第1話〇【Side:緋月世知】~opening
洗面台を染める自分がたった今吐き出した血をまじまじと見て、もともと覚悟していたつもりでも流石に俺は恐怖した。
「やべぇな…………。」
自分が吐いた血を目の当たりにして、胸の痛みも忘れどんどん自分の顔が青ざめていくさまが、目の前の鏡に映し出されていた。
10分ほど前の事だ。
日付も変わったのでもう眠ろうと、布団に入ってしばらくした頃に、胸に痛みを伴う嘔吐感を覚えた。
慌てて洗面台へ走り、込み上げてくるものを吐いてみると、胃液が少し混じった血だったのだ。
物心ついた頃から自分は病弱なほうだと自覚してこの15歳まで生きてきたが、悪化したなと自分でも思ったのは中学生になった頃だっただろうか。
それとも父が身体が弱い俺を自分の妹、俺にとっては叔母の静流姉に預けて海外勤務に出向した頃からだろうか。
静流姉がいたから。
静流姉が俺の面倒を見てくれることを快諾してくれたから、父は母を連れて遠い地へ行くことを選択出来たのだと思うし、なにより俺自身もそれから実の親のように接してくれた静流姉には本当に感謝している。
「苦し……」
肩で息をしながら、胸の激痛に顔をしかめてしまう。足に力が入らない。
「世知!? どうしたの世知!!」
激しいノックのあと、洗面所のドアが開き、静流姉が駆けつけてきてくれた。
自身の体調の急変に俺がたまらず洗面所まで走った足音と、その後の吐瀉音にさすがに目を覚ましたのだろう。
「キャアアアア!!!!すっ、すごい血!!!」
「しっ、静流姉……、苦しい、痛い……」
洗面台にへたり込む俺を見て、数秒立ち尽くしていた静流姉は泣きだしながらすぐにスマホを取り出した。
「えっ、ちょっ救急車!救急車呼ぶからね!?
待ってて!しっかりね世知死なないで!!」
涙で顔をぐしゃぐしゃにしてる静流姉の顔を見ながら、俺は意識を失った。
* * *
気づくと、俺の顔にはなにか酸素マスク?をはめられており、左腕には点滴が刺さっていた。
胸の痛みは、もう、ない。
「あっ、世知起きた!?
あぁ、良かった。無事でよかった世知……!」
「静流姉……?」
ここはどう見ても病室……。視線を自分の胸に向けてみると、病衣と呼ばれる患者服を着ており、身体は寝心地が良くも悪くもないが通気性が妙に良い気がするベッドに横になっていた。
傍らには、静流姉が普段ならば整っている美しい顔をぐちゃぐちゃに崩しながら俺の手を握っていた。
「世知に…… あなたになにかあったら私、
生きていけなかった……。」
静流姉は溢れる涙をハンカチでぬぐっていた。
「えっと、俺は……? えっ?」
まだ頭の中が色々ともやがかかっているようでイマイチ整理出来ていない。
どうやら俺は助かったみたいだ。
もともと身体が弱くちょっとしたことですぐ熱を出したり、寝込んでいた自分だったが、小学校を卒業する頃には常に倦怠感に襲われ、微熱が続く状態が当たり前となってしまい、俺はいつの間にか生きることを諦めてしまっていた、と思う。
いつ死んでもおかしくない。仕方ない。そんな人生だった。
いや、そんな人生なはずだった。
そしてあの夜、ついにタイムリミットが来た。
俺はあの時そう思っていた。
「世知、助かったのよ。あなた、助かったのよ。」
静流姉が泣きながら俺の手を握りしめる。
その手が、とても温かい。
その温かさが、自分が生きている実感を深く感じさせた。
「静流姉、ありがとう。あと、心配かけてごめん。」
「あなたが無事ならいいの。
本当に良かった……。」
ひとしきり泣いた後に落ち着いた静流姉は、俺の身体について話をしてくれた。
俺はもともと肝臓に疾患があり、肝機能の低下により、慢性的な倦怠感や発熱という症状があったらしい。それが中学生の頃から顕著になりはじめ、食道静脈瘤を併発してしまい、その血管の瘤が、あの夜に破裂してしまったそうだ。
食道静脈瘤破裂は発見が遅れれば、出血死やショック死の危険があったのだが、発症直後に救急車で病院搬送出来たことで命に関わる事態までには至らなかったらしい。
また、若年層では珍しい肝機能障害も今後投薬や通院などでそのうち完治するだろう、と説明を受けたことを静流姉が教えてくれた。
「世知、私本当に嬉しい。
早く元気になりましょうね。」
「うん。」
俺は笑顔を静流姉に返した。
そして、静流姉から視線を離し、ぼんやりと天井を見上げる。
だんだんと、頭が動き始めた、気がする。
ひとつひとつ、考えが浮かんでは消えて
また浮かんでは、別の考えとまとまり
少しずつ、ぼんやりとではあるが
色々とわずかながらも、
なんとなくのレベルで理解し始めていたと思う。
握った拳に、自分の想像以上に力がこもった自覚があった。
こんな、こんないい話があるのだろうか。
俺は、生きている。
死にたいなんて気持ちは1回たりとも持ったことはなかったが、俺はこうして、これからも生きていける。
言葉にならないなにかが、なにかしらの力が嬉しい気持ちと深く交わって全身を駆け巡って行くような、そんな錯覚にも似たような感覚。
「静流姉、俺、嬉しいよ。」
本心が素直に口から出た。
静流姉と微笑みあったあと、俺は窓の外を見た。
桜の花が咲いていた。
ああ、なんて美しいんだろう―――
桜だけじゃない。
その向こうに広がる青空も
俺に微笑んでくれる静流姉も
病室の天井の微かな染みですら
今の俺には美しく見えてたまらない。
これが生きている喜びなんだろうか―――
そう物思いに耽っていた時、病室の引き戸が勢いよく開いた音がした。
「静流さーんこんにちは!
世知の調子はどうですかー!?」
黒髪ショートの少女がこちらの返事も待たずに、俺のベッドを囲むように閉められていたカーテンを全開に広げ、顔を見せてきた。
静流姉が立ち上がり、彼女に椅子を用意する。
俺はもう既に必要なくなっていた酸素マスクを外した。
「由美ちゃんこんにちは。来てくれてありがとう。
世知はさっき麻酔が切れて目覚めたところよ。」
「世知おはようー!なんか色々上手く行ったから
心配ないって聞いてたけど、
良かったね目が覚めてー!
やっぱり心配だったんだよねー!」
俺も由美に笑顔を返した。
「由美、色々心配かけてごめん。」
静流姉に促されて、俺の近くの椅子に座った彼女の名前は、辻倉由美。
俺の母と由美の母が学生時代からの友人で、おまけに隣の家に住んでいて小中と同じ学校だったという、ラノベにありがちな【幼なじみ】という説明が1番妥当な存在だ。
「んで、入学式には間に合いそ? 厳しいかな?」
身体の弱い俺は小学校の頃から中学校に至るまで、なにかあるたびに由美の世話になっていたが、なんと高校も同じ学校、健陽高校に通うことになっていた。
通えるかどうかもその時はわからなかったし、とりあえず家から1番近い学校という理由だけで進学先を、その健陽高校に推薦入学で決めていた。
「どうだろう? 静流姉は先生から何か聞いてる?」
「さっき聞いた話だと、食道の静脈瘤?の
内視鏡手術は無事に終わったけど、
あとはお薬で肝臓を整えたりするから、
退院までは10日はかかるんじゃないかしら。
今日が3月25日だから、ぎりぎりかしらね。」
俺が倒れたのは22日だから、あれから3日経ってるのか。
「そっか! 早く良くなって一緒に学校行こうね!
わたし世知が高校行けるって聞いて
素直に嬉しいよ!」
「ああ。由美ありがとう。」
俺もこれから高校に通えることが心の底から嬉しく思っている。
どうせ短く終わる人生だと思っていたけど、俺は生きている。
今ならなんでも出来る気がして仕方がない。
生きる活力ってこんなに万能感を自分に与えてくれるものだったんだな。
あるはずがないと勝手に思い込んでいた、これからの俺の人生。
例えるならボーナスステージみたいなものだ。
失敗したって挫折したって、あの死ぬって思っていた日々を思えばきっと大したことないんじゃないだろうか。
俺は、生まれ変わった、と思う事にする。
自分に出来ることなら、なんでもやってみよう。
可能性は無限大。
そんなありふれたチープな言葉が俺の頭に浮かんだその時のことだった。
再び病室の引き戸が開き、2人の看護師さんが新しい患者を載せたベッドを運んできた。
そして俺の向かいの空のベッドと交換するかたちで、その新しい患者を載せたベッドがそこに設置された。
一瞬だけ、黒髪短髪で、整ってはいるが彫りの深い顔の男性の顔が見えた。どうやら眠っているようだ。
「ここ、1人部屋じゃなかったんだ。」
部屋の広さをよくよく考えれば当たり前だ。
目覚めたばかりというのもあるが、それに気づかなかったのは、ベッドを仕切るカーテンが由美が来るまで閉められていたから、というのもあるだろう。
廊下側を見るとなるほど、無人のベッドがふたつほど目に入った。
4人部屋を1人で独占してたのか。贅沢だったな。
そんなことを思っていると、運ばれてきた患者のネームプレートが、看護師さんの1人の手によって向かいのベッドの頭側の壁に装着された。
何の気なしに、目を凝らしてそのプレートに記された名前を読んでみる。
『和泉聖夜』
プレートにはそう書いてあった。