四.動き出す大国
モスクワ標準時6月25日午前8時 クレムリン
東京が午後1時を過ぎ、アメリカ海軍が行動を開始した頃、モスクワは朝を迎えていた。
ロシア対外情報庁SVRに所属するドミトリー・ウスチノフは上官に呼び出されてクレムリンの一室を訪問していた。そこには1人の人物が待っていて、ドミトリーはその正体を知って驚いた。
「同志大統領!驚かさないで下さいよ」
ドミトリーは相手をソ連時代のように同志をつけて読んだ。
「同志ドミトリー。君が私の大統領再任になんの祝いの言葉も遣さないからだよ」
大統領は普段、マスコミには絶対に見せない笑顔で応じた。
「二回目ですからね。同じ事を繰り返すのは芸がないと思いまして」
ドミトリーは弁明した。目の前の男は、一度大統領の座を譲り渡した後、その相手の任期が終わると再び立候補して大統領の地位に返り咲いたのである。
「お孫さんも柔術を始めたそうだな。上達しているのかね?」
「はい。大統領閣下の影響ですよ」
2人は声を出して笑った。それからすぐに2人とも真剣な顔になった。
「それでご用件は?大統領閣下」
「日本と高麗の戦争についてだ。背後に居る中国についてもな」
そう言って大統領はドミトリーを来客用ソファに座るように促した。
「結論を言いますと、中国と高麗は協定を結んでいることは明らかです。中国は台湾で騒動を起こす事でアメリカを釘付けにして高麗の日本に対する攻撃を支援するとともに、戦後に高麗が国際復帰する際の後ろ盾となる。そういうものです」
「それで中国は対価として何を得る」
「各種情報を総合して検討しますと、おそらく次のようなものになるでしょう。まず高麗が戦争によって得る利権の一部。そして朝鮮半島北部の水源の一部」
「やはり水か」
大統領が唸った。実のところ、中国にとって最も重要でかつ貴重な資源が水なのだ。莫大な人口を抱える中国にとって水はなにをするにも大量に必要な資源である。しかし20世紀末から21世紀初頭にかけての急激な経済成長の反動として水質汚染が中国各地に広がり、水源は枯渇していった。今、中国周辺において中国の莫大な人口を支えられる水源は非常に限られている。
「中国はその全てを確保するつもりです。ですから、まず高麗の戦争を支援することで、内戦を戦うための軍資金を確保しつつ水源も確保。そして戦力を整えて内戦を制圧。チベット周辺の水源の確保」
中国が国土の分裂を極端に怖れるのは“領土を失うことに対する恐怖”とか“中華の栄光を傷つける”とかそういう理由だけでなく、極めて実際的な理由を含んでいる。つまりチベット周辺には水源が存在するのだ。それ故に中国はチベットの分離独立、さらにはそれに繋がりかねない中国の分裂という事態を絶対に許そうとはしないのである。
「そして内戦を終えれば狙うのは…」
ドミトリーの推測が得られる結論は実に明確であった。朝鮮、チベットに並ぶ、いやそれ以上に巨大な水源がもう1つ存在するのだ。そしてそれはロシア領内にある。
「バイカル湖か」
大統領の答えにドミトリーは頷いて無言で肯定を示した。
バイカル湖。それはシベリアに存在する巨大な淡水湖である。面積でこそ世界で7番目であるが、水深は1637mと世界で最も深い湖で、ここに世界の淡水の20%が集中すると言われている。おまけに湖底には次世代のエネルギー資源と言われるメタンハイドレートまで存在している。ロシアの未来には絶対に必要な湖なのである。
「我らが母国を救う方法は何かな?同志ドミトリー」
「奴らを徹底的に邪魔してやりましょう。とことん弱らせて立ち上がれないようにするのです」
ドミトリーはそう断言し、そして遠慮がちに一言付け加えた。
「でも、そうすると多くの中国人が悲惨なことになりますね」
「君は私がそれを気にすると思っていたのかね?」
「全然思いません」
東部標準時6月25日午前8時 ホワイトハウス
モスクワから8時間遅れてワシントンDCも朝を迎えていた。
初の黒人大統領に続き女性大統領となった第45代合衆国大統領は夫を仕事に送り出して―大統領の夫をなんと呼ぶべきかは今でも議論がなされている―から、自らのその日の職務を開始した。最初の仕事は日例報告を聞くことである。大統領執務室には報告者である国務長官、国防長官、国家情報長官、大統領首席補佐官、国家安全保障担当特別補佐官が集まっていた。
代表して首席補佐官が口を切った。
「マダム・プレジデント」
すると大統領は補佐官を指差した。
「ビリー。サラと呼んでと言ったでしょ?」
「失礼。サラ、それでは本日の報告を始めます」
最初の話題はやはり日本の北九州有事についてであった。
「日本は今、午後の9時です。今のところ昨日の夜から大きな変化はありません」
国防長官が報告した。
「おそらく作戦を終えて、日本側の反応を待っている状況なのでしょう」
それに国家安全保障担当特別補佐官が一言付け足した。
「それに今日はユギオですし」
「ユギオ?」
大統領が聞き返した。
「韓国語で6月25日を意味します。転じて朝鮮戦争を示します。ですから、彼らにとって特別な日です。それ故に攻撃を控えているのかも」
大統領はその答えにあまり興味を示さなかった。
「そう。で、日本の方はどういう状況なの?」
それには国務長官が答えた。
「特に変化がありません。衆議院の方では自衛隊出動の是非を巡って論争が続いていますが膠着状態です。まったく自分の国が攻められている時になにをやっているのだか」
国務長官は同盟国に対する侮蔑を隠さなかったし、それを注意する者も1人もいなかった。
「OK。で、我々はどのようなオプションが採れるの?」
「日本が動かない状況では軍事オプションは難しいですね」
国務長官は首を横に振りながら言った。
こんな会話は続いている中、シークレットサービスの警護官が大統領に駆け寄ってきて耳元で何かを囁いた。
「ハリーが?」
大統領は商務長官の名前を口走った。
「通して」
すぐに執務室に商務長官が入ってきた。
「おはよう諸君。で、君たちはアメリカ国民をあの卑怯者の日本のために死地に送り込む話をしているのかな」
突然の訪問に驚く大統領以下の面々を前に商務長官がにやけ顔で叫んだ。おまけに目は充血していて酒の匂いもした。とても正常な状態には見えなかった。
「同盟国を救援する話よ。それで?商務長官から報告があるとは聞いていないけど。とりあえず酔いを覚ましてきなさい」
「報告では無い。アメリカ合衆国国民として意見を表明しに来た」
商務長官は息を吸い込んで腹に力をこめた。
「いいか!奴らはアメリカの市場を食い物にして、アメリカ人労働者の犠牲の上に立って儲けているんだ」
それは一方的で偏見に満ちた意見であったかもしれないが、多くのアメリカ人が共有する日本に対する憤りであった。
「しかも連中はそうやって世界第二位の経済大国に成り上がったというのに、それを維持する努力まで我々にさせようとしやがる。自分たちで使う石油の輸送ルートを守ることさえ惜しみ、インド洋に補給艦1隻浮かべることまで渋るんだ」
国務長官は商務長官の言葉に無言で頷いた。
「おまけに我々は奴らのために軍隊をわざわざ派遣して日本に駐屯させているってのに、その費用を払うことを嫌がって、安保条約が片務的で不平等だと言うのさ。自分達は俺達のために血を流すつもりなんて無いくせにだぜ。それで自分たちは努力をしないことを平和憲法がどうだとか言って自画自賛するんだ」
商務長官は溜めていた物を吐き出しきったようで、そこで一息ついた。次にしゃべりはじめた時には随分トーンダウンしていた。
「サラ。あんたはそんな奴らのために今度は合衆国国民に“血を流せ!”と言うのかい?なぁ。いつからアメリカは日本の犬に成り下がっちまったんだ?」
この闖入者にオーバルオフィスは静寂に包まれた。閣僚達は黙り込んで沈黙してしまっている。見かねた大統領が一息ついてから切り出した。
「ハリー。日本は重要な同盟国よ。見捨てるわけにはいかないわ」
商務長官はそれを聞くと首を横に振った。
「OK、OK。マダム・プレジデント。素晴らしい話だね。連中が金を払って俺達が血を流すという素晴らしい条約を履行するために、アメリカの若者たちに死んで来いと命じるわけだね。最高にヒューマニズムに満ちた話じゃないか!なぁ!日本の犬どもめ!」
それだけ言うと商務長官はオーバルオフィスを出て行った。大統領と閣僚達はその背中を黙って見送るしかなかった。
商務長官が出て行くと、会議が再開された。
「それで我々が用いることができる資源は?」
大統領の問いに国防長官が答える。
「近傍にいる第7艦隊の空母<ワシントン>だが、台湾の問題もあり動かすには慎重な判断が必要だ。もちろん、これは海軍に限る問題ではないが」
それがアメリカ海軍の直面している現実であった。中国が軍部隊を台湾の対岸に動かし、今にも台湾に侵攻しそうな状況である。そのため周辺の米軍部隊を日本に集中させることができないのである。
「ともかく可能な範囲で動いているよ」
国防長官は海兵遠征隊の一部を佐世保に派遣したことを説明した。
「他に投入可能な空母はないの?」
「太平洋艦隊には5隻の空母があるが、<ワシントン>以外には<ニミッツ>と<ジョージ・ブッシュ>はインド洋で作戦中だし、<ロナルド・レーガン>は定期メンテナンスのためにサンディエゴでドック入りしている。そして<エンタープライズ>は新鋭の<ジェネラル・R・フォード>と交代するためにサンディエゴに向けて最後の航海の最中だ。とても戦闘に投入できる状態じゃない。台湾の問題に対処するために大西洋艦隊から<ジョン・C・ステニス>を太平洋に向けて出撃させたが、まだブラジル沖だ」
「インド洋から1隻を出せないの?」
「無理だ。今、中東は危険な状態だ。イランがいつイラクに侵攻するとも限らない。地中海に1隻、インド洋に2隻。この編成は変えられないね。だが今、空母を1隻新たに地中海に送り込むところだ。これが到着したら1隻を極東に向けられるが。どちらにしろ到着までには2週間はかかる」
そこまで言われては大統領も空母の迅速な増強を諦めざるをえなかった。
「ほかに何を投入できるの?敵はもう日本に上陸した以上、空母だけというわけにはいかないでしょう?」
「ハワイの第25師団を投入しようと思う。軽歩兵旅団とストライカー旅団を1個ずつ。これが先遣部隊だ。物資は日本にあるから、将兵だけを送ればいい。命令があり次第、出撃できる。それを援護する空軍部隊もある。緊急展開部隊だ」
国防長官は空母の時とは違って自身に溢れていた。
「顔色が良くなっているわよ?どの部隊?」
「当たり前だ。私が前にいた部隊だかね。第366航空団、ガンファイターズ!」
(改訂 2012/3/24)
内容の一部を改訂