クズ王太子と、拳を握る公爵令嬢
今日こそ殴ろう。
ペンを握りしめながら、18歳のサクラは心に決めていた。
彼女はこの国の王弟の娘、公爵令嬢である。美しい蜂蜜色の長い髪に、きらめくアメジストの瞳は王族特有の色彩であり、サクラの血の濃さを表していた。
「アルベルト殿下!いい加減になさってください!!」
目を通し、修正箇所に赤を入れた書類を両腕に抱えたサクラは、扉の前で彼女を止めようとする衛兵を振り切って扉を開けさせた。
そして、飛び込んできた光景にハッキリと顔を顰める。
執務室の広い机の上に女を押し倒し、彼女に覆い被さっているのはサクラと同じ色の髪と瞳の男性。
この国の王太子であるアルベルトだ。
「また真昼間からなんてことを……!」
「夜なら構わないのか?」
しれっと言われて、サクラは首を横に振る。
「それは私が言及することではありません」
「じゃあ何の文句を言いに来た」
「まずその女性を離してください。話はそれからです」
サクラが書類を傍のテーブルに置き腕を組んで言うと、アルベルトは女性に興味を失ったかのようにあっさりと離れてスラックスを直した。彼はそのまま一人掛けのソファに座り、ブランデーをグラスに注ぐ。勤務時間中に酒を飲むな。
女性を放ったままにしていることに顔を顰め、サクラは彼女の方に近づいた。
「あなた、平気?」
「ええ……」
「お邪魔をしてしまってごめんなさい。殿下は今は仕事の時間なの、あなたは……」
そういう商売の女性なのか、と聞いて良いものか迷い、サクラは口ごもる。が、女性の方がツン、と顔を背けて答えをくれた。
「わたくしは故マリソル男爵夫人ですわ、ラグドル公爵令嬢」
ラグドル公爵令嬢、とはサクラのことだ。
サクラの名を呼んだということは、マリソル夫人は彼女が誰なのかを分かっている、ということ。ならば事情が分かっていて言ってきているのだろう、親切に接する必要はない。
「……ではマリソル男爵夫人。お時間取らせて申し訳ありませんが、今日のところはお引き取りを」
何せサクラは、アルベルトの婚約者であり、この場で彼の愛人を追い出す権利を持っているのだから。
マリソル夫人が部屋を出て行くと、サクラは一旦テーブルに置いておいた書類を抱えなおし、ソファに座るアルベルトの前のローテーブルの上にそれらをどさりと置いた。
「チェックは出来たか」
「ええ、ですが」
「では、次はあそこに積まれている分をやっておけ。期限は明日の昼だ」
執務机の横のデスクにうず高く積まれた書類を顎で示し、アルベルトは庶民が好む紙煙草に火をつける。
サクラは顔を顰めて窓を開けた。
「淑女の前で煙草を吸うなんて失礼ですわ」
「嫌なら出て行けばいい。その書類を持って」
「ですから殿下!何故私があなたの仕事を肩代わりしなければならないのです?見れば、随分お暇なように見えますけれど……」
サクラは王太子であるアルベルトの婚約者として、半年前からこの王城に住居を移している。
幼い頃から受けていた妃教育も大詰め、後は王城で生活をしこれまでに得た知識を生きたものにしていく段階に入っていた。
「暇に見えるか?さっきだって俺は大忙しだった、お前に邪魔されなければな」
クッ、と唇を歪めてアルベルトは笑う。美丈夫も醜悪な表情を浮かべていては台無しだ。
サクラが居を移したばかりの最初の頃は、多忙な王太子に代わり重要度の低い書類に目を通し修正箇所などを指摘する仕事を“手伝い”と称してさせられていたのだが、半年経った今ではかなりの量の書類を任されるようになってしまっていた。
勿論王太子の公務であるから、最終的にはアルベルトが修正された書類に目を通し捺印しているのだろうが、随分と手間のカットをサクラに担わせている現状である。
「これは、私の仕事ではありません」
「王太子の仕事の手伝いは妃の役目だ」
「仕事の種類が違いますわ!それに、エリオット殿下にも押し付けていると聞いております、王太子殿下としての責任と義務を今一度ご確認なさるべきかと」
サクラがそう言うと、窓に向けて紫煙を吐いたアルベルトはちらりと彼女を見遣った。
エリオットはアルベルトの腹違いの弟、第二王子だ。
「あいつには押し付けていない。あれとて王子なのだから、正当に公務を割り当てて何が悪い」
「では私には押し付けている自覚がおありなのですね?」
ぴしゃりとサクラが返すと、アルベルトはうんざりと唇を歪めた。短くなった煙草を灰皿に押し付けて、手で彼女を追い払う仕草をする。
「ああ、煩い女だ。もっと従順で大人しい女が俺は好みなんだがな」
「それはお生憎様です。婚約解消を陛下に進言なさってみては如何です?」
サクラとて、こんな堕落王子と結婚など出来ればしたくない。するとアルベルトはゲェ、と舌を出して顔を顰めた。
「出来もしないことを陛下に言えるわけなかろう、阿呆かお前は」
本当に失礼な男である。
殴ろう。不敬になろうと、投獄されようと、今日こそ殴ろう。
生粋のお嬢様として育った彼女は人を殴った経験などなかったし、これが最初で最後になるかもしれないが、とにかく殴ろう。後のことは後で考えればいいのだ。
確か脚は肩幅に開いた方が体幹が安定する筈。ようは体裁きはダンスと同じだ。儚い容姿のサクラと、鍛えているアルベルトではもろにパンチが入ったとしても大してダメージにはならないかもしれないが、殴るという事実が大事なのだ。
そう、これはサクラの意思表明であり、反撃の狼煙なのだ。徹底的に戦い続ける覚悟を示す時が、今なのだ。
サクラは心を決め、拳を握った。
打つべし!!
と、そこに軽いノックの音が響き、やがて許可を得て扉が開いた。
現れたのは先程名前の出たエリオットだ。彼の髪の色は母親譲りの美しい黒髪で、顔立ちはアルベルトにとてもよく似ているが纏う雰囲気がまるで違う。
「兄上、ベルク地方の視察の報告書を持ってきました。……やぁ、サクラ、久しぶり」
彼も当然サクラにとっては従兄弟。年も近いし、幼い頃から仲良く育ってきた幼馴染と言っても過言ではない。出鼻を挫かれたサクラは、気を取り直してエリオットに挨拶をする。
「御機嫌よう、エリオット殿下……」
ベルク地方は最近内乱のあった地域だ。そんな重要地の視察こそ次期王たる王太子の仕事なのではないだろうか。
キッ!とサクラがアルベルトを睨むと、彼はちらりとも目もくれずエリオットから報告書を受け取った。それをそのままデスクに放る。
「なんて態度です、アルベルト殿下!」
「ああ、本当に煩い。エリオット、その女を連れてさっさと出ていけ」
ひらひらと手を振られ、サクラは握った拳に力を入れた。が、エリオットは苦笑して彼女を促し部屋を出てしまった。
「エリオット殿下!何故何も言わないのです?あのままではアルベルト様がますますうつけになるばかりですわ」
「こらこら、いくら婚約者でも王太子をそんな言い方してはいけないよ」
エリオットは穏やかに笑い、サクラをエスコートして廊下を歩き始めた。彼女の私室まで送ってくれるつもりらしい。
彼は第二王子で、母親は亡くなった側妃だ。彼女はシャルタン族という部族の出身で、そのこの国では珍しい色合いであり、人目を惹く美しい黒髪は母親譲りなのだ。
「お忙しいエリオット様を煩わせるわけにはいきません」
供ならば衛兵に任せればいい、とサクラが言うと、彼はまた笑った。
「俺がサクラと一緒にいたいだけだよ」
「まぁ」
サクラはつい嬉しくなって微笑む。
例の二人の約束はどうあれ、対外的には幼い頃に血統のみでアルベルトの婚約者となった彼女に、言い寄る男性などいない。当の婚約者はあの調子だし、甘い言葉を冗談でもくれるのはエリオットぐらいなのだ。
当然サクラは次期王太子妃という自覚をガチガチに持って生きているが、ちょっとぐらい年頃の令嬢らしい扱いをされたいというのも本音である。
廊下を並んで歩く道すがら、それでも話題はアルベルトの愚痴になってしまう。
「エリオット様にまで公務を押し付けているなんて、本当にどうしようもないクズ王太子ですわ」
エリオットに何度窘められても、サクラはアルベルトの文句を言うことをやめられない。
実際迷惑をかけられているのだから、愚痴ぐらい許して欲しいものだ。
「まぁでも兄上は兄上で忙しいわけだし……」
「後腐れのない未亡人を執務室に招いて、昼間から女色に耽るぐらい、お忙しい?」
嫌味っぽくサクラが言うと、エリオットは額に手を当てる。
「……それ、君がいる前で?」
「ええ。あ、いえ、さすがに咎めると中止なさいますけれど」
あの約束をした幼い頃ならばいざ知らず、現在のサクラはアルベルトの火遊びを止めるつもりはないのだ。
サクラは愛し合う伴侶ではなく役目としての妃を望まれている為、確実に世継ぎを孕むべく彼と行為を行う必要はあるだろうけれど、その後は愛妾を宛がうことも妃の甲斐性と教えられている。
アルベルトが王太子である現在も、婚約者であるサクラと婚前交渉は禁じられている為、避妊さえしていてくれれば後腐れのない相手と楽しむことを咎めるつもりはなかった。
あくまで、業務時間外に励むのであれば。
問題は、仕事もせずにせっせと女性に乗っかかっていることなのだ。
「公爵令嬢になんてもの見せているんだ、あの人は……」
さすがに慎み深さが美徳とされる令嬢という身であって、何もかも赤裸々に口にすることは躊躇われる。
が、エリオットが頭を抱えるのを見て、彼の真面目さの半分でもアルベルトにあればもう少し自分の苦労も減るのだろうに、とサクラは嘆息した。
そうこうしている内に、サクラに宛がわれている部屋に辿り着く。エリオットは申し訳なさそうに彼女に首を垂れた。
「本当にすまない、サクラ」
「エリオット殿下に謝っていただくことではありませんわ。いつか必ず、あのクズ殿下から謝罪の言葉を引き出してみせますから、ご期待くださいませ」
ぐっ、とサクラはまるで歴戦の騎士の様な気持ちで拳を握ったが、エリオットから見れば深窓の令嬢が手を握ったようにしか見えない。なんとも頼りない風情である。
「うん……まぁその際は助力を惜しまないつもりだから、俺も見てる場でやって欲しいな」
「あら、品行方正かつ温厚篤実なエリオット殿下もなかなかいい性格をしていらっしゃるのね」
サクラが笑って言うと、彼も微笑んだ。
「そりゃあの兄上の弟だから」
「血は争えませんわね」
二人して小さく笑い合う。
その場合従姉妹であるサクラに対しても限りなくブーメランな発言なのだが、優しいエリオットはそのことには触れずにいた。
ちなみに部屋に入ると、先程無視して置いてきた筈の書類が既に届いていて、サクラはまた怒りのボルテージを上げる羽目になった。
書類の束の上にはちょこん、と小さな包みが置いてある。詫びのつもりなのかなんなのか、添えられていたのは城下の店の菓子だ。随分前に一度、共に城下の視察に行った際に購入し、サクラが大層に気に入っていたのを覚えているのか、時折こうして仕事と共に置かれている。
かさりと包みを開けて、サクラはなんとも言えない溜息をついた。確かにこの店の菓子を、彼女はとても気に入っていたけれど、毎回毎回同じ店のものを寄越されるのであれば、まるでサクラの心情を考えていないかのようで素直に喜びにくい。
「……私があの店を気に入ったのは、あなたと一緒に選ぶのが楽しかったからなんですよ……?」
もう食べなれた菓子は甘い筈なのに、どこかほろ苦かった。
サクラはアルベルトがどこで誰を抱こうと、それが公務に影響がなく、避妊している上でならば、文句はないのだ。
幼い頃の初恋は、もう終わった。
半年前に王城に移り住んですぐの際に、見知らぬ女性を部屋に連れ込むアルベルト見た時に、粉々になって砕け散った。もう、元の形には戻らないのだ。