58. サディナーレの輿入れ
サディナーレとジェットの巻
サディナーレが火が燃えるにおいが出目を覚ました時、そこは斎王として仕えていた神殿ではなく、見たこともない粗末な小屋だった。部屋の中にぼんやりと影のような背中が見えた。
若い影だ。
ええっ、なぜ。
その若い男が土間で焚火に薪をくべていた。
サディナーレは血の気の引いた顔をして、服の胸のところを合わせてがたがたと震えた。身につけていたはずの衣装は、焚火の周囲にかけられていた。
別の服を着せられていると気づいた時、サディナーレはこの世から消えてしまいたいと思った。
「起きた?」
とその青年が言った。
やさしい声だったが、サディナーレは震えながら、彼を睨みつけた。
「心配しなくていいよ。きみがずぶ濡れだったから、服を着替えさせようとしたんだけど、女性みたいだったから、何も見ていない。おれは国境を守る兵士で、悪い者じゃないから、そんなに怯えないで。きみは女性なのかい」
その青年が悪そうな人には思えなかったから、サディナーレは貯めていた息を吐きだして頷いた。
あれからグレトタリム王との縁談は父王と兄の執拗な干渉のためなかなか進まなかった。しかし、サディナーレが二十一歳になってしまったこと、J国からの結納金が増えたこと、それにサディナーレの揺るぎない意志で、ようやく婚礼が決まったのだった。
サディナーレはグレトタリム王に嫁ぐために、三百人のお供を従えて、一ヵ月前にH国を発ったのだ。
旅も、野宿も、サディナーレにとっては初めてのことで、不便なことは多少あったけれど、日々は発見に満ちていた。夜には天にあいた小さな穴かと思われるような星々を眺めては 女官に古い詩を読ませながら、この先に待っている生活に思いを馳せた。
他国の年老いた国王と結婚して、その宮廷で暮らすこと。また自分が子供を産み、その子が次の国王になるという日があるのだろうか。そのことを考えると不安が押し寄せてきて胸がつぶれそうになったが、自分が赤ん坊を焚いている場面を想像するのは幸せだった。
ところが、J国に近づくにつれ、乳母のオキオキンはおかしな気配を感じるよいになった。しかし、それはいよいよJ国にはいるのだという焦りや、姫の結婚生活への危惧からくるものなのだろうと考えていた。
その夜、オキオキンはこれまでにない恐怖感と緊張を覚えて、自分の腰を強く叩いて気合をいれ、行動に出ることに決めた。これがもし、取越し苦労なら、それでよいではないか。
オキオキンはサディナーレに小姓の姿をさせ、若い女官に姫の衣装を着せて輿に乗せた。午前中は何事もなく過ぎたのだが、夜になってもなかなか野宿に適した場所が見つからず、一行が疲れてきた時にことが起きた。どこからか三十人ほどの黒頭巾の徒党が馬に乗って現れ、姫の輿を襲撃してきたのだった。
彼らは弓に長けていて、鋭い鉄の矢を雨のように放った、オキオキンの予感は的中した。
姫の輿は火をつけられ、傾いて地面に落ちて、赤く燃え上がった。家来たちは慌てふためき、悲鳴を上げながら東の方向に逃げていった。そんな中、オキオキンは姫の手を引いて、家来たちとは反対の方向に走った。
オキオキンの目は殺気立っていた。今がこの人生最大の危機の時、何としてでも、姫を守らねばならない。それが私の役目。生きてきた意味。
今、目の前には、ふたつの道があった。
オキオキンはサディナーレに言った。
「私はここで、敵を食い止めます。姫はそちらの道を走って、助けを求めてください」
そんなこと、できない、とサディナーレは怯えた目をしながら、首を横に振った。これまで、ひとりで行動したことなどないのだから。
「姫、よく聞いてください。あなた様は生きなくてはなりません。どうにかして、J国の王のところに行くのです」
サディナーレはできない、できないと涙を流した。すると、オキオキンが鬼の形相をして、平手でその頬を打った。姫の身体を冷たい電流が走った。こんな恐ろしいオキオキンの顔を見たことがなかった。
「姫、あなた様はまだ一度も自分の人生を生きたことがない。そんな一生で、よいわけがありません。さあ、走って、走って生きるのです。オキオキンのためにも、生きるのです」
敵の一団がやってくる音が聞こえた時、オキオキンはサディナーレの背中を強く推し、太刀を構えた。サディナーレは走り始めた。
これまで全速力で走ったことなどなかったのですぐに息が切れ、何度も転んだが、それでも走った。長い髪を振り乱して、走った。
途中で、オキオキンの叫びが聞こえたように思ったが、それが人なのか、狼なのか、それもわからなかった。
姫は息を切らしながら、オキオキンに言われたように、転んでは走り、走っては転び、それでも走り続けた。意識は朦朧して、何がなんだかわからなくなったが、ただオキオキンに言われた言葉にしたがって、ひたすら走り続けた。
すると、突然、ごうごうという地が裂けるような音が聞こえた。自分の息よりも、はるかに大きな音。木々の間から、大蛇のような流れが見えた。この凄まじい音をたてているものが、川というものなのだろうと思った。どうすればよい。どうすればよい。
水の流れは恐ろしい。追手も恐ろしい。どうすればよい。しかし、いつも答えをくれるオキオキンはもういないのだ。追手がそばまで迫っている気配がして、身体が凍って動かなくなった。
サディナーレは自分に与えられた人生はここまでだと思った。幸せだったのか、不幸だったのか、わからない。何か味気がなかった気がする。
この川に、目を閉じて飛び込めば、目を開いた時には、あの世というところのはず。
オキオキン、ごめんなさい。
そう思って、サティナーレは飛び込んだはずなのだが、目が覚めてみると、そこは天国ではなかった。また苦しみが続くのかと思うとサディナーレはがっかりしたけれど、でも、まだ生きていたからよかったとも思った。オキオキンの「生きるのです」という言葉がよみがえり、涙があふれた。




