第三話
「今日はいろんなことがあったな……」
あの後、聡とクララは神殿内の別室へ案内されそこで夜を明かすこととなった。
用意された大きなベッドにはしゃいでいたクララだったが、転がった次の瞬間には小さな可愛らしい寝息を立て始めた。聡は苦笑してその隣に寝転ぶ。
次々と起こる自身の手に余る出来事に、すっかり疲れていたが、不思議と目は冴えていた。
聡は頭のなかですべての始まり……クララとの出会いを思い返す。ふたりの出会いは、いくつかの偶然が重なって起こった出来事であった。
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「さすがにそろそろ痩せなくちゃ、だよな……」
腹の脂肪を指でつまみながら、聡は呟いた。
過酷なハードスケジュールが原因で身体を壊し、会社を退社したばかりだった当時の聡。
会社員時代に使う暇なく貯め込んでいた貯蓄があるのをいいことに、自宅に引きこもる生活を送っていた。
そして、食べて寝るだけの堕落した日々を過ごした結果、彼は当然のように太ってしまっていた。
気に入っていたデニムジーンズのウエストに贅肉が乗っていたことに危機感を覚えた聡は一念発起し、ダイエットを決意。
手始めに彼は、自宅の周辺を走りはじめた。
最初のころはほとんど距離を稼げなかったが、毎日走り込みを続けるうちに体力が付き、徐々に身体が動くようになってきていた。
そうなると今度は走ることそのものに、楽しさを覚え始める。
彼は、一日一時間のランニングを雨の日以外毎日続けるようになった。
それから数週間が経ったある日。
ランニングにもある程度慣れてきた聡は、ほんの思い付きで普段よりも長い距離を走ろうと考えた。
ひとつめの偶然だ。
「うーん……ここ、どこだ?」
気の赴くまま、夢中で足を動かした彼は、ふと気がつくと知らない土地までやって来ていた。
目の前には、寂れた神社の鳥居が見える。
日の落ちた暗い空を見て、そろそろ帰ろうと踵をめぐらしたときだった。
「うわッ……冷たッ!」
突然、天から無数の雨粒が聡をめがけて落ちてきた。
予報外れの通り雨が降り始めていたのだ。
とりあえず、建物の軒下で雨宿りをしよう。
そう考えた聡は、目の前にある石造りの鳥居をくぐり、神社の境内へと足を踏み入れた。
それは、ふたつめの偶然だった。
「で、でけェ……」
聡は雨宿りすることすら忘れ、空を見上げていた。
そこにはあの屋久杉すら遥かに上回るであろう、巨大な樹木がそびえ立っていたのだ。
神聖で清廉な空気を放つ大樹に魅入られた聡は、当初の目的であった軒下を探さず、その大樹の麓へと駆け寄った。
これだけ葉の生い茂った木なら、雨に濡れることもないだろう。そう考えたのだ。
よく見るとその大樹の側面には、人ひとりが何とか入れそうな大きさの洞があった。
不意に興味をそそられた聡は、その洞の中に身体を押し込むと、中を捜索しだした。
いつもであれば、そのような子どもじみた真似はしない。
しかしそのときは、なぜだか自分でも妙に思うほど、好奇心が心の奥から湧き出していたのだ。
まるで、何かに誘われているかのような心地だった。
それが、最後の偶然だ。
洞の最奥まで辿り着いた聡は、足元に蹲る薄汚れた小さな毛玉を見つける。
拾いあげたそれは、温かい生命の温度を持っていた。
「お前……捨てられたのか?」
「クゥン……」
薄汚れた毛玉……痩せ細った弱々しい子犬が、小さく鳴く。
こうしてはいられない。
即座に自宅へ連れ帰ることを決めた聡は、子犬を抱えたままその洞から飛び出すと、雨に濡れる身体を気にすることなく自宅方向へ向かって走り出した。
「急いで帰るから、もう少し我慢してくれよッ……!」
自宅へたどり着いた聡は、帰宅の道中で購入した缶詰めの餌を子犬に与えた。
よほどお腹が空いていたのか、子犬はかなりの速さで餌を食べ終えると、満足そうにリビングの床に寝そべった。
「ごはん、美味かったか?」
「……ワンッ!」
つぶらな瞳をきらきらと輝かせながら、子犬は愛想良く吠える。
聡はすっかり愛らしい子犬の魅力に、夢中になってしまっていた。
「よしよし、いい子だな。……あとは、その汚れも取ってやらなくちゃいけないな」
聡は、子犬の毛にこびり付いた泥や汚れを落とすために、子犬を浴室へ連れていった。
犬を飼った経験のない彼は、スマートフォンの動画共有サイトを開くと、犬のシャワー動画を手本に、見よう見まねで子犬の身体を洗いはじめた。
「お前……本当は白い犬だったんだなぁ」
汚れで湯が濁るため、何度か湯を張り替えながら洗う。
すると、子犬の薄汚れていた毛はその色を変え、白い毛並みが姿を現していた。
それは光の加減によって、プラチナやシルバーブロンドにも見える美しい色だった。
「ん……? なんだ、これ……」
首周りの毛を洗浄しているとき、不意に聡の指先になにか硬いものが当たる。
それは、鍵の形を模した飾りだった。
まじまじとその鍵を見る、随分と古めかしいデザインのものだった。
「こんなもの、付けてたか?」
聡は疑問を浮かべたが、拾ったときは慌てていたし、もつれた毛に埋もれていて、気づかなかったのだろう。彼は、そう考えた。
子犬を見つけた場所が場所だったため、聡はすっかり捨てられたものだと思い込んでいたが、もしかしたら迷い犬なのかもしれない。
「もしお前に本当の飼い主がいるなら、探してやらないと、だな……」
早くもこの子犬を飼う心づもりでいた聡は、声色を落としながらも小さく呟いた。
しかし、その翌日。
動物病院へ行き検査をしたものの、飼い主の情報が入っているはずのマイクロチップはこの子犬には埋め込まれていない、と判明した。
「個人だとチップの装着は努力義務のままなので、もしかしたら自宅繁殖で産まれた子犬なのかもしれません」
元の飼い主が探している場合、保健所や警察に届け出が出ているはず。
そう言った獣医に勧められ、聡は地域の警察へと連絡を取った。
拾った動物も、財布などの落し物と同じように本来の持ち主が三ヶ月間名乗り出なかった場合、拾い主のものになるらしい。
それから聡は子犬の身柄に付いてどうすべきか、保健所に電話をした。
保健所はすでに別の犬猫でいっぱいになっており、新たに子犬を預かることができない。とのことだった。
そういった場合、大抵は拾い主の元で過ごすことになるらしい。
そもそも子犬を飼う気満々だった聡は、快く子犬の世話を買ってでた。
「いつまでも『お前』じゃ味気ないもんな……」
「ワンッ!」
もしかしたら飼い主の付けた、本当の名前があるのかもしれない。
だが、共に暮らすのに名前が無いのは生活に支障をきたす。
聡はそう考え、この子犬に名前をつけることにした。
見事な体毛から連想して、白のイメージにするか。
もしくは、犬用のミルクを飲むのが好きだから、それに因んだ名前にしようか。
「うーん……シロ……みるく……。ユキとかも悪くないな、……ん……??」
悩む聡が不意に顔を上げたそのとき、子犬の胸元がキラリと光る。
あの鍵の形をした飾りが、カーテンから漏れる太陽光に反射して輝きを放ったのだろう。
「鍵……Key……、鍵って確か、どっかの言葉でクラヴィスだったような……でもそれだとオス感が強過ぎるよな……」
動物病院で見てもらったときに判明したのだが、この子犬はメスだった。
聡はラテン語で鍵を意味するクラヴィスを捩って女の子らしい名前を考えた。
「……クララ。よし、クララにしよう!今日からお前は、クララだ!」
「ワンワンッ!」
「ハハ、気に入ってくれたか? ……これからよろしくな、クララ」
よく食べ、よく遊び、よく眠るクララはぐんぐんと育っていった。
初めて出会ったあの日は、精々手のひらふたつ分程しかなかった身体は、気づいたころには体格の良い大型犬ほどの大きさにまで成長していたのだ。
それは、普通の犬ではありえない成長速度であったが、犬のことに詳しくない聡には預かり知らぬことであった。
「きっとクララは、大きくなる犬種なんだろうな!白くて大きいから、サモエド?とかなのかもしれん」
「ワフッ!」
そして、届け出を出した日から三ヶ月が経過した。
ついに子犬の本来の飼い主が名乗り出ることはなく、無事にクララは聡の愛犬になったのだった。
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「そりゃ、本来の飼い主なんているはずないよな……」
まさか、愛犬が異世界の神獣……フェンリルだったなんて。現実は小説より奇なり、とはまさにこのことだろう。
エルフの巫女、ウォルアに聞かされた話を思い出しながら、聡はひとりごちた。
そして隣で寄り添うように眠っているクララを見る。
その見た目は、確かにかつて地球で見ていた姿とはまるで違っている。
それでも。
聡の腕に縋り付く独特の寝相、すぴすぴと小さく音を出す寝息。どこか、あのころの面影があった。
「見た目がいくら変わっても……お前は、俺の愛してる大事な子だよ」
おやすみ、クララ。
聡はそう言うと、いつも通りクララの頭を優しく撫で、瞼を閉じた。
仕事の合間にちまちま執筆中。