白昼夢~another world~
――― 大時計塔の広場には、夏になれば、やってくる。
飛行艇に乗って、年に1度の移動式遊園地が。 ―――
行列に並べない、子供でした。
思い出すのは、幼い頃の夢だけです。
――― 見世物小屋にサーカスに、回転式木馬。
蒸気を噴く機械から次々と生み出される、さまざまな色の風船の中を、華やかなパレードが笑顔を振りまきつつ進んでいます。
行き交う人はみんな、楽しそう。
私も、たのしい。
夢中になって風船を追いかけていると、そこに 『お姉さま』 がいらっしゃいました。
お名前は存じません。
ただ、『お姉さま』 とお呼びしていたのです。
ぼんやりと記憶に残る、柔らかな栗毛にふっくらとした頬。
パニエを重ねた優しいクリーム色のドレスが、よく似合っておられます。
『お姉さま』 が並んでいる列は、どこに続くのでしょう?
列の人はみんな、幸せそう。
『お姉さま』 も、幸せなのでしょうね。
白い頬に、微笑みを浮かべておられます。
「お姉さま、どこへ行かれますの?」
行列に駆け寄る私の前に、赤と白のだんだらを纏った影が、立ち塞がりました。
「おっと、お嬢さん」 覗き込んできたのは、赤と白に塗り分けられた道化師の顔。
「招待状はお持ちかな?」 ふさふさの赤い髪の毛に埋もれた、白く染められた犬の耳が、ぴょこん、と動きます。
「なあに、それ?」
「持っていないんじゃあ、この列には並べないねぇ」
白く彩られた目をにやにやと歪ませながら、「招待状がない人はあっちだよ」 と赤い鼻が示します。
色とりどりの風船が飛び交う世界を ―――
「ちょっと、聞いておられます?」
母の苛立った声で、追いかけていた世界は、ふっと消えてしまいました。
目の前にあるのは、風船ではなくティーカップ。
テーブルの向こうに、母のそこそこ豊かな胸を強調したドレスが見えています。
隣では、弟のライアンが静かに紅茶を飲んでいて…… つまりは普通の、貴族階級の団欒中です。
「あなたの今の問題をおっしゃってみて?」
「ええ」 瞼の裏に舞う、黄色や青の残像。
「全て、上手ではありませんわ。ピアノも、詩の暗唱も、古語も、刺繍も」
「その通りよ」 噛みつきたいのを抑えるような、母の口調。
「いつになったら、わたくしに娘の自慢をさせてくださるのかしら?」
「さぁ……」
「せめて、そのみっともないドレスをなんとかなさいませ、と、いつも申してますでしょう?」
この国では、貴族の令嬢は研鑽を重ね、徳を積んでは女王陛下に認めてもらい、階級を上げていきます。
階級の証は身を美しく飾るもの。
スカートを膨らますパニエ、身体のラインを美しくみせるコルセット、レース、リボン、宝石。
けれども今の私が纏えるのは、くすんだ色合いのシンプルな 『基本のドレス』 だけ。
膨らんだスカートも、コルセットもありません。
何の取り柄もない私には、それが相応しいのでしょう。
不満があるのは、私よりもむしろ、母のようです。
――― 「他の令嬢と違う」 「このままでは良い縁談も来ない」 「弟を見習いなさい」
ことあるごとに、繰り返される同じ台詞。 ―――
母の考えに、異を唱えるわけではありません。
他と違うのはきっと、いけないことなのでしょう。
(『お姉さま』 は、今どうしておられるのかしら……)
母はまだ、喋り続けています。
「ライアンの階級がまた上がったから良いものの、あなただけでは恥さらしもいいところですよ」
ライアンは私と違い、とても優秀なのです。
先日も、剣技大会で成果を出したばかり。
母のために良かったとは、思います……が。
それを殊更に言われるのは、ライアンには不愉快だったのかもしれません。
ガタッ、とわざとらしく椅子を鳴らして席を立ち、無言で去っていきます。
「……まだ、反抗期なのね」 仕方ないわね、と首を振る母。
「ともかく、あなたもしっかりなさいませ。できるだけ良い縁談を探してはいるのですから」
「……ありがとうございます」
本当に、なんとありがたいことでしょう。
何ひとつ上達せず、みすぼらしい衣装のままの私にも、誰もが羨む普通の幸せを用意してくださるのですから。
……ただ、私には。
良い方と結婚して子供に恵まれ、微笑みと共に暮らすような未来よりも、夢の中に飛び交う風船の方が、色鮮やかに見えるだけ、なのです。
「……ねぇ。『お姉さま』 は、今、どうしていらっしゃるのかしら」
聞くともなしに呟けば、母の目が訝しげに見開かれます。
「どなた?」
「昔、よく遊んでいただいたお姉さまよ」
「……そんな方、いらしたかしら」
――― ぼんやりと甦る、柔らかな栗毛にふっくらとした、白い頬 ―――
「おられなかったかも、しれませんね」
私はひっそりと答え、ぬるくなった紅茶を口に含みました。
――― 屋敷の外は、霧の都。
ゆらゆら、ゆらゆら。
機械の街のいたるところから吹き出す蒸気が集まって、蜃気楼を作ります。
ゆらゆら、ゆらゆら。
いつも不確かで、掴んでもするりと逃げていく、蜃気楼の世界。
ゆらゆら、ゆらゆら。
触れることさえ、いつの間にか諦めてしまった私には、きっと、ふさわしいのでしょう。
幸せそうな微笑を頬に浮かべ、普通の幸せを願って、家庭教師のレッスンを受け、奉仕活動に励む毎日は。
「飛行艇がきたよ」 「移動式遊園地が始まるよ」
歌うような子供たちの声も、私には遠い昔。―――
「まって!」 高く澄んだあどけない声が、目の前を駆けていきます。
蜃気楼の中、どこまでも飛んでいく鮮やかな風船と、それを追いかける幼い子供。
(私も、同じだったわ)
気づけば、走り出していました。
スカートが、風を孕んで軽やかに翻ります。
駆けて駆けて、いくつもの、煙突の生えた建物の間を抜け、大時計塔の広場へ。
(まだ、こんなに走れるわ)
――― 年に1度、飛行艇に乗ってやってくる移動式遊園地。
見世物小屋に、サーカスに、回転式木馬。
華やかなパレードを彩る、無数の風船。
幸せそうに微笑む人たちの、長い列。
「おや。今度は、招待状を持っているね」 覗き込んでくる道化師の、赤と白に塗り分けられた顔。
……私の手には、いつの間にか招待状がありました。
「どうするね? お嬢さん」 白く染められた犬の耳が、ぴょこん、と動きます。
「皆さん大体、並びますけどねぇ?」
「…………」
私はかぶりを振って後退りました。
閉じた袖、軽いスカート…… 私のドレスは、思いっきり走るためのもの。
大人しく列に並ぶには、向きません。
道化師の赤い口が、にやり、と歪みました。
「招待状をなくしたら、もう2度と並べませんよ?」
「いいのよ」
踵を返した時、クリーム色の膨らんだスカートが、ちらりと視界の隅を横切った気が、しました。 ―――
そして次の日、また次の日と、時はどんどん過ぎていきました。
ある日のこと。
いつもの貴族階級の団欒中、母が不意に、こう切り出しました。
「あなたのおっしゃっていた 『お姉さま』 って、ロッシュ家のメアリー様ではなくて?」
「メアリー様?」
「ほら、外国に嫁いで行った……」
「…………」
泣きたいような笑いたいような、そんな気持ちがいたします。
私は、ぬるくなった紅茶を喉に沁ませ、ひっそりと答えました。
「そうかも、しれませんわね……」
――― 行列に並べない、子供でした。
並ぼうとは、今でも思えません。
けれど、どこへ行けば良いのか。 ―――
見出だすこともできぬままに日々は去り、季節はじき、秋になります。