70. 屋根の上
その夕方、ニニンドとサララは屋根の上にいた。オレンジ色の夕焼けが、町の向こうに広がっていた。
「いいね、高いところは」
サララは屋根を気にいった。
「だろう」
「ニニンド、夕日を見ると、寂しくなるのはなぜだと思う?」
「太陽が沈んでいくからではないかい」
「早く終わってほしい日もあるよね」
「それはある」
「哲学者なら、何と言うと思う?」
「何と言うだろうか」
「心の中で、明日が来ないかもしれないと恐れているからかな」
「そうだね。一日の終わりには、過ぎたことをあれこれと思い出して、懐かしくなることがあるかもしれない」
「ニニンド、あんたにも、懐かしいと思うことなんか、あるの?」
「それはあるよ」
「悔んだり、悲しがったりすることって、あるの?」
「それはあるよ。そんなことを感じない人間に見えているのかい」
「別のタイプだと思っていたから」
「どんなタイプだよ。今でも、感情欠陥症だと思っているのかい。感情はあるよ」
「ニニンドにとって、幸せって、何?」
「考えたことがないけど、みんなに食べるものがあって、安心して夜が来た時かな」
サララの目が魚の口のように開いた。どうも呆れているようだ。
「幸せって、何?ほっとするってことじゃないのかい。前は忙しすぎて、幸せが何とか、考えたことがなかった」
「そうか。ニニンドは、苦労したんだね」
「別に。誰でも、そうだろ」
「今はどうなの?」
「今かい。今はいかだに乗って川を流されているところかな。岸が見えたら、飛び降りるかもしれないし、下りないかもしれない。わからないんだ」
サララがニニンドをまじまじと見た。
「あんたのこと、これからはニニと呼んでいい?」
「やっぱりニニンドがいいよ。自由という意味なんだから、ニニでは自由が半分になるだろ。リキタもそうだけど、どうして他人と違う呼び方をするの?」
「わたし、何でも、他人と一緒はいやなの。好きな人は特別な名前で呼びたい」
「じゃ、いいよ」
「あっ、いいの?」
サララはもニニンドからそんなにあっさりとオッケーが出るとは思っていなかった。
宮廷の仕事を終えて帰るのだろうか、前庭を男女ふたりが話をしながら、仲良く歩いて行った。
「夕日を見ると、昔のことを思い出すのは本当。あの時、どうして怪我しちゃったんだろうとか思ったりしてさ。ちょっとラクダから落ちただけなのに、こんなことになっちゃって」
「でも、サララは何でもできるじゃないか。ラクダ競争の絶対チャンピオンだし、キャラバンを引率して、いろんな所に出かけているし」
「普段はそんなことは思わないんだけど、この夕日のせいかな。わたしは阿保だ」
「ほら、あそこ」
ニニンドが宮廷の向こうを指さした。
「サララ、明日、あの市場に行くというのはどう?」
「ふたりでということ?」
「うん。ふたりではいやかい」
「そういうことではないけど」
「じゃ、いいのかい」
「うん」
「よかった。今日はうまく言えた」
「でも」
とサララが下を向いた。
「いつものように杖をついて歩けばいいだろう。疲れたらおぶってあげるから」
「ばっか。そんなことしたら、みんながじろじろ見るじゃないか」
「サララはそういうこと、気にする人?」
「気にはしないけど、ニニは有名人だから」
「誰もまだ、顔を知ってはいないよ」
「市場に行って、何をするの?」
「いろんな店を見て、何かを買って、何かを食べて、そういうの、楽しそうじゃないかい」
「うん、悪くない」
「大道芸人が来ているかもしれない」
「懐かしい、その頃のこと?」
「いいや。あの頃は、みんなに食べさせることばかり考えていたから。稼いではいたんだけど、人が多いと出費が多いんだよ」
「意外と苦労していたんだね、ニニは」
「明日、市場で、『恋人の日』の催しがあるのを知っているかい」
「『恋人の日』なんて、馬鹿みたい。ごめんだわ、そういうの」
「そう言うと思ったけど」
「そういうのに行きたかったら、誰かを誘えばいいんじゃないの。喜んでついてくるお姉ちゃんはたくさんいるよね」
「『恋人の日』で母上が父と出会ったんだ」
母のクリオリネ姫は宮廷を抜け出して市場に出かけ、そこで吟遊詩人の父と出会ったのだ。市場には色とりどりの花が飾られ、競技に勝つと、花冠がもらえる。母はそれはもらうことができなかったけれど、とても美しい花冠だと言っていた。
「母上はその花冠がほしかったんだと思う」
「行こう」
とサララが張り切った。「わたしがその花冠を取ってあげるから」
「サララ、違うんだよ」
「何が違うの?」
「恋人の日は、男が競って恋人の女性に花冠を贈るんだよ」




