第一話
聡は、目の前の大樹の幹に手を付いて、空を仰いだ。
太く逞しい幹に空いた洞、天高く張り巡らせた枝に茂る青葉、肉眼では見えないほど遠い頂。
どれも見覚えがあった。
それも、ここではない場所で。
「この樹……あの神社にあったやつと同じ、だよな……」
もしかしたら、この大樹が異世界に転移してしまった原因なのかもしれない。
そう考えた聡は、大樹の周囲を一通り見て回ったが、なにも情報を得ることはできなかった。
「この樹が原因じゃないのか……いや、もしかしたらなにか他のきっかけがあるのかもしれない……」
「ごしゅじん〜!」
弾む声色で主を呼ぶクララが、思考の海を沈潜していた聡のことを引き戻した。
「……ちゃんと服、着れたか?」
「うんッ!着れたの!」
姿の変わってしまった愛犬、クララとの邂逅を果たした後。
聡は取り急ぎ、身に付けていたランニング用のジャージを脱ぐと、それをクララへと手渡していた。
かつて犬として日本で暮らしていた彼女には、服を着なくてはいけない、という意識がない。
そもそも羞恥、という感情を知らないのだ。
そのためクララは、小ぶりながらも均整の取れた身体を、惜しげも無く晒していた。
……正直言って、見るは目に毒だったのだ。
ジャージを持ってきていて、良かった。
聡は心の底からそう思った。
平均的な成人男性である彼のジャージは、かなり小柄な体格であるクララには少しばかり大きすぎる。
しかし、下も身に付けていなかったクララにはむしろちょうど良かった。
ジャージの長い裾が、まるでワンピースのような役割を果たしてくれるはずだ。
とりあえずこれで、目のやり場に困ることはなくなるだろう。
「ごしゅじん、見て見て〜ッ!」
しかし、振り返ってクララの姿を見た彼は、その場で石のように固まってしまった。
白くほっそりとした腕は片方の袖しかまともに入っておらず、ジャージのファスナーは開け放たれたまま。
一番大事なところが、まるで隠せていなかった。
それだというのに、当の本人は褒めて、褒めて!と言わんばかりに、ボリュームのある尻尾をふりふりとご機嫌に動かしている。
「……ぜんッぜん、着れてねえじゃん!」
叫び声が、再び森の中に響き渡った。
聡は顔を横に背け、クララの方を見ないようにしながら、ジャージを着せ付けていく。
ときおり指先を掠める、何らかの柔らかさに胸をどぎまぎさせながらも、何とか着せることができた。
「よし、……これで大丈夫だ」
「わ〜い!ごしゅじん、ありがとうなの!」
上までしっかりとファスナーを閉じて、クララを見る。
思っていた通り、大きめのジャージに華奢な身体を泳がせてはいたが、しっかりと守るべきところは守られている。
ふう……これでようやく安心して隣を歩ける。
聡は内心、ほっと胸を撫で下ろした。
「この布、ごしゅじんの匂いがするの〜!」
そんな主の気も知らずに、クララは楽しげに声を上げて、聡の周囲をくるくるとはしゃいでまわっていた。
「さて……これからどうしようか」
クララの服の問題がとりあえず解決したことで、今後のことを思考するための余裕が産まれた。
この場所が一体どこなのか。
元いた世界へ無事に帰れるのか。
なぜ聡たちが、この場所に呼ばれたのか。
……そして、クララはなぜ人間のような姿をしているのか。
調べる必要がある。
聡は、そう考えた。
今は、無数の木々に覆われた森の中にいる。
そのためこの大樹以外の情報を得ることはできなかったが、外へ出ればきっと村や街があるだろう。
人が集まるところには情報も集まる、なにかが分かるかもしれない。
「とりあえず、まずはこの森から出てみよう」
「わかったの!」
行くあてはなかったが、動かないことにはなにも始まらない。
ふたりは、森の中を歩きはじめようとした。
次の瞬間。
上空を見守るように飛んでいたはずの竜が、ふたりの行く手を阻むかのように、突如目の前に急降下してきた。
襲われる!
咄嗟にそう判断した聡は、クララを護るように抱き寄せると、その身体に覆いかぶさった。
「……クララッ!!」
「キャアッ!」
竜が降りた衝撃で舞い上がった砂埃が収まり、視界が晴れる。
そこには、四、五メートルはあるであろう竜の巨体が、視界一面に立ちはだかっていた。
竜の大きな背には、幾人かの人影が見られる。
「なんだ……? 襲われ、ない……?」
その中のひとり。
一際神聖な雰囲気を持った美貌の少女が、竜の背から地面に降り立った。
少女はふたりのいるところに向かってその歩みを進め、目の前で立ち止まる。
そして、その場で両膝を地につけ胸の前で手を組むと、聡とクララへ向かって、その小さな頭を垂れた。
重力に従い、少女の長い髪が揺れる。
その隙間から覗くのは、長く尖った特徴的な形をした耳殻だった。
それは聡が暮らしていた地球でも、よく知られている存在。
……神話と幻想ファンタジーの住民、エルフ。
「お待ちしておりました、神獣様。……そして、契約者様」
「君たちは……、一体……」
「女神の命により、お迎えに上がりました」
詳しいお話しは、また後ほど。
そう手短に伝えたエルフの少女とその従者たちに連れられて、聡とクララはその場を後にした。
小東 叶 です。
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次話は、明日投稿予定です。
《追記・09/19》
私用で忙しくしており投稿が難しいため、次話は後日投稿致します。