二八.明日への一歩
横須賀 潜水艦隊司令部
潜水艦隊司令部は海上自衛隊の中でも最も機密度の高いエリアで、作戦立案の詳細に携わるのは片手で数えられるだけの人間に過ぎない。そして今、司令部のその一室にその全員が集まっていた。
「頭が痛いな」
司令官は<こうりゅう>からの報告を片手にため息をついた。
海上自衛隊潜水艦隊は<こうりゅう>の偵察情報を基に九州沿岸での新たな作戦を計画していた。しかし、<こうりゅう>が高麗軍に発見されて敵潜水艦と交戦してしまったために計画の実行は危うくなった。
「情報本部からの報告です」
司令官の傍らに立つ幕僚長が新たな書類を司令官に手渡した。
「予想通り、高麗軍は対馬海峡の対潜活動を活発化させております。保有するP-3対潜哨戒機を総動員しているようです」
高麗軍は旧韓国海軍の対潜哨戒機をそのまま受け継いでいる。P-3Cが8機に中古のP-3Bが同数。日本の対潜哨戒機部隊と比べて質量ともに大きく劣るとはいえ、対馬海峡のような狭い海域に戦力を集中させるなら無視できない脅威となる。
司令官は自衛隊の潜水艦部隊に自信を持っていて高麗軍の対潜網を突破して任務を遂行することができると信じてはいたが、しかし相手が警戒を強化したところへとわざわざ部下を送り込むことには乗り気になれなかった。
「なんとか高麗軍の対潜部隊を分散させる手はないだろうか?」
司令部の面々は考えた。そして、1人の幕僚が案を思いついて、それを説明した。
「うむ。法的にはどうなのだろうか?」
司令官が尋ねると、その幕僚が答えた。
「政府の法解釈では自衛権の範囲に含まれると解釈できる余地はありますが、グレーゾーンですね。実行には政府の承諾を得る必要があると思います」
「よし。その線でいこう」
方針が決まれば、あとは実行する艦の選定である。しかし、付近の潜水艦はそれぞれ別の任務についているし、新たに戦場となっている海域に向かっている潜水艦は“九州沿岸での新たな作戦”に投入されることが決まっていて、その為の装備が既に積み込まれている。
「こうなったら<こうりゅう>にやってもらうか。責任をとってもらわないとな」
料亭
陽は落ちて夜になっていた。その日の予算委員会は平行線を辿ったまま終わり、その後に菅井は三日前に訪れたあの料亭に足を運んでいた。そして個室に案内されると、そこには先客が2人居た。日本労働党党首である片山満と三日前にこの場で会談をした民生党右派のリーダー格の議員である。
2人の姿を見て菅井は笑顔を浮かべた。反対に彼を迎えた2人は顔色が暗い。政敵である菅井に主導されている現状に不満を抱いているようだ。しかし、そんな不満くらい我慢できる2人だと菅井は信じていた。
「それでどうなった?」
菅井が尋ねると2人とも頷いた。最初に口を開いたのは片山だ。
「党中央委員会の了解は取り付けたよ。渋々だけどな」
それに民生党の議員が続く。
「こっちも票をまとめた。過半数はとれる筈だ」
「これで前進だな」
菅井は心底から安堵した。
「全ては日本を守る為だ。主義主張は違ってもそこは変わらないはずだ。明日は頼むぞ」
「当たり前です」
民生党の議員はそれだけ言うと、そそくさと料亭を立ち去った。後には菅井と片山が残った。
「あいつもなかなか骨があるな。ただの青二才と思っていたが」
菅井が立ち去った議員への評価を述べた。
「なんて名前だっけな?前なんだっけ?」
それを聞く片山の方は相変わらず渋い顔だった。菅井は話し終えるのを待って切り出した。
「菅井さん。もう一度言うが。党の中央の方針は確かに防衛出動容認で固まったが、あくまで渋々だ。状況が変われば簡単にひっくり返る」
「というと?」
「我々が容認できるのは“日本の国内で、日本に侵入した敵部隊に対する戦闘”だけだ。自衛隊がそれを超える行動をとるというのなら、分かっているな?」
菅井は黙り込んで返事をしなかった。そんな様子を見ながら片山は話を続けた。
「でもまぁ、防衛出動の承認については筋を通すよ」
それを聞くと、菅井はようやく口を開いた。
「それで十分だよ。そっちこそな。あんまり原則に囚われて大切なことを見失うなよ。まぁ原則に囚われない労働党なんぞ労働党では無いか」
ニヤリと笑う菅井に片山もようやく笑顔を見せた。
「言ってろ、言ってろ。それじゃ、俺は帰るよ」
片山が出て行って、個室に1人残った菅井は懐から携帯電話を取り出した。
首相官邸
国会というのは大変疲れるところだということを烏丸は知っていたつもりであったが、今日は特にしんどかった。執務室の自分の机に腰を下ろした烏丸であったが、目の前に置かれていた書類の中身がまるで頭に入ってこなかった。
その時、机の上に置かれた電話が鳴った。受話器をとると秘書官の声がした。
『官房長官からお電話です。お繋ぎしますか?』
「頼む」
すぐに菅井官房長官の声が聞こえてきた。
『総理。やりましたよ。これで防衛出動を国会に承認させる目処は立ちました』
「それは良かった」
それからいくらか言葉を交わすと電話を切った。それから一息ついた。烏丸は久々に明るい話題を聞いた気がした。
椅子の背もたれに身体を預けて烏丸は天井を見上げた。それでなにかあるわけでもなかったが、ほかに何をする気にもなれなかったのだ。
すると執務室の戸を誰かが叩いた。
「入れ」
扉が開き、その向こうから自衛隊の制服を着た男が3人、入ってきた。2人は烏丸の知った人物であった。1人は統合幕僚長である神谷陸将、もう1人は海上幕僚長の笹山海将だ。代表して神谷が事情を説明した。
「総理。夜分に申し訳ございませんが、現在計画中の作戦について指示を仰いだほうがよろしいかと考えまして」
「計画中の作戦?」
「詳しくは潜水艦隊司令官から」
神谷から指名された潜水艦隊司令官はまず博多港沖で起きた海戦について説明した。それから、その結果生じる影響について、そしてその影響を抑えるために必要な条件を説明した。
「それでどうするというのだ?」
烏丸の問いに潜水艦隊司令官は核心部分について話し始めた。彼が計画した作戦についてである。それを聞くと烏丸は顔色が変わった。
「ちょっと待ってくれ。それは、その、自衛権の行使からの逸脱になるんじゃないか?」
烏丸がそう尋ねると、3人の自衛官は黙り込んで互いに目配せした。その顔には議論を先に進めることへの躊躇が感じられる。最初に沈黙を破ったのは笹山だった。
「内局と意見を交換しましたが、はっきり言いましてグレーゾーンです」
神谷は内局から取り寄せた国会議事録の写しを烏丸の前に置いた。
「これは昭和31年2月29日、当時の防衛庁長官が国会で行った答弁です」
烏丸は写しを手にとって、内容に目を通した。当時の防衛庁長官は“ミサイル攻撃などが予想されるときに、他に適当な手段が無い場合に限って敵基地への攻撃を行うことは自衛権の範囲内”とする一方で、“侵略国の基地を攻撃するのが防御上便宜であるという理由だけで、安易に敵基地に攻撃を行うことは自衛権の範囲外”としていた。
烏丸の様子を伺いながら潜水艦隊司令官が自分の意見を述べた。
「海上自衛隊の司令官としては部下の安全のために是非とも実施したい作戦でありますが、しかし日本の国防上絶対に必要であり、かつ他に手段がないのであるかと問われれば、そうであるとは断言できません」
神谷が続いた。
「これは高度に政治的な問題を含んだ作戦です。総理の判断を仰ぎたいと思います」
さらに篠山が付け加えた。
「実行すれば潜水艦部隊の安全を守るだけでなく、高麗に対する政治的な圧力にもなります。実行する価値のある作戦だと思います」
3人の意見を聞き、烏丸がため息をついた。
「まったく難しい問題を持ち込むんだな」
それを聞いた3人の将官は揃って頭を下げた。烏丸は言葉を続けた。
「だが、それがシビリアンコントロールってもんだな。よし、ちょっと待ってくれ」
烏丸は将官たちに背を向けて思案した。また振り向いて将官たちと対面する。
「いくつか確認したいことがある。民間人に被害が及ぶ可能性は?」
それには潜水艦隊司令官が答えた。
「確実なことは言えませんが、目標は軍事基地です。また攻撃そのものの直接の被害もそれほど多くはありません。あくまで高麗の対潜部隊の分散という間接的な効果を狙ったものでありますから。ですからその可能性は極めて小さいと思います」
「もう1つ確認したい。それによって自衛隊の隊員の命が救えると君は言うのだな」
3人の将官は力強く頷いた。
「では、作戦の実行を許可しよう」
将官たちは再び頭を深く下げてから、執務室を出て行った。
日付がかわり、7月が始まった。運命の日が始まろうとしていた。
三話と八話を修正。一部キャラクターの名前を変更しました。
(改訂 2012/3/23)
実在の人物の名前をカット