51. どきどき
サララが旅から帰ってきていることを知ると、ニニンドは何かと理由をつけて、リクイに鳩を飛ばせと急かすのだった。伝書鳩が村に届くと、サララはカリカリを飛ばして威勢よくやってきた。
サララが訪ねてくる日、ニニンドは新調の服に手を通しなどして、二度も三度も着替え、そわそわ落ち着かない様子で、ナガノから「お腹でも痛いのですか。どこかお痒いのですか」と不審に思われたりする。
「菓子の用意はあるか」
「ございますが」
「特別に珍しいのがいい」
「わかりました。若さま、急にどうしましたか。甘いものは苦手でございましょう」
「そんなことはない。ナガノ、私の好き嫌いを勝手に決めるなよ」
「は、はい」
ニニンドは屋根の上にいて、サララがやって来る姿が見えると、飛び下りてきて、もとの普段着に戻したり、部屋からすぐには出てこなかったりもする。変な男だとリクイは思う。
「ラクダのパンツは役にたっているよ」
とニニンドが言うと、ふふんとサララが笑った。
「まだ落ちているというわけ?」
「もう落ちたりはしないけど、あれがあると安心して乗れる。最近はずいぶんと速くなったから、来年は、確実に、私が勝つだろうな」
「また射られるかもしれないのに、まだ乗る気?」
ばっかじゃないの、と言おうとして、サララは言葉を飲み込んだ。リクイから、宮廷ではもっと言葉に気をつけるように言われていた。
「今度は矢よりも速く走るから、大丈夫だ」
「勝手にどうぞ。わたしは来年は乗らない」
「尻込みしているのかい」
「まさか」
「引退かい」
「まぁね。わたしじゃないけど、カリカリが、」
とサララが眉をしかめた。
「なんでもピークは、永遠には続かないものさ。いいかげんなところで、やめるのがいいんだ」
「じゃ、代わりの若いラクダを用意しようか」
「そういう問題ではない」
「何が問題ですか」
「わたしはカリカリとしか走らない」
「それは残念だな。サララに大差をつけて勝ってみたかったのに」
「あんたにそういう日が来ることはない」
「じゃ、今ならどうですか」
「今?」
「ふたりだけで決着をつけるというのはどうですか。それとも」
「それともって、なんだい? わたしはこの人生で、一度も逃げたことがない女さ」
「ふたりとも、何を言っているんですか」
とリクイがあたふたとした。
「時には逃げることも大事ですよ」
「わたしは逃げない人間だ。あちらのことは知らないけれど」
「私も、逃げる人間ではない」
「ふたりはよく似ている人間です」
とリクイが言うと、
「どこが」
とふたりが声をそろえた。
「そこがですよ。勝気で、頑固なところ。そっくりじゃないですか」
どちらも引き下がらないまま、ラクダを引いてポロ競技場までやってきた。競技場を五周し、先にゴールした者が勝ち。
リクイはここなら狙われることはないし、これで決着がつくのならそれがよいだろうと反対はしなかった。
というわけで、リクイがスタートの声をかける役目になった。
「位置について、用意、出発」
カリカリと旋風が駆けだした。
スタートは旋風のほうがやや早かったが、四週目になると後半に強いカリカリが三メートルの差をつけた。どうも頭脳派の旋風はラストに向けて、力をセーブしているらしかった。
「さあ、行こう」
ニニンドの声が聞こえ、旋風がスピードを上げると、サララが振り返った。その時、カリカリの右後肢がくじけて、サララが宙に舞い上がった。
あぶない。
それを見たニニンドはラクダから前方に跳んだ。彼は地面に落ちて背中と臀部を打ったが、サララは彼の柔らかい身体の上に着地し抱きしめられた。
氷のように凍った時間が溶けた時、
「こんなことしたら、死ぬよ」
とサララが青い顔で言った。
「いいよ」
「ばっかじゃないの」
「ラクダパンツをはいているから、大丈夫さ」
サララはその時、心臓というものがどこにあるのか、初めてわかった。胸の左上が聞いたことのない大きな音をたてていた。




