表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/6

最終章:残響の行方

佐伯刑事は薄暗い取調室のドアを開け、机に向かう渡辺健二を静かに見つめた。

書類の山が無造作に積まれたスペースには、坂口刑事が腕を組んで佇んでいる。

部屋の中には重苦しい空気が垂れこめていた。

一歩足を踏み入れると、渡辺の傍らの椅子を指して坂口が小さく頷く。

佐伯は黙ったまま腰を下ろし、ファイルを開いた。


「山田義男さんを殺害した理由ですが」

佐伯は声を落とし、視線を渡辺の硬直した横顔へと向けた。

「あなたは ‘ダジャレのせい’ と語りました。

それがどれほど苦痛だったのかも、これまでの供述で見えてきました」

隣から聞こえる坂口の息遣いには、まだ理解しがたいという気配が混じっている。


「くだらない冗談で人を殺すなど、常識では考えられない」と彼はぽつりと漏らす。

だが佐伯は机上の資料に目を落としたまま言う。

「渡辺さんの会社は、人間関係が相当歪んでいたように思います。

山田さんのダジャレや執拗な強要は、ただの冗談を越えていた。

それを ‘場を和ませるため’ と称していたけれど、実態は一種のパワーハラスメントと言える」


渡辺は荒い呼吸を落ち着かせるように、両手の指を擦り合わせている。

顔色はひどく蒼白だが、瞳の奥には疲弊しきった狂気の名残がにじむ。

ときおり唇が動くが、言葉にはならない。

佐伯がファイルを閉じ、声を低める。


「過労やパワハラに苦しみながら、逃げ場のない社員は珍しくありません。

日本の職場は、実績や上司の機嫌を最優先にして、まともなコミュニケーションが後回しになることが多い。

仕事ができても笑わなければ責められる。

笑えなければ疎外される。

そんな空気に押し込められた人間が追いつめられたら、何が起きても不思議じゃありません」


坂口は唇を噛みながら言葉を探すようにし、やがて視線を渡辺へと移す。

「けど、殺すまでいくってのは……」

言いかけた声が尻すぼみになってゆく。

そこには、理屈だけでは片づけられない深い闇が横たわっている。


逮捕後、渡辺は検察に送致され、裁判が始まった。

会社の同僚たちは法廷で証言し、山田のダジャレ攻撃を「たしかにきつかった」「笑わないと機嫌が悪くなった」と口々に述べたが、誰ひとりとして「殺意が芽生えるほど深刻なものだった」とは想像していなかったと言う。

彼らは自分たちがしてきた「やり過ごし」が、ある種の共犯関係を生んでいたとは気づかず、あるいは気づかぬふりをしていた。


法廷に集まった証人の言葉からは、山田の言動が日常的なパワハラ行為に近かった事実が浮き彫りになる。

裁判官は「殺人という結果は到底許されないが、会社内での精神的圧迫は社会全体としても看過できない問題」と述べ、結果として渡辺に懲役の実刑判決を下した。

殺人の重大性を認めつつも、職場の空気や上司との歪な関係が彼の精神を破壊に導いた点を斟酌する形になった。


判決後、同僚たちは職場の在り方を問い直すための調査委員会を立ち上げたが、当の会社は「対外的な信用問題」を懸念してか、報道陣には曖昧な回答を繰り返すばかりだった。

山田のダジャレが引き金とは信じがたい、という声が多かった一方で、過酷な勤務体系や上司への盲従を余儀なくされる風土が、いつしか当たり前になっている現状もあぶり出される。


佐伯刑事は判決後、坂口刑事と一緒に喫茶店のテーブルを囲んでいた。

坂口は苛立ちを隠せないまま、砂糖を入れすぎたコーヒーをかき混ぜている。

「理解しにくい事件だな。ダジャレで人を殺すなんて。

けど、たとえ小さな言葉でも、狂わせるほどの毒になり得るってことか」


佐伯は頷き、窓の外を通り過ぎる人波を見つめる。

「他の誰かにとっては取るに足らない一言が、ある人にとっては生き地獄のような重圧になる。

それを見過ごしてしまうのが、閉鎖的な職場という場所なのかもしれない。

誰も深く踏み込まないし、誰も進んで助けない。

日本の労働環境には、そんな病理が巣食っている」


坂口は空になったカップをそっと置き、「被害者も加害者も、不幸だな」と苦い表情をつくる。

佐伯は静かに目を伏せ、口を開きかけるが、そのまま何も言わない。

彼の脳裏には取り調べの最中、渡辺が呟いた言葉が再生されていた。

「……わかりません。だけど、毎日が地獄だった」


そう呟く男の姿は、社会というシステムのひずみに押しつぶされた哀れな影でもあり、憎悪に彩られた一人の犯罪者でもある。

決して単純に「加害者と被害者」だけで割り切れない闇を、佐伯は見た気がしていた。


法廷で読み上げられた判決文を聞いた渡辺は微動だにせず、瞼を閉じたまま看守に連行されていったという。

それを後に伝え聞いた佐伯は、長い溜息をついて手帳を閉じた。

この事件が、多くの人にとって一時のスキャンダルで終わらず、日本の職場環境の在り方を見直す契機になればいいと、それだけをぼんやりと考えていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ