幕間⑤:本当のさよならをしても暖かい呼吸が私には聴こえている
今回の幕間の主役はありちゃんママの志緒里さんです!
お盆のお墓参りの時に割愛した、康二さん(ありちゃんパパ)や英里華ちゃんなども踏まえた、
宇都宮家のお話になります。
色々と粗はあるでしょうが
目をつぶっていただければ嬉しいです……。
3章第9話とセットでお読み頂けたら、と思っています。
※直接的表現はほぼないですが、
今回かなりR15指定の内容です。
お話的にも"完全幕間"ですので、
特に読まなくてもこの先の内容に大きな影響はありません。
少し読み進めて、もし『無理だ』と感じたなら
どうかご自衛の為に読むのをおやめ下さい。
また、似た境遇に苦しんでいる方も
絶対にいらっしゃると思いますが、
内容的にどうしても必要なことでしたので、どうかお気を悪くなさらないで下さい。
決して面白半分で書いているわけではありませんが、前もって深くお詫び申し上げます。
私はお線香に火をつけて仏壇に手を合わせる。
優しそうに微笑む遺影に私も笑顔を返す。
「んじゃ、お母さん、行ってくる!」
長女の亜里紗が玄関から声を掛けてきた。
「はーい。楽しんでらっしゃーい。
遅くなるようならちゃんと連絡するのよー?」
「もちろんだ! 心配いらないから!!」
―――まったく。本当かしらね……。
こう釘を刺しておかないと、たまに無断でとんでもなく遅く帰ってくるから困ったものだ。
日付が変わる頃に帰宅するならまだましなほうで、下手をすると無断外泊してしまう日もある。
まぁ、世知くんとの仲だから、と甘い顔をしてしまうのは、母親失格かもしれないわね。あの人がここにいたらどんな顔するかしら。
バタン
ドアの閉まる音がした。
今日はその世知くんのお誕生日祝いって言ってたかしらね。
ちゃんとした誕生日は明日の9月1日なのだけれども学校が始まるので、前日の今日に2人で前祝いをするって話だったわね。
何処に行くのか聞いてないけれど、こんな朝早くからめいっぱいオシャレして弾けんばかりの笑顔で出かけていった娘の顔を思い出して、私は目を細めた。
―――康二さん。
あなたの娘はあなたに似て、
情の深い真っ直ぐな子に育ちましたよ。
あと、自分の衝動を我慢出来ないところとかは
もしかしたら私似なのかしら。
亜里紗はあなたのことをそう思っている節があるのだけれども。
私は再び遺影に向かって微笑んだ。
亜里紗は貴方にたくさん可愛がられたこと、ちゃんと覚えてるかしらね。
やりたいことはなんでもやらせてましたもんね。
特にピアノは今でも形を変えてですけど、ちゃんと続いてますよ。
でも、貴方に関しての記憶は亜里紗にとっては、いい印象が残ってないのが本当に残念でならないわね。
あなたの希望でそういう流れになってしまったけれど、それだけでなく、たまたまお酒が過ぎた時に、私に手を上げてしまった場面を亜里紗は2回ほど見てしまったものね。
康二さんが私に手を上げたのはその2回だけ、なのだけれども。
いくらあの人がお酒に酔っていたとはいえ、あの人が怒るのは当たり前だったと今でも思ってる。
あれは全面的に、私が悪い。
一般的な常識に当てはめれば、なのだけれど。
あんな提案を私の口から聞かされて、あれほど激高したということは、それほどまでに私を愛していて下さっていたのだろう。
「…………本当に、ごめんなさいね。あなた。」
思わず口から零れてしまっていた。
でも、私にあまり後悔はない。
結果的にもっと良いやり方があったのかもしれないけれども、あの時の私の決断があったからこそ、今の私たちがあるのだから。
「んーと、んとんと……。」
聞こえて来た声で我に返ると、こんな朝早くからリビングで英里華が夏休みの宿題のラストスパートを頑張っているのが見えた。
絵日記も漢字書き取りも終わらせて、残すところは今やっている算数のドリルだけだ。それも毎日決めた数をキチンとこなしていたのだから、残っている量なんて本当に大した量じゃない。
「……終わった! ママっ!終わったー!!」
「頑張ったわねー! 英里華!
えらいわねー!!」
私の胸に飛び込んできた英里華を抱きしめ頭を撫でてあげる。
「えへへー! がんばったー!!」
輝かんばかりの笑顔が嬉しい。
この子が私を『ママ』と呼んでくれるのが本当に嬉しい。
―――実の母ではない私を。
英里華の父親は康二さんで間違いないのだけれど、母親は私ではない。
康二さんが天国に旅立ってしまう時に、我が家に娘として英里華を迎え入れたのだ。
普通の一般常識に当てはめれば、康二さんは不貞の輩という扱いになるだろう。
その事実から亜里紗はあなたに対して『自分の欲望に忠実』という印象を抱いてるのでしょうね。
「……………………。」
私は、愛おしさが込み上げてきて、英里華の髪を優しく撫でた。
張り切って早起きしたからだろう。
英里華は、すーすー、と寝息を立て始めた。
康二さんの名誉のために言わせてもらうならば、私が愛した人はそう簡単に私を裏切る人ではなかった。
優しくて気弱な人で情に深く、控えめながら誰からも愛される人だった。
それで周りのしがらみや、抑圧していた自分に振り回されて時々、お酒の力で逃避することもしばしばあったけれども、あの人なりに家族を愛してくれていた。
他に女を囲うような甲斐性も意気地も持ち合わせているとはとても思えなかった。
ここに、英里華がいるのは、
すべては私のわがままだ。
私の願いを康二さんに伝えるたびに、康二さんは頑なに拒否してこばみ続けた。
家族を、私や亜里紗を愛しているあの人からすれば、とても受け入れられる話なんかじゃなかっただろう。
それはわかってた。
でも、私は折れなかった。
素面の時もお酒が入ってる時も、私はお願いし続けた。
強情な私に激高して手を上げられても、私は折れなかった。
なぜなら、あの時の私は姉さんがこの世に生きた証が、どうしても欲しかったからだ。
「――――姉さん……。」
そう。
確かに、英里華は私の実の子ではない。
しかし、この子と私は、血が繋がっている。
英里華は、私の実姉の娘なのだ。
―――わたしの2つ上の、姉の里美は、私にとっては憧れだった。
名家ではないながらも、そこそこの良家だった私の実家の長子として、姉はいつもそれに相応しくあろうとしていた。
それなりの男性を婿に迎えるか、もしくは名家の長男に嫁ぐのか、いずれにせよ相応の大和撫子になるべく、姉はとても努力していた。
自らの矜恃なのかそれとも持って生まれた素質なのか、元々の人格者な内面も伴ってか、姉は何処に出ても恥ずかしくない素敵な淑女となっていた。
私はそんな姉が誇らしかったし、姉も私をとても可愛がってくれた。
姉の里美は、私にとって正に理想の女性であった。
そんな姉の将来は、輝かしい未来が待っている、と、私は信じて疑わなかった。
のだが。
私が18を迎えた年、姉が20を迎えた年のことである。
兼ねてから親交のあった旧華族の流れを汲む宇都宮家の次男と私の縁談が正式にまとまった。
私と康二さんはもともと同じ学校だったこともあり、家も近かったことから、私たちが懇意になるのは自然な流れだった。
両家にとっても次男と次女ということでさして大きな問題もなく、私たちが20歳を迎えた暁に祝言を執り行う、いわゆる婚約という形になった。
―――さらに、もうひとつ。
私と姉にとっての、弟が産まれたのだ。
両親ともにまだ高齢というほどの年齢でもなかったこともあり、私たち姉妹と歳は離れてはいるものの、弟の誕生はそこまで不自然な流れではなかった。
この年、我が家にとっては名家との繋がりと、跡取りの誕生という、吉事が2つも舞い込んだことになった。
これには父も母も本当に喜んだし、私も康二さんも幸せいっぱいだった。
そう。我が家の人間はみな、幸福に満ち溢れて笑顔になっていた。
ただひとりを除いて。
名家との繋がりの婚姻の役割を私に奪われ、
婿を迎えての跡取りという名目も弟に奪われ、
姉は自分を支えて形作っていたアイデンティティを粉々に粉砕されてしまっていた。
私の婚約とは別に、姉も何処か他の良家に嫁ぐ道もあっただろうに。
私に先を越された時点でその選択肢すら見えなくなっていたのかもしれない。
私たちが知っていた、優しくて真っ直ぐで気高くて誇り高く慈愛に満ちた姉はもう何処にもいなかった。
坂道を転げ落ちるかのように素行の悪化を極め、父から絶縁を切り出されると同時に、何処の馬の骨かもわからないチンピラみたいな青年と駆け落ちして家を出て行ってしまった。
「………………………………………………………。」
あの日のことを思い出すと今でも涙が出てくる。
どうすれば。
どうしていれば、あの素敵な姉のままでいられたのだろう。いてくれたのだろう。
悪くない。
実際は誰も悪くない。
だからこそ耐え難いやるせなさが常に私の胸を締め付け続けていた。
とは言うものの、康二さんの元に嫁いだ私は、翌年に彼との間に愛娘の亜里紗を授かり、何一つ不満のない幸せな日々を重ねていた。
私だけが幸せになって良いのだろうか、という疑問を心の奥底に抱えながら。
康二さんもお飾りながら、宇都宮家の所有する小さな企業の役員として、彼なりに頑張って働いていたし、すくすくと育つ亜里紗に私たちは"幸せ"とは何たるかを日々実感していた。
ただひとつ、私たちが不幸だったのは、亜里紗を産んだ時に私は、もう二度と子供を産めない身体になってしまったということだった―――――
そして、亜里紗が5歳を迎えた年。
私は26になっていた。
姉の里美は28になっている年だ。
日々幸福に過ごしてはいたが、心の何処かで後ろめたさを感じていた私は、いけないと思いつつも、興信所を使って遂に姉の居所を突き止めてしまった。
父にも母にも内緒だったけど、私が姉を気にかけていたことは、唯一康二さんには打ち明けていた。
『志緒里が義姉さんのこと
大事にしたいのわかるよ。』
康二さんは私の心情に寄り添って微笑んでくれた。
そして、私は康二さんに甘えてしまった。
亜里紗が眠ったあと康二さんに任せて、私は夜に1人で姉に会いに行くことにしたのだ。
幸いなことに、姉の居場所は私たちの住む地域からそこまで離れてなかった。
姉は、電車でふた駅ほど離れた都内の北部のさびれたスナックで働いていたのだ。
『……?』
何年かぶりに見た姉は、かつての面影は影も形もなかった。
『……? あんたまさか、志緒里……?』
初め、彼女を姉と気付けず、逆に姉が先に私に声を掛けてきたのだ。
『……………え、、、里美、姉さ……ん…………??』
なかば訝しげに返答した私に、目の前のみすぼらしくくたびれた女が激高した。
『何しに来やがったッッ!!!
わたしを笑いに来たのか??
こっちはお前の顔なんざ見たくねーんだよ!!!』
『こらっ!ミサキ!!
お客さんになんだいその態度は!!!』
"ミサキ"とは、姉の源氏名だろうか。
カウンターからママさんに窘められて、姉は親の仇でも見るような目で私を射抜きながら腰を下ろした。
『ほらっ、あんたも座って。
少しなにか飲んで落ち着きな。』
ママさんに言われて初めて、私は立ち尽くしたまま涙をこぼしていることに気付いた。
『はっ、はい……。
ありがとうございます…………。』
カウンターの端の席に腰掛けると、目の前にホットコーヒーが運ばれて来た。
はっとして顔を上げると、ママさんが私に優しく微笑んだ。
『…………………………よく、ここがわかったな。』
カウンター席の反対側の端から、姉が語りかけてきた。
『……うん。まぁ、、、』
上手い言い訳が思いつかなかった。
『………………チッ』
舌打ちすると姉は煙草に火を着けた。
『…………ね、姉さん、げ、元気だった……?』
なんとか言葉を喉の奥から絞り出す。
『ハッ、元気そうに見えるのかよ。
あ~、ママ! お客さん来たら呼んで?
ちょっと奥行ってるわ。』
言いながら姉はこちらをチラリとも見ずに、煙草を揉み消して奥へと引っ込んでしまった。
『……………………………………………………。』
やっぱり、姉は頑ななままだった。
『……あなた、ミサキちゃんの妹さん?』
『………………。』
ママさんの声に、私は頷くことしか出来なかった。
『ミサキちゃん、家出したって言ってたものね。
あなたはこうしてお姉さんを探しに来たのね。』
『…………はい。
げ、元気でやっているか、いつも気になってて、
昔みたいに仲良く出来たらって、
思ってたんですけど、なんだか
難しいのかなーって…………。』
私の言葉に、ママさんは目を伏せた。
『ミサキちゃんから聞いた話だと、
あなたたち家族が悪いわけではないって
思ったんだけどね……。
でもまぁ、あの子も色々あったからね……。』
『え! 色々って……!
姉さんに何かあったんですか……?!
駆け落ちした方とは今も一緒なんですよね……!?』
思わずママさんに食い付いてしまった。
『妹さんのあなたになら、話してもいいのかしら。
きっとあの子、どんなに妹さんが心配してても
なんにも話そうとしないに決まってるし。
だからと言ってアタシの口から語るのも
本当は良くないんだろうけどね。
もしミサキちゃんが怒ったら、
アタシが怒られてあげるからね。』
『……え、ありがとうございます……。
でも、よろしいんでしょうか……。』
『ミサキちゃんは奥にいるし聞こえないわよ。
でも、アタシから聞いたってのはナイショね?』
そう前置きして、ママさんが口を開こうとしたところで、私は踏みとどまった。
『……待って下さい。
やっぱり、こういうのは姉の口から
聞くべきかもしれません……。』
ママさんにそう告げながら私は立ち上がった。
『ふふっ。
本当の事なんて話す気なかったんだけどね。
アンタがそれなりにちゃんとしてて
安心したよ。試すようなことして悪いね。』
やっぱり。
初めは姉のことをペラペラ喋る口の軽い人かと思ってしまったけど、少しは信用出来そうな気がした。
『はい。また来ます。』
そう告げて扉の前で振り返った時、物陰から私を見ていた姉と目が合った。
姉は「しまった」という顔を残してまた物陰に消えて行った。
私は店を出て、心配しているであろう康二さんに連絡を取った。
それから週に1~2回ほどのペースで姉の勤めているお店に足を運んだ。
初めはわだかまりと猜疑心を隠そうともせず、私と話そうともしなかった姉だが、私が両親にもこの事を内緒にしているであろう事がわかったこともあって、次第に少しずつではあるが私と会話してくれるようになった。
そして、ぽつりぽつりと何日かに分けて、お酒や煙草をお供に、姉は今までのことを私に語ってくれた。
中條家(実家)を出奔した姉の5年余りは、想像した通りに壮絶なものだった。
まず、姉に言い寄ったチンピラは家の資産目当てだったらしく、姉が両親と絶縁した時点であっという間に姿を消したという。
途方に暮れた姉は知人・友人を頼るも長居するわけにも行かず、そのまた知人の男性宅に居候することになったのだが、この男がまたたちが悪く、DVを受けながら半ば監禁されていたそうだ。
そしてこの男も真っ当ではなく、ある日傷だらけの血まみれで帰宅してきた晩に、洗脳じみたものが一気に冷めて、着の身着のままでこの男の部屋を逃げ出したという。
その後も色々とあったようだが、そこは詳しくは教えて貰えなかった。
そんなこんなで今のママさんに拾われて、このスナックで住み込みで働くことになって今に至るらしい。
『幸せなアンタには一生縁のない世界だよ。』
そう吐き捨てて、姉はウイスキーをロックで煽ると、メビウスの煙を下品に鼻から吹き出した。
『……………………………………………………。』
言葉が出なかった。
あんなに。
あんなに真っ直ぐで輝いていた姉が、こんなやさぐれて濁った目をしているなんて。
でも、まだ引き返せるのでは。
まだ姉は、また光の当たる道へ戻れるのでは。
そう思って必死にしつこく何度でも両親と和解するように勧めた。
取り付く島もない姉に何度でも食い下がった。
しかし、ある日―――――
『うるさいうるさいうるさい!!!
アンタになにがわかる!!!!
もうわたしのことはほっとけよ!!!!!
これ以上この話をするならもう
わたしはアンタに会わない!!!!!
死ぬまで!アンタと会わないし話さない!!!!』
そう叫びながら私にブランデーグラスを投げつけて来た。
それは私の額に当たり、私は3針縫う怪我を負った。
額に一生消えない傷を付けられた私は、この日を境に前髪を上げることが出来なくなってしまった。
―――あぁ、もう、私の知ってる姉は
この世にいないんだ………………。
その結論に至ってしまった。
私は姉の更生を諦めることにした。
『志緒里!!?? そ、その怪我!!!!???』
帰宅した私の額の赤く染まる包帯姿を見た康二さんが、驚きの声を上げた。
色々と躊躇したものの、結局包み隠さずありのまま起こったことを伝えると、普段温厚な康二さんは活火山のように真っ赤に震えながら怒り始めた。
『自分の妻を傷物にされて黙っていられるか!!
慰謝料請求してやる!!!』
亜里紗を中條家に預けて、康二さんは私を連れて姉の元へ勢いよく向かって行った。
『……まァ、今更借金が更に増えたとこで
何ともないけどね。』
姉は、悪びれもせず、目の前の借用書にサインした。
『ほら、これでいいだろ?
こっちも悪かったとは思うけどさ、
志緒里も避けるとかして欲しいよ。
まったく相変わらずすっとろいんだから。』
姉の言葉に、血圧が上がった気がした。
額の傷がさっきよりも疼いた。
『……それよりさ、康二さん、アンタ、
いい男になったねぇ~~~。
わたしとも一晩どうだい?』
姉はそれに飽き足らず、なんと私の夫である康二さんに色目を使いだしたのだ。
全身の毛穴が開いた感覚だった。
視界が赤く染まるというのはこの事だろう。
自分が吐く息の音さえ、怨嗟の声に聴こえた。
だめだ。
もうだめだ。
この女は、もう、無理だ。
この目の前の女は、私とは全く違う生き物なのだ。
私の愛してやまなかった姉は、
私の敬愛していた姉は、死んだのだ。
この女に殺されたのだ。
あれほど眩いばかりに輝いていた姉は、
もうこの世の何処にもいないのだ。
目の前にいる下卑た薄ら笑いを浮かべた下品な女は、
姉の顔をしたまったく別の存在なのだ。
『………………志緒里? 大丈夫か?』
康二さんの声にはっと現実に戻った。
いつの間にか知らないうちに、康二さんに連れられて帰りの駅のホームに立っていた。
『……あ、う、うん……。』
康二さんにも本当に申し訳ないことをした。
『…………もう、義姉さんのことは忘れよう。』
そう吐き捨てて、康二さんは私の肩を抱いてくれた。
彼からの暖かい愛情が伝わってきて、思わず涙が零れてしまった。
あぁ、姉さん……。
あれほど敬愛していた姉さん……。
いつでもどんな時でも、私の傍で微笑んでくれていた姉さん。
「淑女はこうあるべき」という形を背中で具現化していた姉さん。
父よりも、母よりも、私に寄り添って私を導いてくれていた姉さん。
私にとっての理想の女性とは、まさに姉の姿そのものだった。
私の基準や価値観はすべてが姉を起点に構築されていたし、姉のような淑女になることが私にとっても目標だった。
しかし、姉がいなくなって、いかに私が姉に甘えていたのか嫌というほど思い知った。
それでも、私がこうして素敵な旦那様の元に嫁いで、幸せな家庭を築けたのは今でも姉のお陰だと思っている。
あぁ、もし、もし叶うなら、
もし叶うならもう一度だけ、
姉に逢いたかった。
あの下品な売女なんかではなく、
姉と心ゆくまでお話したかった。
でも、それももう叶わない。
私が愛していた姉は、もうこの世の何処にもいないのだ。
『…………………………………………………………。』
いや、そうだろうか。
本当にそうだろうか。
この世に姉がいないのならば、また姉をこの世にお迎えすれば良いのではないだろうか。
それは、思いついてはいけない閃きだった。
考えてはいけない禁忌だった。
しかし、それが頭に降ってきた時点で、もう手遅れだった。
私は、己の欲望に嘘はつけなかった。
姉の血を色濃く受け継いだ子を、自分の思い通りに、そう、姉のように育てることが出来たら、どれほど素晴らしいことなのだろうか。
私の娘として、姉の生き写しのような娘を淑女として育てあげることが出来たら、どれほど幸せだろうか。
こんなことを考えた時点で私はどうかしていたのだろう。
こんなことを思いついた時点で私は正気ではなかったのだろう。
しかし、私には「思いとどまる」という選択肢を、初めから持ってはいなかった―――――
『しっ、志緒里!!
お前、まさかそれ本気で言ってるのか!!??』
当然のごとく、康二さんは全力で拒否し拒絶してきた。
それはそうだろう。
当たり前の話だ。
普通ならば有り得ない。
逆にもし私が同様の提案をされたならば、
全身全力で拒絶する。
普通ならば有り得ない。
しかし、私はもう普通ではなかったのだろう。
私が世界で誰よりも愛している康二さんの血を引いた、姉の娘を育てることがもし出来たら、どれほど素敵で素晴らしいことだろうか。
姉が娘を手放さないという可能性も、万一にもないとは言いきれなかったが、そこはどうとでもなると思っていた。
私は来る日も来る日も頭を下げ続けた。
雨の日も風の日も康二さんにお願いし続けた。
頑なに拒絶する康二さんもしばしば激高し、お酒のせいもあって手を上げられたりもしたが、彼が怒るのも当然だと理解しているので何とも思わなかった。
どうか。
どうか、私の姉への敬愛が、
康二さんに伝わりますように。
それしか考えていなかった。
『……………………わかったよ。』
ある日、康二さんは遂に折れてくれた。
まず思ったのが、康二さんに対する途方もない罪悪感だった。
感謝よりも先に謝罪の言葉があふれてきた。
泣きながら康二さんに謝った。
泣きながら康二さんに謝り続けた。
そんな私を、世界で一番愛する人は優しく抱き締めてくれた―――――。
どういう経緯かは聞かない約束だったので、詳しい事はわからないが、暫くしてあの女が懐妊したことを康二さんから知らされた。
あの女からしたら、私の愛する旦那様を私から寝取った優越感で胸いっぱいなのだろう。
みっともなく勝ち誇った顔が容易に想像出来て笑ってしまった。
それにしても、康二さんには本当の本当に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
こんな正気の沙汰とは思えないとてつもない我儘を聞いてくれて、深い感謝と罪悪感で胸が押しつぶされそうだった。
こんな、こんな人の所業を踏み外した道はこれっきりだ。
これからは。
これからは真っ当に、家族4人で幸せに暮らして行こう。
一生を懸けて、康二さんにこの大きすぎる恩を返して行こう。
―――――そう、思っていた。
しかし、神様はやはりいるのだろう。
余りに欲深だった私に天罰が下されたのだ。
私にとって、世界で一番大切な人が病に倒れた。
罪を犯した私本人ではなく、私から最も愛する人をあの世に奪って行くという、私にとって最も耐え難い天罰が下されたのだ。
康二さんはもともとお酒をとても好み、時々深酒することも珍しくなかったが、やはりこのところ負担を強いたための大量飲酒が祟ったのだろうか。
すい臓がんが発覚した時、既に手遅れな段階のステージ4だった。
数ある癌の中でも、初期発見が非常に困難であると言われるすい臓がん。
定期検診で発見された時、すでに身体中あちらこちらに癌細胞が転移しており、もうどうしようもない状態だったのだ。
康二さんはまだ20代という若さもあり、その進行速度もやはり非常に早く、余命1年もつかとの事だった。
『……ごめんなさい。ごめんなさい康二さん。
ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
私のせい。私が悪い。私が悪かった。
私の我儘であなたの命を縮めてしまった……。
本当にごめんなさい。本当にごめんなさい。
なんで、なんで私じゃないの!
なんで康二さんなの……!!』
抗がん剤などの投与薬や、過酷な闘病生活でみるみるうちにやつれていく康二さんに、私は毎日縋り付き泣きながら謝り続けた。
そんな私の頭を、康二さんはいつも優しく撫でてくれた。
優しくする価値のない、欲と罪に塗れた浅ましく卑しいこの私の頭を。
『……泣かないで。志緒里。
時期的にきっと、何年か前から
もう僕は癌だったんだと思う。
だから、今回の件は関係ないし、
志緒里が悪い訳じゃないから。
これも僕の運命だったんだ。』
康二さんはそう言いながら微笑んでくれた。
その笑顔がまたこれでもか!とばかりに私の心臓を深くえぐり締めあげた。
だめだ。
この人がいなくなったら、私はとても生きて行けない。
私も康二さんの後を追おう―――――
『…………ママ?』
そう思っていた私の袖を、横にいた亜里紗が引いた。
『!!!!!!』
無意識で反射的に亜里紗を抱き締めた。
考えるより先に亜里紗を力いっぱい抱き締めた。
―――――だめだ。
私は、亜里紗の母親だ。
亜里紗と、これから産まれてくる
あの子を守らなくてはならない。
まだいまひとつ良くわかっていない亜里紗の頭を胸に抱き締めながら、
「逃げては行けない」
「責任を取らなくてはいけない」
という思いが私を支配した。
幸いなことにあの女はこちらの思惑通り、宇都宮家と中條家が用意したそれほど多くはない(あの女にすれば大金かもしれないが)金を手にして姿を消した。
産まれたばかりの娘を置いて。
康二さんがこの子を認知したということで、自分で育てる義務を放棄したのだろう。
母親顔されてごねられても少し面倒だったが、同じ母親として、やはり最後にしっかりと失望させてもらった。
そして、もうひとつ幸運だったことに、産まれてきた子供は、男の子ではなく女の子だった。
もし男児が産まれてもまったく変わらずに可愛がって育てるつもりではあったが、不思議とお迎えする子供は娘だと信じて疑わなかった。
それでも、いざ産まれて女の子だと判明した時は本当に嬉しかった。
そして。
同時に、予想しなかった感覚・感情に襲われた。
姉の代わりに。
理想の姉の代わりにと、私の我儘で望んだこの子。
いざ胸に抱いてみると、姉のことなどどうでも良くなっていた。
姉は姉。
この子はこの子。
まったく持って、当たり前なのだが別々の人間なのだ。
同時に、二度と子供を産めない身体になってしまった私にとって、思いがけず恵まれた2人目の娘。
私の。康二さんと私の娘なんだと、強く実感すると同時に、あふれんばかりの涙が私の頬をとめどなく濡らした。
『こんにちは!
この素晴らしい世界にようこそ!!
一緒に!
ママと一緒に幸せになろうね!!!!』
この子を抱き締めながら、気付いたらそう口に出していた。
病室でやつれた姿になっていた康二さんにも、この子を抱かせてあげた。
骨ばって震える両手で娘を抱き締めた康二さんは、柔らかく目を細めた。
『―――えりか……。
この子は、宇都宮 英里華、だ。』
すとん、と。
息をするかのように、さも当然のように、康二さんが命名してくれた。
『中條家の女性は名前に"里"が付いていたからね。
うちは宇都宮家でも、分家も分家だし、
母親姉妹揃って三文字"里"繋がり、
素敵だろう?』
そう言って、康二さんはとても楽しそうに笑った。
釣られて私も泣きながら笑った。
英里華。
なんて素敵な響きだろう。
私は何度も英里華を抱き締めた。
『―――とても可愛らしいな!
さすが僕の姪っ子だ!!』
まだ小学3年生なのに、弟の龍之介も英里華を愛でてくれた。
『えりかーーっ!!
ありさおねえちゃんですよっ!!』
亜里紗もまだ康二さんには何か思うところがあるようだが、それでも新しく出来た妹に嫉妬したりせず、無邪気に愛情を注いでくれていた。
あぁ。
幸せだ。
例え、刹那に消えていく一瞬だとしても、私はこの時、とてつもなく幸せだった―――――
そして。
最愛の人の今際の際が近づいてきた。
『ごめん、ちょっとみんな、
志緒里と2人きりにさせてくれないか?』
ある日、死相がいよいよありありと浮かんだ顔ながら、春の陽だまりのように暖かい微笑みを浮かべた康二さんは自身の両親と、私の両親に退席をお願いしてきた。
『……………………。』
私は地に足が付かないふわふわした感覚で、無意識に全身に鳥肌を浮かべながら、子どもたちを連れて部屋を出ていくみんなを見送った。
『……………………………………。』
ベッドの傍らのパイプ椅子に腰を下ろし、私はしばし康二さんと見つめあった。
『…………志緒里……。』
『……はい。あなた。』
『今まで、本当にありがとう。
残念ながら長い時間ではなかったけれど、
僕は君と一緒になれて幸せだった。』
康二さんの言葉を聞いた瞬間に、また涙があふれてきた。
まるで堰を切ったような涙がとどまることを知らずに私の頬を伝って、私のシャツに大きな染みを作り始めた。
『やめてっ! お願い行かないでっ!!
お礼なんてっ!言わないでっ!!
わたしはっ……!!!!』
悲鳴とともに私は康二さんに泣きながらすがりついた。
そんな私の背中を、康二さんは優しく、 実に優しく、ぽんぽん、と叩いてくれた。
『…………いや、志緒里、ありがとう。
君が、僕に申し訳なく思う気持ちは
伝わってる。けど、僕には
ありがとう、しかない。』
『いやだっ! いやだ康二さん!!!
わたしっ! あなたにたくさんたくさん!
ひどいこと!信じられないくらい
ひどいことをさせたのに!!!』
『…………でも、そのお陰で、
僕たちは2人目の娘を迎えることが
出来たじゃないか……………………。』
『それでも! 私はまだあなたに報いてない!!
あなたになんにも返せてない!!!!
あんなに信じられない我儘を
聞いててもらったのに…………っ!!』
『……………………ふふふふっ。』
私の"我儘"という言葉を聞いて、康二さんが本当に可笑しくてたまらないというような笑みをこぼした。
『…………わがまま、か………………。』
康二さんは、遠く窓の外に視線を向けた。
そして私の返事を待たずに言葉を続けた。
『それなら、最期にとびきりの、
僕からの我儘を志緒里に聞いてもらおうかな……。』
そう言いながら、康二さんは無邪気ないたずらっ子のような笑顔で私を仰ぎ見た。
『なんでも! なんでも言って!!
私、あなたの言うこと、なんでも聞くから!!』
『ふふふふっ、言ったな?
言質取ったからな?』
そう言って康二さんは微笑みながらひと呼吸置いた。
『……英里華をお迎えした経緯だけど、
僕らの両親は何となく気付いてるみたいだけど、
まだ幼い亜里紗の目には、僕が君を蔑ろにして、
他の女性と遊んでたように見えてると思う。』
『それは私が言って聞かせる『そうじゃなくて』
私の言葉を遮った康二さんの瞳が、真っ直ぐ私を射抜いていた。
『そのイメージのまま、すべての責を僕が背負って
あの世に行こうって思ってる。』
―――え?
いったい、この人は、
この人は、何を言ってるの?
英里華をお迎えすることになった事だって、もう子供の産めない私が、無理やり康二さんと姉の子供が欲しいなんて言い出した事から始まったわけだし。
康二さんは悪くない。
私が悪い。全部悪い。
それなのに、それなのに……!
『そんな!そんなの!!無理!!
そんなひどい話ない!!!』
『……でも、君は、僕が居なくなった後も
生きていかなければならない。
あの子たちの母親として。』
康二さんの手が、私の手に重ねられた。
『君は、亜里紗と英里華の母親として、
彼女たちを護りながら、導きながら、
あの子たちを真っ直ぐに育てていかなくちゃ
ならない。その母親は、やはり彼女たちにとって
絶対的に正しくなければならない。
彼女たちにとって、尊敬出来る母親で
あり続けなければならない。
だから、僕らの中での後ろ暗いものは、
全部僕が引き受けて持っていく。』
『………………無理。無理……!!
あなただけを悪者になんて、出来ない……!
こんな、こんな罪にまみれた私が『だからさ』
康二さんの意外な言葉に思考が止まった。
『我ながら、なんて欲深くて罪深い奥さんを
貰ったんだろうなって思ってるよ。
だからこれは最期のお願いでもあるけど、
僕から君への最初で最後の罰だと思って欲しい。
何食わぬ顔で自分の罪を噛み締めながら
あの子たちと共に幸せになって欲しいんだ。』
この人は、この人は、、、
本当にいったい何を言ってるんだろう。
『僕は君の余りに大きすぎる我儘を聞いたんだ。
だから、この僕のこの我儘は
君に嫌とは言わせないよ?
これは僕の大きな最初で最後の、
我儘でありお願いであり僕からの罰でもある。
君は僕からの大きな愛と罰を十字架として
背負いながら、あの子たちを1人前に
育てて欲しい。
…………頼めるね?』
身じろぎも出来ず、涙を流し続けていた私だったが、もう、頷くことしか出来なかった。
『…………ありがとう。志緒里。
愛してる。誰よりも何よりも愛してるよ。
これで何も思い残す事なく行ける。』
康二さんは安心したのか、ふたたび穏やかな微笑みを浮かべた。
『………………わかりました。
愛するあなたの望みならば、私は一時的に
すべての罪をあなたに預けます。
でも。でも、あの子たちが1人前に、
大人として立派に育った時……
私はすべてをあの子たちに話します。
その時には、あなたに背負わせていたものを
必ず返してもらいますからね。』
『それで、構わないよ……。』
康二さんの右手が、私の濡れた頬に添えられた。
私は反射的にその手を両手で握りしめた。
『…………康二さん……ごめんね。ごめんなさい。
そして、ありがとう。愛してる。ありがとう。
どうか、どうか私たちを、ずっと、ずっとずっと
見守っていて、ね……??』
『ありがとう。志緒里。
こんな自分勝手な我儘を聞いてくれて。
ごめん。でも、ありがとう。
僕はあの子たちを愛してる。
そして、志緒里、あなたを愛してる。
君たちがずっと幸せでいてくれることを
心の底から願ってる………………。』
あの子たちの幸せを。
そして、こんな罪にまみれた私の幸せを願ってくれた康二さん。
私たちの幸せのために、すべての泥を被って旅立とうとしている康二さん。
私は、あなたと一緒になって良かった。
私は、あなたと一緒になれて本当に良かった。
私はあなたに誓う。
この世のすべてに誓う。
私たち3人は、なにがなんでも、
誰よりも何よりも幸せになる。
今決めた。
今決めたのだ。
そしていつの日か、あなたに
―――私こんなに頑張ったよ。
頑張ってみんな幸せになれたよ。
って、報告に行くから、
その時まで、その時まで待っててね。
私の大好きな康二さん。
私がそちらに行くまで、ちゃんと見ていてね。
見守りながら、待っていて、ね………………。
「――――ママ、ママ??」
え?
どうやら、いつの間にか私も眠っていたようだ。
英里華が私を揺すりながら起こす声で、私は目が覚めた。
「……あら、私も寝ちゃってたみたいねー。
でもどうしたの?英里華?
そんな哀しそうな顔しちゃってー?」
私を起こした英里華の顔が、今にも泣き出しそうな顔だったのが気になった。
「……だって、だって……、ママ、
寝ながら、すごく泣いてたから………………。」
え?
思わず自分の頬に手を当てると、自分が流した涙でべったりだった。
「ママ? ママかなしかったの? つらいの?
泣かないで? ママ……! 泣かないでママぁ!」
英里華はそう言いながら私にすがりついて泣き始めた。
私も思わず英里華を抱き締めた。
「大丈夫。大丈夫よー?
ママなんともないからねー?」
「……ほ、ほんとにーー? ……っく。」
涙があふれた瞳が私を見上げてきた。
そんな愛しい娘を見て、私もふたたび涙がこみ上げてきた。
「ほんとよー? だって、ママはお姉ちゃんと
英里華がいてくれて、世界でいっちばん!
しあわせなんだものーーー!
英里華は? 英里華もおんなじくらい
しあわせでしょー?「うんっ!!!」
私の問いかけが終わる前に元気いっぱいの返事が返ってきた。
「えり! とってもとってもとーーっても!
しあわせだよっ!!!!!!」
それを聞いて反射的に視界がにじんでしまったので、思わず上を向いてしまった。
この9年間、自分で言うのもどうかと思うのだけれど、自分なりにめいっぱい頑張ってきたつもりだった。
娘2人を幸せにするために。
母親だけでも幸せにするために。
実家も義実家もそれなりに援助してくれたため、経済的にそこまで苦労はしなかったけれども、私は親として人間性を高めるために、子供たちに恥じない背中を見せるために頑張ってきたつもりだ。
パートに働きに出ながら弟と一緒に勉強して簿記検定を取得し、契約社員ながら事務職に就けるように資格を身につけた。
母親の私が、父親の代わりも果たさなければならない。
そんな風に思って走り続けてきたけれど、きっと何処かで空回りしていたのだろう。
気付けば長女の亜里紗は、気難しく片意地の張った凛々しい娘に育ってしまった。
知らない所であの子にも心配をかけたのだろう。
常に張り詰めた空気を纏いながら日々過ごす亜里紗を見て、私は本当にこの子を幸せにしてあげられてるのだろうか?という疑念に苦しめられた。
そう思っていた、ある日―――――
『お母さん! 聞いてくれ!!
私にお付き合いしてる人が出来た!!
今度、彼に会って欲しいんだ!!!』
15年一緒に暮らしてきた中で、飛び抜けて1番の笑顔で亜里紗が報告してきたのだ。
―――康二さんが遺してくれたこの子に
相応しい男性でなければ認められない。
そう思いつつ臨んだ、世知君との対面に、私は衝撃を受けた。
母親の私がなかなか満足にあげられなかった幸せを、彼は惜しみなく娘に注いでいたのだ。
私が、康二さんと幼き日に出逢えて、
共に幸せな時間を過ごせたように、
亜里紗も、本物の相手に出逢えたのだ。
幸せだ。
間違いなく、紛れもなく、
亜里紗は幸せだ。
そして、幸せな娘を見ることの、なんと幸せなことか。
―――これで、やっと康二さんに顔向け出来る。
あとは、英里華を幸せに。
そう思っていた矢先の、先ほどの英里華の言葉で、私は泣いてしまったのだ。
「……ママ? なんで、しあわせなのに
ないてるの…………?」
「英里華ももっと大人になったらわかるかもねー。
人間って、幸せ過ぎても泣いてしまうのよー?」
「ふーん。えり、よくわからないけど、
龍ちゃんならわかるかなー?」
「ふふふっ。どうかしらねー。
今度、龍ちゃんに聞いてみるといいわねー?」
―――康二さん。見ててくれてますか?
私は、私たちは、こんなに幸せです。
私は英里華を抱きしめながら、仏壇の遺影を仰ぎ見た。
「ふふっ。」
思わず笑ってしまった。
相変わらずお茶目な方なのね。
もうすでに燃え尽きたはずの線香の煙が、風もないのにくるくると螺旋を描いてのぼっているのを見て、私はあなたの暖かい呼吸が聴こえた気がして、自身の幸せを改めて噛み締めた。
前書きでも触れましたが、まずお詫びさせて下さい。
志緒里さんの身体の境遇について、似たような状態の方もいらっしゃると思うのですが、もし不快な思いをさせてしまったなら本当に申し訳ありませんでした。
自分でも非常にデリケートな内容なので、それに触れずにお話を進めようかと散々迷ったのですが、
康二さんと志緒里さんが英里華ちゃんをお迎えするに当たって、作者的にはどうしても外せない要素であると判断して、執筆に踏み切らせて頂きました。
しかしながら、本当に面白半分なつもりは毛頭なく、
宇都宮家のお話を自分なりに高めて、自分なりの良いお話にしたいという思いでの決定でした。
とは言え、人によっては不謹慎な内容だったと思います。
本当に申し訳ありませんでした。
もともと、昔"真珠夫人"や"牡丹と薔薇"のようなドロドロした昼ドラとか結構好きだったので、
そういう空気感を出したお話も書いてみたいと常々思っておりました。
NTR要素もふんだんに含めた内容になりましたが、この話を別に読まなくても特に支障はありませんので、
「こんな話もあったんだ」くらいに思って頂ければ幸いです。
あと、タイトルですが、
Mr.Childrenの『花の匂い』です。
もし見た事ない人がいらっしゃいましたら、
どうかYouTubeなどでPVを観て欲しいです。
(2025/09/30)




