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枯朽樹

作者: 如月一月

爺さんが息子を試す話

荘厳な都市である。

帝都コンスタンティノリス。聖歴三二〇年にコンスタンティン大帝が遷都したこの都は、救世主自ら選んだという由緒ある五大教会の一つである。旧名ビザラ。この地は古来よりアイジアとエウロピアを結ぶ東西交易ルートの要衝であり、また天然の良港である金角湾を擁していた。時代が移り変わり、偉大な世界帝国が東西に分裂しても、この都市は東方の帝都として君臨していた。十字聖主教の首位総主教座として、かつての世界帝国の後継者として、東西文明の十字路として、彼らはサラセス人が帝都を包囲した時でさえ、その誇りと信仰を失わず、権謀術数のかぎりを尽くして生き長らえてみせた。


が、その余命はもはや風前の灯火であった。

――巨大な頭を持った半死人。

今の帝国を評した西方の言葉である。


帝都は、久々に歓声で沸いていた。

聖なる祭りの時でさえ、ここまで帝都が賑わったことは幾久しく無かった。それだけ、首都の民衆は「それ」に飢えていたのである。

拭えない諦観と不安の中に生きていた彼等が欲したもの。その名は「勝利」――。

歓声が一層大きくなる。帝都を守護し、いかなる外敵も越えたことのない三重の城壁。その正門をくぐって現れたのは凱旋した軍隊の姿。

その入城を首都の住民たちは一目見ようと、大通りに、中央広場に殺到し、その姿を視界に収めると、抑えることのできない興奮を全身で表していた。


「「「勝利(ニエ)! 勝利(ニエ)! 勝利(ニエ)!」」」


遠征軍の凱旋式など、何百年振りだろうか。市民たちは、昔話でしか知らないこの行事に熱狂し、兵士たちは、予想以上の栄誉と歓待に、喜色満面だった。


「「「勝利(ニエ)! 勝利(ニエ)! 勝利(ニエ)!」」」


いつの間にやら、宮殿から官吏たちも駆けつけていた。留守を預かっていた守備兵たちは、同僚の晴れ姿を目にしては、遠征に参加できなかった悔しさを表し、半年ぶりの再会をこの上なく喜んだ。

そこには、老人も、子供も、女も、男も、貴族も、平民もなかった。


「「「勝利(ニエ)! 勝利(ニエ)! 勝利(ニエ)!」」」


民衆たちは、一人残らず、この催事に熱狂した。



帝都の旧名にちなみ、ビザンと呼ばれるこの帝国は、繁栄と衰退とを繰り返した国家である。

世界(ローメ)帝国の「後継者」として西方文明世界の大半を版図に収めてみせた八百年前。

東方のサラセス人――景回教を崇拝する異教徒――との抗争によって穀倉地帯を失い、東方の一国家に転落した七百年前。

サラセス人たちを撃退し、北方の蛮族を征服して、東方の一大強国として復活した四百年前。

東と北の敵に対峙するため、「援軍」としてやってきたはずの十字正教諸国の軍によって、帝都が陥落しかけた二百年前。

分断された領土の「回復」を終えたものの、一小国として辛うじて存続するにすぎなくなった百年前。

そして、現在。「帝国」の領土は、帝都周辺のわずかな土地と、海の向こうの小さな半島をようやく保持するのみであった。


帝都の中央より、海岸に近い場所に大宮殿は存在している。その宮殿は、広場での狂騒とは同じ都市にあるとは思えないほど、静かに佇んでいた。往年の帝国の繁栄を象徴するようなこの建物も、至る所に大小さまざまな損傷を抱えていた。凱旋行進を包み込む市民の歓声も、ここまで来ると薄れてくる。特に宮殿内部の奥座につづく回廊内では、微かに響くのみであった。その原因は、普段なら宮殿に詰めているはずの官人達の多くも、凱旋式のために広場に参集しているせいであろう。

その中を一人の老臣と、一人の青年が歩いている。


老臣は文官の常として、ゆったりと余裕のある官服を身に纏っており、紺色の帽子の着用を許可されるような立場の人物。その右手に持つ笏には、高官であることを示す、十字に双頭の蛇が緩やかに巻き付いたものであった。

青年の方はというと、見るからに武人らしい精悍な顔つき、無駄のない筋肉のついた偉丈夫。その鎧には将軍を示す緋色のマントが付けられており、古代の時代と同じように、紅い房の付いた冑を左脇に抱え、長剣を帯びることを許される者。


「……ゲオルギウス」

沈黙に耐えかねたように、青年が呟く。老臣は歩みを乱さず、視点を前方に向けたまま言葉を返した。

「申されますな」

老臣の名をゲオルギウス・パウレリオスといい、帝国の財務長官として主席(プロリ)大臣(エンス)の地位にいる。その声は、しゃがれきっていたものの、振舞いに卑しさは全くなく、その針のように細い身体には威厳が満ちていた。

「そうかな……? そうだな……」

小さく溜息を零した偉丈夫の名を、ミカエルという。帝国の皇太子であり、皇帝に代わって軍権を預かる最高(イン)司令官(ペルリア)であり、此度の遠征軍を率いた将軍――つまりは今回の凱旋式の主役であるはずの凱旋将軍であった。

その二人が、沈痛さを秘めた表情で静かに歩んでいた。


「……陛下は、なんと言っていたのだ」

ミカエルが再度、ゲオルギウスに問う。ゲオルギウスは一瞬だけ、ミカエルに視線を向けたが彼は気付かなかった。

「なにも」

「そんなはずはあるまい」

ミカエルは自嘲の笑みを浮かべた。それは確信と願望の籠った言葉であった。

「事実です」

ゲオルギウスは答えた。ただただ事実のみを告げる口調であった。

「……真か。私は真実が欲しいのだ、主席(プロリ)大臣(エンス)

「全て事実です、最高(イン)司令官(ペルリア)。陛下は……」

そこで始めて、ゲオルギウスが言葉を濁した。口元がわずかに歪む。それがこの老人にとって、告げたくないことを告げる際の癖であることを知るが故に、ミカエルは続きを促した。

「……陛下は殿下の出陣以降、病に臥せって居りますれば」

政務のために奥座に向かうことすらできません、そう続けた老臣の言葉を、青年は言葉として認識できなかった。



当代の皇帝ロムレス三世は哀れな男である。

彼の四十年を越える治世は、綱渡りのような外交の維持と、援助を求めるための西方への屈辱的ともいえる行脚の記録である。

その知性は、帝国が大国の時であればさぞかし臣民に降り注ぎ、帝国の繁栄を一層のものにしたであろうし、その軍才は非凡ではないものの、帝国の国境線を維持・安定させたに違いない。「よりよい時代に生まれていたなら、さぞかし名君であったろう」と臣下たちは、哀愁を込めて呟いた。

だが、彼が即位した時、もはや帝国はその滅亡をどれだけ引き延ばすことができるか、という時代だった。それは彼を含めて、帝国の国政に携わる者であれば、だれも承知する事実であった。


不幸なことに、彼はそれを延命させるだけの努力と忍耐の出来る人物であった。

幸運なことに、彼はその苦悩を共に引き受けてくれる朋友に終ぞ出会わなかった。

ロムレス三世とは、そういう人物である。




白い服に身を包む、枯れ木のような身体の老翁。寝台の横の小さな椅子に腰かけた皇帝の前で、ミカエルとゲオルギウスは部屋の入り口近くで報告を行っていた。

「……ニケイヤと、カルケニア。及びその周囲の大小二十を超す町村の『回復(レゾンド)』。違いないな? ミカエル」

「御意」

『大勝利』と喧伝される、戦績はこの程度のものであった。

「そうか……」

老皇帝は一度だけ小さく頷いた。室内には、静寂だけが満ち、本来なら聞こえぬような宮殿外の歓声の残滓が聞こえた。

長い沈黙であった。

沈黙に耐えかねたミカエルが口を開こうとしたその時、皇帝の上体が大きく傾いた。

「陛下!」

ゲオルギウスが慌てて支える。ミカエルが近付けた耳に、皇帝の閉じられた口から、わずかに音が漏れた。

――大儀、と。




半年前のことである。

大宮殿、玉座の間。そこでは高官たちが二つに割れて、議論を行っていた。いや、議論とはいうものの、大勢は既に決しているようなものであった。

帝国の領土は、小アイジア(アルトリア)を本拠とするオスメニアに四方を囲まれている。ロムレス三世の父、ヨハネス五世の時代からオスメニアに「庇護」されていた。さらに彼はロムレスの兄にあたる長男との泥沼の内乱を自力で鎮圧できず、オスメニアの援護によって復位できた経緯があり、その「救援の代償」は帝国にとって大きな負担となっていった。

ロムレス三世の治世、いや生涯とは、その傷を少しでも癒す努力であったといってよい。

そしてその努力に、不満を持つものが少ないはずもなかった。


――オスメニアにて、皇位継承権を巡って内乱が発生。

――劣勢の先代の弟・ムスタファが一部の領土を代償に援助を求めている。


その情報が帝国の強硬派の重臣たちや、現状打破を訴えている皇太子になにを思わせたのか、それを考えるのは難しいことではなかった。

現状維持を唱える老いた皇帝と、新方針を訴える若き皇太子。結果は明らかであった。


「ミカエルよ」

外敵に怯え、それ故に強硬論を唱える重臣たちの中でただ一人、皇帝の側に立っていたゲオルギウスを制し、老皇帝は重い口を開いた。

「……なんでしょうか」

ミカエルから表情が消える。重臣たちの殆どは自らに味方してくれているが、全ては皇帝の一言で決まるといってよい。幸か不幸か、近頃は長年の心労が原因なのか宮殿に籠りがちであったが、臣民たちは大樹のような安心感を与えてくれるこの老皇帝を絶大に支持している。


『飛べなくなった老鷲(帝国)は、大樹(皇帝)の下で安息を得た』


古くから帝国の象徴である鷲を用いたこの西方の言葉は伊達ではない。この皇帝はそれだけの存在であった。

――なにを、いうか。

ミカエルが身構えたその瞬間、皇帝は再度口を開いた。

「勝てる、のであろうな」

軽い言葉であった。血気盛んな息子の前で、「今の帝国にとって必要なのは、支配者でなく管理人である」と口癖のように疲れた声で呟く老帝とは思えぬほど、弾んだ響きがあった。その反応に重臣たちがわずかに喜色を浮かべる。

ただし、である。


その眼差しはミカエルを捉えて離さなかった。

たじろぎかけたその足を、どうにかして踏み止まる。そうでなければ倒れてしまいそうな錯覚を受けた。老人の圧力を押しとめ、青年は言葉を返す。

「勝ち、ます」

その言葉をどうにか口にする。それだけのことであるのに、戦場に立っていたかのような疲労感がその身に襲いかかった。

「然様か」

そう言うと、ロムレス三世は目を瞑った。

短い沈黙であった。


「……諸卿等に告げる。この国の危機にあたって、余は軍務に服すのに聊か以上に老いた。そこで、だ」

玉座から立ち上がる。即位と婚礼の際にしか着なかった帝衣の代わりに着ている、喪服のような白い衣の裾がわずかにだけ揺れた。

「余の後継者、ミカエルを最高(イン)司令官(ペルリア)とし、軍権を委ねるものとする。……財務長官」

「……ここに」

「この一事、最高司令官を責任者とする。汝はその補佐だ。異存はないな?」

「臣は陛下の御心のままに」

よく言うわ、と老人の枯れた笑い声が響く。

ロムレス三世の言葉を理解するのに、廷臣たちは暫し時間が必要であった。そしてその言葉を理解した時、彼らの脳裏を占めたのは驚愕と困惑であった。


古代からの「後継者」を自認する、このビザンと呼ばれる帝国において、「皇帝」の職権とは大きく分けて三つ。

一つは「最高(インレ)執政官(クティオ)」として、政務官の長として国家の政治・外交を主導する権。次に「総督命令権」であり、属州――今も残るはわずかに小さな二州のみだが――の総督を任命できる権。

そして最後の一つが「最高(イン)司令官(ペルリア)」として、帝国全軍の最高司令権を握ること。

この三権の一つでも他者に委ねるというのは、その者を帝国の共同統治者とする、と宣言したのと同義なのである。

それを誰かが口にしようとしたその時には、皇帝は笑声のみを残して既に去っていた。


ミカエル率いる一万の兵が、ムスタファを援護するという名目の下、帝国のかつての領土を『回復』するために出陣した翌日。皇帝ロムレス三世は、寝台の住人となった。




老人が目を覚ました時、窓の外の光景は夕暮時になっていた。

侍臣から、日付が二つ進んでいることを聞いた彼は苦笑を禁じ得なかった。

――そこまで、老いたか。

一種の感慨深さが、老人を襲った。笑おうとして歪めた口元からは、わずかな音が漏れていった。その身は既に、寝台から起こすことも叶わなかった。色褪せた記憶。そこに色彩はない。ただただ、暴力的な労苦の日々であった。


――四十二年、か。


彼の人生の過半はその地位にあって消費されていった。彼の春秋のすべては、なにひとつとして、彼個人のために使われたことはなかったといってよい。

外敵に怯える宮廷で、援助を求めるための旅中で。わずかな合間に詩作にふけり、神学の著作を書くことが唯一の慰めであった生涯であった。

――それで、よい。

それでよいのだと、そのために生きていたのだと、老人は自らを認知していた。

「あれは、賭けであった……」

するりと声が出た。そのことに小さく驚く。

彼のさらなる驚きは、あると思っていなかった答えが返ってきたことであった。

「……先の遠征のことでしょうか」

「ゲオルギウス、か」

多忙なはずのその者が自らの寝所にいる。その理由を問おうとして、やめた。その代わりに、忠臣に答えることを選んだ。

「然様」

ひどく疲れる。身体の重みを今更に感じ始めたことに、多少の苛付きを覚えながら、そう返した。

「オスメニアの……オスメニアの新君主を知っておるか」

「セリム、とかいいましたか。確か二十四、五歳でしたな」

若い君主です、と続けたゲオルギウスの言葉に、老人は微かに頷いた。

「二十四……。ふふ、その頃の余は、オスメニアの人質であった」

父帝の崩ずる四年前のことである。

「ゲオルギウス。余はな……」

父のことが嫌いであった、そう続いた言葉はひどく空虚であった。本心であり、本心ではないものの響きであった。臣下は顔を伏せることだけを答えとした。


とうに彼の治世は、四半世紀続いた父の治世を越えていた。

彼は父よりも優秀な人物として扱われ、その枯れ木のような身体からは想像もゆかないほど、粘り強い交渉者として生きた。

結果として帝国は延命し、皇帝は敬意を受けた。

――だが、それも終わりであろう。

「余の生涯は、あの戦を行うために必要なものを準備するための期間だった……。そうは、思わぬか」

答える言葉はなく、寝室はいつの間にか夜の帳に満たされていた。



帝国の実権は、皇太子ミカエルに移った。

あの口癖を呟いていた老帝は、最期にこう口にした。


「今後は、お前の好きなようにするがよい」


老人は一介の隠者として、七十三歳で死去した。


大樹による安らぎを、老鷲は永久に失った。




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