67. 神さまに会う
「そうだ、おれは神と会った、と思ったことがあった」
「えっ、神さまに、会ったのですか」
「神じゃなくて、ただの人だけれど、神かと思ったという話だけどね」
最近、サディナーレから子供時代のことを聞かれたりして考えていくうちに、頭の中の雲がしだいに薄れていって、忘れていたことが見えてきたような気がしていた。そして、あの日のことを思い出したのだった。
ジェットが引き取られた家の人達は西洋の神を信じており、「神は愛である」という言葉が壁に貼られていた。でも、ジェットはその神を信じていたわけではない。神がいるのなら、子供を孤児にはしなかっただろうから。
あの重い籠を背負って懸命に逃げた夜、どのあたりなのか、赤ん坊が泣き始めた。
あの垣根の穴をくぐって逃げ出す際、赤ん坊が少しでも泣いたら見つかってしまうところだったが、利口な赤ん坊は状況を察していたかのように、声を発することがなかった。
でも、赤ん坊はすっかり腹が空いてしまったのだろう、泣き止まない。ジェット自身も腹ペコだったし、疲れていたし、これからどうすればよいのかわからなかった。
泣いている赤ん坊を抱きながら道端に座っていると、古い荷車がギイギイと音をたてながらやってきて、車を引いているおじさんが後ろに乗れと合図をした。後ろには粗末な家財道具と、赤ん坊を抱いたおばさんがいて、どうやらこの家族は夜逃げをしている最中のようだった。
おばさんがジェットに固い饅頭をくれて、赤ん坊をひょいと抱き上げると乳を飲ませてくれた。ジェットはおばさんに行先の住所が書いてある紙を渡し、饅頭を食べながら寝てしまった。目を覚ますと朝になっていて、ジェットは青い屋根の家の前にいたのだった。
「夢かもしれないんだけど、おれがその青い家の前にいたのは本当のことなんだ。おれはその時、神に会ったと思ったんだ。ぼくが見た神は、夜逃げ中の痩せたおじさんと子供を抱いた太ったおばさんだった」
「神さまがおじさんとおばさん」
サディナーレはそういう考え方をしたことがなかったから、驚きすぎて、何と言えばよいのかわからなかった。そのことは、今晩、ゆっくりと考えよう。
その青い家には年寄りがひとりで住んでいて、ヨハネ先生からの手紙を見せると、苦々しい顔をして、「帰れ」と言った。
歓迎されていないことは子供心にもわかったが、帰れと言われても困るのだ。
ジェットはヨハネ先生が迎えに来るまで、赤ちゃんだけでも預かってくださいと頼んだ。
その時、また赤ん坊がわぁわぁと泣き出したので、老人は仕方なく中にはいれと首で合図をした。
その家で、ヨハネ先生が来てくれるのを今日か明日か待っていたのだけれど、一ヵ月が過ぎても先生が現れることがなかった。そのうちに、老人が、その頃は「爺さま」と呼ぶようになっていたのだが、爺さまの家の周辺に変な人の影が見えたので危険を感じて引っ越しした。その後、何度も居場所を変えて、ようやく落ち着いたのが、J国のアカイ村だったのだった。
「何が危険なのですか。誰が何を追いかけていたのですか」
「赤ん坊が狙われていたのはたしかだけど、おれにはよくはわからないんだ」
「爺さまって、だれですか」
「ヨハネ先生の取り合いだということしか、わからない。爺さまはおれ達ふたりを懸命に育てた。でも、何をやっても一度も褒めてくれたことがないし、みんなで笑ったこともなかった。おれ達のことは好きではなかったのだと思う。特に、リクイには厳しかったなぁ。折檻をするとかそういうことはなかったけど、とても冷たかった」
「折檻って?」
「叩いたりする罰のことだよ」
「助けてくれたのに、どうして冷たかったのですか」
「どうしてなんだろうか。でもね、おれとリクイには楽しいことがたくさんあって、ふたりでよく笑っていたんだよ。リクイはすごいいい子でね、大好きなんだ。早く会いたいよ」
「はい。お会いしてはいなくても、私はリクイさんが大好きです」
その夜から、ジェットは子供の頃のことをもっと思い出すようになった。爺さまは昔の話をすると厳めしい顔をしたから、自然と避けているうちに忘れてしまったけれど、一度思い出したら、乾いた土地に落ちた種が雨で芽を出すように、他の記憶も目を覚まし始めたのだった。




