔をし、緋狩は千影の首元を掴んで持ち上げ、一気に手を振り下ろした。
…後は頼んだ、ルイ。
絞められた首が苦しくて、上手く息ができない。きっと俺は死ぬのだろう、そう思うと、可笑しさすら込み上げてくる。死の淵にそんなことを考えていると知られたら、幼馴染に笑われてしまうだろうか。
大切な幼馴染すら守れず、根拠のない希望に祈ることしかできないなんて、何がヒーローサイドだ。
…ああ、結局俺は無力なのか。
ぼやける瞳にグッと力を入れて、千影は最後の力で緋狩を睨みつけていたが、やがて絞められていた首が苦しくなって目を閉じた。
最後に目に映ったのは、鈍く光る熊の爪。
キィィン。
明らかに斬られた時とは違う、金属と何かがぶつかり合う音がした。緋狩の手の力が抜け、千影は地面へと投げ出される。千影は何が起こったのか分からないまま、恐る恐る目を開けた。
「先日の威勢はどうしたんですか?
口ほどにもないですね。」
そこには、片足で緋狩の一撃を受け止める長身の男、鳳蝶二番隊隊長の仙水文清が涼しげな顔で立っていた。