85. リクイの不思議な体験
「不思議なことって言えば、ぼくには不思議な体験があるんだよ」
リクイが言おうかどうか迷ってから、思い切ったように言った。
「不思議な体験?」
「ニニンドは雪を見たことがあるかい」
「雪?」
「空から降る白い氷みたいなもの」
「ないよ。聞いたことはあるけど」
「ぼくは見たことがあるんだよ。見たことがある気がするんだ。氷を薄く削ったみたいな白いものが、空からまっすぐに降っていた。お母さんが片方の手でぼくを強く抱いて、もう一方の手で、雪がぼくの顔にかからないように、覆ってくれていたんだ」
「いつのこと?」
「生まれてばかりの頃だと思う」
「そんなこと、可能なのかい」
「赤ん坊がそんなこと、覚えているはずがないよね。だから、きっとただの変な夢なんだろうと思って、誰にも言っていなかった。でも、雪を知らないぼくの夢に、なぜ雪が出てきたんだろうと思うんだ。いつか本物の雪を見ることがあって、その雪が記憶と同じだったら、ぼくは本当に見たということではないかなと思うんだ。そんなことをジェット兄さんに話してみたかったって思う。でも、こんな時にこんな重要でない話をするなんて、変だよね」
「ああ、わかるよ」
とニニンドが言った。でも、何がどんなふうにわかったのか言わなかったから、リクイは彼が何を考えていたのか知らない。
悲しみは波のように来ては返る。
悲しみは突然津波のようにやってきて、思考を破壊していく。逃げようがない。
リクイはジェットと離れてから一度も手紙が届いていなかったけれど、兄は生きていたから、つながってはいた。この世にその人が生きているのといないのでは、ゼロと千億以上の違いがある。天と地ほども違う。
十三歳の時、兄さんとしばらく会えないというだけで、夜を越えられないと思ったくらい寂しかった。でも、また会えるという希望があった。でも、兄さんが死んでしまったら、希望が消える。楽しい未来はもうない。
「兄さんが死んだとわかったら、ぼくは二度と笑うことがないと思う」
うん、とニニンドが頷いた。
リクイ、わかるよ。私も、そう思ったから。
いろんな悲しみがある。他の悲しみはどんなに深くでも、それは詩や踊りになって、美しく生まれ変わることができる。でも、死は美しく生まれ変わることはなく、死のままだ。死は別格で、絶対で、残酷だ。
すべてのことには可能性がある。余命を宣告された病人が、治ることもある。しかし、死だけは違う。
死ぬと、可能性がなくなる。
そして、人は死に慣れることはない。
でもね、その人との時間はもうないけれど、この世界には、まだおもしろいことがたくさんあるとわかる日が来ると思う。その暗い道を抜けてそこに辿りつくまでには、長い時間が必要なんだ。その長い時間っていうのが、拷問だ。
その道をきみが歩いている時、私にできることはそばにいて、話を聞いて、背中を撫でることくらいだ。
リクイ、きみはひとりで歩き抜くしかないんだよ。
肝心な時って、たいていひとりだよね。助けたいと思ってくれている人はいても、助けることができないんだ。ひとりでやるしかない。
私の母上を失った悲しみはね、今は傷口は治り、もう出血はしていないように見えるかもしれないけど、傷跡はしっかりとあるんだよ。そこを押せば、すぐに血が吹き出すだろう。
リクイ、いつか、きみとはその話をしたい。でも、今ではない。




