60. サディナーレの奇妙な願い
サディナーレは夜中に目を開けた時、自分がどこにいるのかわからなくて、乳母のオキオキンを呼ぼうとした。
そして目をしばたきながら、輿入れの途中だったと思い出した。でもそのことを忘れて、朝起きるまでに、何度もオキオキンの名前を呼びそうになった。一度は本当に呼んだかもしれなかった。
オキオキンはもう来てはくれない。もうこの世にはいないのかもしれない。ここからは、着替えも、食事も、自分ひとりでしなければならない。ひとりで生きていかなければならないのだ。でも、そんなことはできるはずがない。
姫は何が何だかわからないのだが、ひとりでは何もできないことは知っていた。
「ジェットさんに、ぜひ、お話したいことがあります」
サディナーレが手で髪を整えながら言った。
サディナーレが頼むことができる人は、この目の前のこの彼しかいないのだ。
「なんですか」
彼は濡れた手ぬぐいを絞って、もってきてくれた。
「私はH国王の娘のサディナーレでございます」
ジェットは絞ってあるはずの手ぬぐいをさらに固く絞った。
「では、国から逃げてきたのですか」
ジェットはすぐには理解ができなかった。
「いいえ」
サディナーレは、自分はJ国王に嫁ぐためにやって行列を従えてやって来たのだけれど、国境近くで、急におそろしい人達が現れて、乳母と逃げて、川に飛び込んで、とたどたどしく告白した。
ジェットは説明が呑み込めなくて、何度も、質問をして、ようやく話がそれとなく理解できた。
とにかく、この人は姫なのだ。
「そうなのですか。普通の人ではないとは思っていたけれど、まさか王妃になる方だとは思わなかった」
J国では、どこにも、たとえば小さなキャラバンサライまでにも、国王の肖像画が飾られている。だから、誰でも、グレトタリム王の顔は知っている。
ジェットが所属する支部にも王の肖像画がかけられていたが、その髪の毛は白く、村の役所で見た肖像画とは別人かと思うわれるほど老けて見えた。最愛の王太子を失ったことがそれほどの衝撃だったのだろうと人々が言っていた。
あの国王の妃にしては、デニアは若すぎるのではないかとジェットは思った。しかし、世の中には、若い妻を迎える男性はたくさんいると聞いている。
「では、デニアさんは、あのグレトタリム王のお妃さまなのですか。王子のお妃ではなくて」
ジェットがそう尋ねると、サディナーレは頷いて、どうしてですかという表情をした。
「年齢が、ずいぶん違うみたいだから」
「あのうですね、男性には三十を過ぎたら、老ける人がいて、老けない人がいて」
サディナーレはオキオキンが言ったことを伝えようとしたが、自分では考えをまとめて、言葉で伝えることができなかった。ジェットには彼女の言おうとすることがわからないことが多い。しかし、デニアが鈍いとか、気が狂っているとか、嘘をついているとか、そんなふうには思わなかった。彼女が王の妃になる人なのだと信じた。
「それは一大事です。すぐに花火を打ち上げて、助けを呼びます。軍隊だけではなく、王宮警察がすぐに駆け付け、すぐに姫を王室にお連れすることでしょう。もう心配はいりません」
ジェットが立ち上がろうとすると、「待ってください」 とサディナーレがその腕をつかんだ。
「それは困ります」
サディナーレは息を整えてから、このような内容のことを言った。
私はここまで、母のような乳母、七人の親しい女官、三百人の家来とともに行列をしてきました。それがJ国の近くまで来た時に、何者かに襲撃され、もしかしたら全員が殺されたかもしれません。思い出すだけで恐ろしく、震えてしまいます。もし私が生きているとわかったら、また狙われると思います。だから、誰にも、知らせないでほしい。
「誰も信用できません。ジェットさん以外は」
「信用してくれるのはうれしいけど、おれに何ができるのだろうか」
「ジェットさん、あなたが、私を王のところに連れていってくださいませんか。一生のお願いです」
「このおれが、ですか。まさか」
サディナーレは考え考え、白い顔を赤くして懸命に話した。
「ジェットさんがいなくては、私は死んでしまうでしょう」
ジェットは天井を見たり、腕組をしたり、歩きまわったりしながらしばらく考えた。
こんなことはできるはずがない。姫は常識というものを知らないから、突拍子もないことを考える。
でも、姫はこの自分を頼っているのだし、・・・・・。
「わかりました。デニア姫、あなたを国王のところにお連れします。それは名誉なことです。でも」
サディナーレがジェットの次の言葉を待った。
「でも、駐屯地に連絡しないで持ち場を離れたら、敵前逃亡の重い罪が課せられます。自分には弟がいるから、そういうことはできません。これから駐屯地に行って話をつけて来ますから、ここで待っていてください」
「ここで、ひとりで」
サディナーレが怯えた声を出した。
「そうですよ。ひとりで」
「ひとりで。どのくらい?」
「急いで帰ってきますが、一日か二日、三日になるかもしれません」
「できません」
とサディナーレが悲鳴をあげた。「ひとりで待つなんて、できません」
ジェットがサディナーレの両肩をつかんだ。
「デニア姫、いいかい。この先にはもっと大変なことが待っているんだよ。このくらいのことができなくて、どうするんですか。ここでやめますか」
ここでやめたらとうなるのだろうとサディナーレは考えた。川に飛び込んだ場面がよみがえってきた。あそこには戻りたくない。
「選択はないのです。おれにも、都には用事があるんです。ここからは、おれにとっても、一世一代の大勝負ですからね。デニア、あなたも覚悟しなければだめです。できますか」
サディナーレは透明の美しい涙をぽとぽとと流しながら、それでも「できます」と答えた。
「大丈夫だよ。デニア姫にはできるよ」




