変わっていく関係
そして月日は流れて一ケ月後。
「アルベルト殿下!!!」
バンッ!と音をたてて王太子の執務室の扉を開くと、サクラは勢いのままに声を上げた。
中では、アルベルトと稀人の女性がソファに並んで座り、何やら頭を寄せ合って書物を見ている。二人は顔を上げ、怖い顔をしているサクラを見遣った。
「馬鹿者、ノックをしろ」
未亡人を連れ込んで女色に耽るよりも、仲良く頭を寄せ合って本を読んでいる方がどこか親密気なことにサクラは驚く。
「未婚の女性と二人きりになるなんて、王太子の自覚が足りません」
「今まで散々俺が女を連れ込んでもその点には文句を言わなかったお前が、珍しいな」
「わあ、アルベルト。本当にクズなんだねー」
「煩い、リリコ」
稀人の名は凛々子といい、その彼女が朗らかにそう言って笑うと、アルベルトは彼女の額をつついて苦笑を返す。
そんな風に親密な姿を見せつけられて、サクラは絶句した。
気位が高くで傲岸不遜なアルベルトは、今まで誰に対してもこんな風に親し気に振る舞うことはなかった。部屋に連れ込んでいる女性達に対しても、寵愛しているというよりはその時の欲を互いに発散する相手、というような態度であり、増長して親し気に振る舞おうとしたマリソル男爵夫人などは二度と召し上げられることはなかったそうだ。
サクラに対してすら親し気なわけではなく、単純に本当に口が悪いだけでちょっとしたスキンシップなどもない。いっそ婚約者という立場から見れば余所余所しいほどだったのに。
まるで稀人の彼女とは親しい友人や、もしくは恋人のように振る舞っている。
大きな衝撃を受けて、サクラは僅かに後ずさった。
「どうした」
「……いえ、とにかく。リリコ様は未婚の若い女性です。リリコ様に醜聞が流れませんよう、配慮すべきです」
サクラは気を取り直して、そう進言した。アルベルトはいかにも煩そうに顔を顰めたが、不承不承頷く。
「用はそれだけか」
「……本日分のチェック済の書類です」
付いてきていたメイド二名に持たせていた書類を、彼女達に頼んで机に置いてもらう。
一カ月前よりもさらにサクラに渡される書類を増えていて、もはや彼女一人で運ぶには重すぎたのだ。
「じゃあ次は」
「いい加減にしてくださいませ!最近ほとんどの書類仕事は私に押し付けておられます、ご自分の責務をお忘れですか!?」
サクラが眉を寄せて精一杯声を張り上げると、アルベルトは面倒くさそうに頭を掻いた。
「……お前は本当に煩い」
その声に、サクラはカッとなる。
これほど仕事を肩代わりさせられても、労いの一言もなく煩い呼ばわり。一方、凛々子にはじゃれるような仕草で接する。
王命で婚約者となり、自身も国と民に育まれた貴族のそれも公爵令嬢としての恩と矜持があるからこそここまで耐えてきたが、これではあんまりではないか。
そんなに凛々子がお気に入りで、サクラのことが煩わしいのならば本当にさっさと婚約など破棄してくれればいいのだ。他の者ならばいざ知らず、稀人は特別な立場だ。
ひょっとしたら、サクラとの婚約を破棄し、凛々子と婚約を結ぶことを王と国は許すかもしれない。
そうしてくれれば、この屈託からサクラも解放されるかもしれないというのに。
「……もう結構です!」
サクラは小さく叫ぶと、なんとか形だけは淑女の礼をして踵を返した。
誰もいない廊下を早足で歩いて、中庭に辿り着く。
ガゼボの椅子に座り、両手で顔を覆ったサクラは唸るように吐息をついた。涙は出ない。泣いてなど、やるものか。
それではまるで、アルベルトの態度にサクラが傷ついたかのようではないか。
ここ一年ほどですっかり怠惰で尊大なうつけ王子になり下がったアルベルト。幼い頃は真面目で聡明な子供だったし、長ずるにつれて婚約者ではあっても会える機会は減っていったがそれでもあんなクズになっていく片鱗は見受けられなかった。
それとも、サクラと会う時だけ取り繕っていて、どんどんダメになっていっていたのだろうか?
王城にサクラが居を移したことでもう猫を被る必要もなくなり、本性をありのまま見せるようになったとでも?
溜息をついて手を顔から外すと、少し離れたところで驚いた顔をして立つエリオットがいた。
「エリオット殿下……」
「びっくりした。サクラ、泣いているのかと思った……」
エリオットは痛まし気に目を細め、近づいていいか、と聞いてくれる。サクラは当然どうぞ、と手で示した。
ガゼボに入ったエリオットは、少し距離を取って椅子に座る。どこかできちんとサクラのメイドや彼の護衛が見てるのだろうけれど、まるで二人きりのような光景だ。
「どうかした?また兄上かな」
「……ええ、まぁ。今回ばかりはほとほと愛想が尽きまして」
盛大に溜息をついてサクラが言うと、エリオットは眉を下げた。
「兄上は最近、稀人に執心のようだね。俺も彼女と滅多に話す機会がないぐらい、独占しているようだ」
稀人は、その異世界の知識などを授けてくれる貴重な存在として、発見された場合は王城で手厚く保護することが決められている。勿論稀人自身の自由を制限する為の決まりではないが、大抵の場合は身寄りも知り合いもおらず、こちらの世界での生きる術も何も知らない稀人は王城に留まることが多いらしい。
「エリオット殿下も会えないぐらい、アルベルト様がリリコ様を傍に置いておられますの?」
「そのようだね。視察なんかにも同行させているようだし」
その言葉にサクラはぎゅっ、と胸が痛む。
王太子の視察には、凛々子と出会ったあの時以来サクラは帯同を要求されていない。代わりに、城内で毎日書類と格闘の日々だ。
「稀人に国のあちこちを見せて回っているんじゃないかな」
ショックを受けた様子のサクラに、エリオットは慌ててフォローを入れる。が、別にサクラはショックを受けたのではない。
「人に面倒な書類仕事をさせておいて、自分はお気に入りの女性とあちこち回っているだなんて、ほんといいご身分ですこと……!」
大いに怒り狂っているのだ。
「サクラ……」
「本当にすまない。兄上の所為で、君にこんなにも不遇な思いをさせて……」
「エリオット様に謝っていただくことではありませんわ。悪いのは何もかもあのクズですから」
もはや殿下も敬称のつけずにクズ呼ばわりし、サクラは強気に微笑んでみせた。エリオットには見破られるだろう虚勢だが、張らないよりはマシだろう。
そんな彼女を見て、エリオットはサクラの前に跪いた。
「殿下!?」
「……サクラ。君を兄上から解放して上げられたら、どれほどいいだろう……もっと俺がしっかりしていれば……」
そう言って、エリオットは彼女の手を恭しく戴き手袋越しに口づける。
「……滅多なことを仰ってはいけませんわ、エリオット殿下。それに私は、別にアルベルト様に縛られてなどおりません」
ぽんぽんと取られた手を叩いて離させると、サクラは微笑んだ。エリオットは悲し気に眉を寄せる。
現在はアルベルトは王太子としての地位に就いているが、それは確実なことではない。この国の王は実力主義で、第二王子のエリオットにもまだ立太子の可能性が十分にあった。
サボってばかりのように見えて、アルベルトが王太子でい続けているのは、彼がその優秀な実力と常に示し続けているが故なのだ。
「サクラ」
「でも、そう言って下さったことはとても嬉しいです。ありがとうございます、エリオット様」
サクラは茶目っ気たっぷりに笑ったつもりだったが、エリオットには儚げに微笑んだようにしか見えずまた彼の胸は痛んだ。
「……何かあったら、必ず俺に言うんだよ。しばらく地方視察で留守にするけれど……必ず力になるから」
「心強いです、エリオット様。今度はどちらに行かれますの?」
「ベルク地方だよ」
「あら、また……?頻繁に向かわれるということは、あちらの情勢はまだ落ち着いてはいないのですね。エリオット様、どうかお気をつけて」
サクラの方こそ彼を心配してそう言うと、エリオットは朗らかに微笑んだ。
「ありがとう、サクラ」
微笑み合う二人を、何時の間にか中庭に来ていたアルベルトがひどく冷めた目でじっと見ていた。