聖女降臨
ある日の午後。
アルベルトは、王都から馬車で数時間ほど行ったところにある農村の視察に赴いていた。サクラも帯同させられていて、表向きは次期王・王妃の仲睦まじい姿を広く国民に見せる、というものだったが実際は馬車の中で書類仕事を手伝わされていたのだ。
そうでもしないと終わらない量の書類を残していたクズに対して殺意を滾らせると共に、もしサクラが帯同しなければ馬車に女を連れ込んでいたに違いないと確信して、彼女は更に憎しみを上乗せしていた。
一体どれほど遊んでいたらこんなにも仕事が溜まるのだろう。王の仕事ではなく、王太子に割り当てられた仕事だ。真面目にこなしていれば、忙殺される程多い量ではない筈なのに。
「以前の殿下はここまでクズではありませんでしたわ……」
「……お前、いよいよ本人を前にしてクズよばわりしているぞ」
ガラガラと車輪の音をたてて進む馬車の中。
進行方向側の座席に膝をたてて座るアルベルトに、聞えよがしに溜息を付きつつサクラが言うと、低い唸り声が返ってきた。
「どうせ婚約解消していただけないのでしたら、不敬罪にも問われませんでしょうし、せめてなりと私の心の鬱憤を晴らす為に御前で申し上げることにしました……」
サクラが粛々と言うと、アルベルトは視線だけ上げて彼女を睨みつける。
「陰口ってのは本人のいないとこで言うもんだ、馬鹿」
「アルベルト殿下が、私のことを馬鹿だの阿呆だの言うのと同じことですわ」
口を動かしつつ、サクラはテキパキと手も動かす。外に最重要な書類は持ちだすわけにはいかなかったので、今馬車に積んであるものは重要度は低い。
だが、まるでこうなることを予見して準備されていたかのように量が多く、しかも期限が近かった。やらざるをえない。
救いは、向かいの席で同じように書類を捌くアルベルトがいることだろうか。いや、元々彼の仕事なのだが。
「昔は賢く思慮深い王子であられたのに、どこでどう間違ったのでしょう……どっかでそっくりさんと入れ替わりましたか?」
「どうやって入れ替えるというのだ。俺ほどの美形はそうホイホイおらんだろうが」
「自分で仰いますか……エリオット殿下だって負けてませんわ」
未決済の箱から書類を取り出して、サクラはペンを握る。揺れる馬車の中なので、あまり細かい作業は出来ないが、修正箇所に赤を入れるぐらいは出来るのだ。
「俺の二番煎じの方が好みとは、お前趣味が悪いな」
今度はアルベルトの方が聞こえよがしに舌打ちをする。それを初めて聞いた時はショックで気を失いそうだったサクラだが、今や慣れっこである。慣れたくなど、なかったが。
「アルベルト様は性格と根性が悪いですわね」
アルベルトも一枚書類を手に取り、下敷きにした固い本の上でサインをする。インクが乾くのを無精してひらひらと振るものだから、ほんの少しインクが流れてしまった。
「お前は口も悪いな」
「誰かさんの所為で鍛えられましたもので」
「ほう、ではその誰かさんに感謝しておくんだな」
フフン、と哂われて、サクラはまた拳を握った。
彼女はあれから、格闘に関する本を何冊も読んだのだ。日々イメージトレーニングも欠かさない。本当は公爵家の護衛に頼んで稽古もつけて欲しいぐらいなのだが、王太子の婚約者がそんなことを言い出したら大事になってしまうのでまだ言えずにいる。
「おい、睨むな。口よりも手を動かせ」
吐き捨てるように言われて、もはや傷つくような軟な心根も乾ききったサクラは、またも盛大に溜息をついた。このクズを殴りたい。何故自分は二メートルの巨漢ではないのだろう。
口喧嘩をしつつようやくたどり着いた先は、去年は天候の関係で作物が不作だった為、国の補助が入った村だった。
今年の農作物の出来を確かめて、補助を続けるかどうかを決めなくてはならない。勿論、農業について門外漢のアルベルトとサクラが田畑を視察したところで何にもならないのだが、こうして訪れること自体に意味があるのだ。
一行は、広い田畑の横の道をぞろぞろと歩きながら村の者の説明を受ける。アルベルトは真面目くさった顔で、相槌などを打っているが何も分かっていないだろう。王城から連れて来た専門家が、村人に的確に質問をしてくれているのでなんとか形にはなっている。
アルベルトの横を自分で日傘を差しながらサクラは歩いているが、王都と違いでこぼこした歩きにくい道であってもアルベルトは手一つ貸してくれない。
次回があるのならば、もっと歩きやすい靴を用意しておこうとサクラは心にメモをした。書類仕事を手伝う為に連れ出されるのはごめんだが、公務としての視察はこれからもあるだろう。
どうせこのクズ王子にエスコートは望めない。あれだけ女性を部屋に連れ込んでいるのだから、少しぐらい淑女の外歩きに配慮してくれてもいいと思うのは、我儘ではない筈だ。
ようやく広大な田畑の中ほどに辿り着いた頃に、急に空が暗くなった。
一転して雲に覆われ、辺りは不穏な空気が満ちる。夕立でも来るのだろうか、この急激な天気の変化は雷が落ちる前に似ていて、サクラは差していた傘を閉じて下げる。
護衛の騎士達もどうしたものか判断に迷っている内に、カッ!と周囲が明るくなり、次いで木を引き裂くような音がして案の定、遠くの畑に雷が落ちた。
「きゃっ!」
その轟音に思わずサクラは身を縮める。
建物内にいる時ならばいざ知らず、これほど広く開けた場所にいてはかなり危険だ。恐ろしくなって自分の身を抱きしめた瞬間、また眩しいぐらい周囲が明るくなり次の衝撃に備えて彼女はぎゅっと目を閉じた。
ガシャーンッ!!!と先程よりも大きな音がして、恐怖に震えるサクラの痩身は誰かに強く抱きしめられる。
一瞬だったのか、数秒だったのか。長く感じた音が止んだ頃に恐る恐るサクラが目を開くと、アルベルトが彼女に覆いかぶさるようにして抱きしめていた。
「……でんか」
あまりにも信じられない光景にポカン、としたままサクラが呟くと、アルベルトは周囲を見回して皮肉っぽく笑い、彼女の耳元で小声で囁く。
「婚約者を庇うぐらいのパフォーマンスは必要だろう」
パフォーマンスに利用されたことに腹がたったが、村人や他の者の目が大勢ある中で彼を殴るわけにはいかない。サクラは怒りで顔を赤くしつつ、心の中の殴る理由リストに今の出来事も罪状として記した。
表面上は仲睦まじい婚約者同士のフリをしつつ手を借りて姿勢を正したサクラは、さりげなくぱしん、とアルベルトのそれを振り切って畳んだ日傘を両手で握った。
人前なのでアルベルトもいつもの悪態はなく、皆の無事を確かめる為に声などを掛けている。面の皮の厚さは為政者向きだ。夫にするには最悪だが。
そこで、村人の一人が声を上げ、空を指す。
「あれは……!?」
雷は先程のもので終わりだったらしく、また急激に雲が晴れ始めていた。その隙間から陽光が差し込み、地面に光の筋が幾重にも落ちる。一際眩しい一筋の中を、何かがふわふわとゆっくり降りてくるのが皆の目に見えた。
「……人?」
「稀人か!」
誰かが言い、一同は驚く。
稀人、とはこの世界とはどこか別の、似て非なる世界から訪れる人のことを指す。
滅多にないことだが、百年に一度程度の頻度で別の世界から訪れる者がおり、伝説と呼ぶには頻繁なのだ。どのように稀人がこちらの世界に来るのかは解明されておらず、元の世界に戻れたという話も聞かない。
ただ歴史書などに現れる稀人に関してそうだと言うだけで、実際には報告されていない稀人がいるのかもしれないし、こちらの世界から稀人の世界、もしくは全く別の世界に行ってしまう者も、ひょっとしたらいるのかもしれない。
ようは、何も分かっていないのである。
ゆっくりと降りてきたのは、どうやら気を失った状態の女性のようで、ふわふわと中空を漂いながら降りてきた体は畑の真ん中にそっと横たえられた。いつの間にか光も消えていて、辺りはまるで先程と何も変わっていないかのように見える。
「誰ぞ、稀人の様子を見て来い」
シン、と静まり返った一同だったが、アルベルトが騎士に彼女の様子を見るように命じる声で皆我に返った。
護衛の内、二人の騎士がすぐさま畑に足を踏み入れ稀人の元へと向かう。サクラもよく見ようと身を乗り出すと、アルベルトに首根っこを掴まれて引き戻された。
「殿下!」
「阿呆。危険かもしれんだろう」
周囲が稀人に注目しているのをいいことに、また悪態をつかれる。ムッとしつつも言われたことは妥当だったのでサクラは大人しくしていることにした。
結局その日の視察は切り上げられ、気を失ったままの稀人は王城に連れ帰られることが決まる。
こっそりと騎士の合間から見えたのは、サクラよりもやや年下に見える長い黒髪の女性だった。