32. てっぺん争い
ナガノはまた教育係のところへ走った。彼は青い顔をして、数日間の間に痩せたようだった。
運動神経抜群な若さまに乗れないはずはないのに、何が原因だと思うかとナガノは尋ねてみた。
「てっぺん争いではないかと思います」
どちらがボスか、争っているのだと彼は言うのだ。旋風は気高い性格で、負けじ魂がある特別なラクダなので、人間のほうが折れるので、こういうことはこれまでは一度もなかった。今回は、きっと両者とも似たような性格なので、意地の張り合いが続いているではないか。
「ではどうすればよろしいとお考えですか」
「・・・・わかりません」
ナガノは仏教を信じる部族の出身だった。この国は宗教に寛大だから、さまざまな宗教が信じられていた。それはひとつの宗教、ひとりの神官の力が大きくなりすぎて、国が滅びた例をいくつも見てきたからだ。グレトタリム王の代になってからは、キリスト教までが許された。
ナガノはこうなったら仏にお願いするしかないと、小さな仏像の前で、赤い蝋燭を何本も掲げ、座ったり立ったりの五体投地を行った。この礼拝は足の悪いナガノには苦行で十数回繰り返したところで意識が霧のようになりかかったがそれでも続けていくと、もうろうの向こうに何かが光ったように思った。ナガノははぁはぁと肩で息をしながらその意味を考えた。法典は教えている、過ちは認めなければならないと。自己中心になってはいけないと。
その夜、ナガノはニニンドの湿布を貼り替えながら、こう言った。
「若さまは旋風に乗ろう乗ろうとしておられます。旋風は乗せるまい乗せるまいとしています。どちらも、相手に自分が主人だということを、力づくで、知らせようとしております」
「馬の時もそうだったが、最初はそれが肝心なのだよ」
「けれど、旋風は幻のラクダと呼ばれる特別なラクダ、プライドが非常に高いのです」
「では、どうすればよいと言うのか」
「横暴な態度はいけません。謙虚になり、本音で会話をしてみてはいかがでしょうか」
「本音とは、何か」
「自分はラクダ競争に出て、どうしても勝ちたい。ついては協力してくれないかと伺ってみたらいかがなものでしょうか」
ニニンドはしばらくの間、無言だったが、「なんでもやってみよう」と言って、枕に顔を埋めた。
ナガノは、若さまがこれほどあっさりと聞き入れてくれるとは思っていなかったのだが、実は彼は身体中が痛くて長い話には耐えられないのだった。
「お願いしますよ。若さまのお尻ときたら、もう見られたものではありません。あの赤ん坊の時の桃のようなお尻はどこにいったのでしょう。こんな傷だらけのお尻を見せられたら、百年の恋も冷めます」
ニニンドは頭を少しだけ起こした。
「一言多い」
部屋ではいつもナガノが石臼を引く音が聞こえ、薬草の臭いが漂っていた。ある深夜、ニニンドがそっと起きてきて、ナガノの肩を揉んだ。
ナガノが振り返り、
「もったいないことです」
とその手を離させた。
蝋燭の炎のゆらぎの中に、子供の頃の若さまの可愛すぎるあの笑顔が浮かんでいた。あの頃は明るくて、よく喋り、よく笑った。一団を率いる親分になってからは感情をださない人になってしまったが、今目の前にいるのは、素のままの若さま。自然と涙がこぼれて、ナガノはそっと袖でぬぐった。
「ナガノ」
優しい声が響いた。
「は、はい。どこかお痛いですか」
「ナガノはいつも一生懸命だね、私のために」
「当たり前じゃないですか。若さまは私の命でございます」
ナガノがニニンドの手を握った。ナガノの手には力がはいっていて、とても病人とは思えない。ニニンドがおやっという顔をした。
「実は最近は調子がよくて、医者もよくなってきていると申しておりました。希望があるというのは、すごいものでございますね」
「そうなのかい。ナガノはそんなにラクダ競争が見たかったんだね」
「旋風はどうなのですか」
「大丈夫だ。私達は折り合いをつけたからね。絶対に優勝する。そしたら、ナガノは治るかもしれないね」
ナガノはニニンドの両手を頬に押し当てて、泣いた。若さま、私が望んでいるのはそこではないのです。勝ってくださらなくても結構なのです。
「ナガノはもう戻りたくないのだろう、Y国には」
「はい。でも、いやでございますよ、私を残して帰られては。どうぞ、私をひとりにして帰らないでくださいませね。ひとりで死ぬのはいやでございます」
「わかっている。ところで、昼間は窓を全部あけておいてほしい。ここは臭すぎる」
そうですか、とナガノは鼻をくんくんとさせた。
「慣れてしまったのでしょうか、私は何も感じませんが」




