皮肉、変わらぬ日常。
「あの、すいません!」
名前も知らない新入生の、俺を呼び止めようとする声。
この時、この声、この瞬間から。
俺の本当の高校生活が始まった。
いや、もしかしたら、それ以前から始まっていたのかもしれない。
俺の知らないところで、彼女の中で。
「よろしくお願いします、先輩!」
季節は春。
我が高校では数日前に入学式が行われ、部活同生たちが新入部員を獲得するために躍起となっていて、校内全体がとても活気に満ちている。
先月はまだ肌寒さが残っていて朝の着替えは窮屈だったが、ここ数日はだんだん過ごしやすい気候になってきて、徐々に冬の終わりと春の到来を感じる、そんな朝だ。
「俺ももう二年生になったんだな」
校門前の桜道を、俺を乗せたバスがぐんぐんと進んでいく。
右を見ても左を見ても桜桜桜で、なんとも言えない特別感を感じるが、
バスの中は他の生徒たちの「課題やってな~い」みたいなお決まりのトークや、他愛もないどうでもいい世間話などで満ちていて、外の春真っ盛りな風景と違ってここは普段と何ら変わらない日常が繰り広げられていた。
主人公、山崎亮、16歳。
月が平商工高等学校、二年生。
バスを降りて軽く深呼吸をすると、どことなく甘い匂いを乗せた風を感じた。
今日もいい天気だ。
「さてと…行くかな」
鞄を持ち直し、玄関へと向かった。
そう、俺は二年生になったのだ。
でも、何かが変わるわけではない。いつもと変わらない日常が始まって、また終わって。
そんな日々を俺は、きっと卒業まで延々と繰り返すのだ。
(うん、きっと、何も変わらない)
「よっ、おはよう亮」
「おう、おはよう雄輔」
教室へ入ると、昨年から引き続き同じクラスとなった俺の最も気の合う友達である雄輔…「鈴野雄輔」が既に教室で待機していた。
「テスト勉強やってきたか?」
席についた俺に雄輔が投げかけて来た一言目がこれだった。
本日は入学式が終わり春の一大イベントが終わってようやく一息…といきたいところに追い打ちのように襲い掛かってくる課題テストの当日なのだ。
「最低限はやったけど全然自信ない」
「正直範囲が広すぎるんだよ。春休みの課題っつっても一年の時の総括みたいな内容だし、実質一年の時に授業でやった全てが試験範囲ってことだろ?」
「ほんとにな。まあでもさすがに課題テストって名前なんだし、課題で出て来たとこ以外は出ないんじゃないか?」
「そうならいいんだけどな」
などとだらだらと会話する。
俺はこのクラスには雄輔以外に誰も友達がいない(悲しいがそれにはちゃんと理由がある)ため、この会話の時間は非常に貴重であり有意義な時間である。
「はい、席つけ~」
だらだらと雑談して過ごすこと約20分。
クラス担任が教室へと入ってきた。
入ってきた、のだが。
クラス内のざわつきは収まる気配がなく、そのへんを平然と歩き回っているやつらばかりだ。
「さて、今日は朝礼が始まるまでにどれくらいかかるかな」
俺の斜め後ろの席で雄輔が鼻で笑いながら言った。
我が高校、「月が平商工高等学校」、通称「月が平」。
その名の通り「工業科と商業科」が一体化した高校であり、工業科に所属をしながらも商業科の資格取得などに取り組むことができる。もちろんその逆で、商業科に所属しながら工業系の資格を取得することも可能。このあたりでは珍しい、「商工一貫」を教育方針とした高校だ。
しかし、工業科、商業科の生徒が一つのクラスに一緒くたにされているわけではなく、工業は工業、商業は商業でしっかりクラス分けがされている。
例えば、工業科であれば「工業科」という括りの中にさらに「機械科」「情報科」「電子科」と三つに分けられていて、それぞれの科に一つずつクラスが割り当てられている。
「機械科」は一組、そして俺と雄輔が在籍している「情報科」が二組。「電子科」が三組といった具合だ。
一般的な工業高校がほとんど男ばかりであるがそれは我が校も同様で、工業科は全体の中の九割九分くらいが男子生徒だ。
そんな男の花園のようなむさくるしい工業科に対して、商業科は「企画科」(四組)と「経営科」(五組)の二つに分けられており、工業科とは真逆でほぼ全員が女子生徒で構成されている。男女共学ではあるが、あまり異性に接点を持つ機会は少ないという、少し変わった校風だ。
さて、ここまで聞くと、「なかなか面白くていい感じの高校だな」という感想を持つ方も多くいらっしゃるかと思われるが、実際の現場のほうはというとそれほど聞こえのいいものではない。
今この教室、二年二組では、担任が必死に生徒たちを席へ座らせようと声を張り上げているが、そんなものにまるで聞く耳を持とうともしない男たちで、この教室はいつまでたっても静まりそうにない。
察しの良い方ならもうなんとなく予想がついたかもしれないが、この学校、「風紀的な目線」で観察した場合、それらの水準があまりにも低いのだ。
生徒の俺が言ってしまにはあまりにも悲しい話なのだが、簡単に言うと「生徒の質が悪い」のである。
もちろん、日々真面目に勉学や部活動に努めている学生だってちゃんといるし、むしろそっちの割合のほうが高い。
だが…一部の連中がこの学校の評判を大きく落とす原因の大半を占める戦犯となっていることは、その本人たちを除いて「周知の事実」であり、恐らく教師陣たちも「見て見ぬふり」をして足踏みをしてしまっている状態なのだ。
なんとかしたい、だがどうにもできない。
できるのなら最初からやっている。
これこそが、我が「月が平商工高等学校」の現状だ。
これに関して、俺は別に特別何かしたいとは思っていないし、そういった「よろしくない連中」とは基本的に住んでいる世界が異なる人種だと思っているため、彼らとは特に関わりを持つこともなく、とくに当たり障りのない平和な学校生活さえ過ごせればそれで満足だと考えている。
の、だが。
さんざん文句のようなことを語ってしまったが、「なんとかしたいがどうにもできない」というのは、学校だけの問題ではない。
全く同じ問題を、今この教室で頭を抱えながら課題テストを受けている俺も、また同様に抱え込んでいるのだった。
俺には一つだけ、看過できない重要な問題をこの学校で抱えている。
望んで抱えたわけではない。抱え込むことになってしまったのだ。
そして、今現在全くもって、その問題は解決する兆しを見せないのだから、もうお手上げ状態なのである。
「ふー、長かったけどようやく終わったなあ」
雄輔が腕をぐるぐるとけだるげに回しながら立ち上がった。
全ての科目のテストが終了し、あとは清掃をし帰りのホームルームを行った後に、放課となる。
「ああ、お疲れ雄輔……もう肩とかばっきばきだ」
なんともじじくさい会話だな、と俺は自嘲気味に笑った。
「でもお前は、この後またあの空気部だろ?」
「……そうだな」
空気部。
これが俺の所属している部活の名前……だ。
もちろん正式名称ではないし、大気の流れを観察して天気を予想するとか、そういった理科系の部活でもない。
だが、今のあの部活の現状を的確に表現するには「空気部」という名前が最も適当である。
そう、その「空気部」こそが、今の俺がこの学校で抱えている重大な問題であり足枷となっている。
俺が「当たり障りのない平和で無難な学生生活を送ることができない」理由こそが、この「空気部」なのである。
「さあてと、行くかな…」
ようやく帰りのホームルームも終了し放課となったのだが、俺はそのまま帰宅するわけにはいかず、その「空気部」へと参加しなければならない。
「亮、今から部活か」
俺と同様に鞄を持って立ち上がった雄輔は、何の部活にも所属していないが、「教科係」という担任の秘書のような係をクラス内で担当しており、何かと授業外などで担任の補佐役になることが多く忙しそうにしている。
「まあな」
「……なあ、今からでもあの部活、辞めたりできないのか?」
雄輔は怪訝そうな表情で俺に言った。
心配してくれているのだろう。
「辞めるとなると…それはそれでたぶんめんどくさいんだと思う」
「そうなのか?」
「ああ、どうもそうらしい」
俺はもう半ば諦めたように雄輔にそうこぼすと、軽く手を振って教室を出た。
「さあてと、行くかな……」
足取りは非常に重いが、すっかり部室へと足を運ぶことが習慣化してしまった俺は、だらだらと教室棟を商業科クラスがあるほうへと歩くのだった。
商業科のクラスを通り過ぎ、さらに奥へと進むと「商業棟」という建物へとたどり着く。
ここはいわゆる「商業科」の生徒たちが授業や部活などで使用する教室が多く配置されていて、商業系文化部の生徒たちは放課後ここで部活動を行うことになっている。
そして……俺の所属する「空気部」も、この商業棟にその拠点をもつ。
二年生になってから教室が三階から二階へ移動したため、商業棟二階にその部室を持つ我が空気部には若干足を運びやすくはなったのだが、そんなことは些細な問題ではない。
「はあ、ついちまったか」
俺が重い足取りでやってきたその部室。
その横開きの扉には、内側からA4用紙がセロハンテープで張り付けられている。
そこに記載された部活名は「ワープロ部」。
これこそが、我が空気部の正式名称である。
「よっ、と」
建て付けの悪い横開きのドアを思いっきり開くと、ガラガラガラ、と重たい音がした。
この部屋はいわゆる「コンピューター室」という部屋で、生徒1クラス分の人数が一人一台使えるほどのたくさんのパソコンが接地されている部屋だ。なので、それなりの広さがある部屋なのだが……その部屋にいるのは俺一人だけだ。
一番乗り…という言葉でも間違いない。
だが、この後誰かが来るわけでもない。俺はこの「空気部、ワープロ部」でただ一人の部員なのである。
「さて、今日もやるかな…」
俺は定位置としている右の一番奥にあるパソコンの席の横に鞄を置き、椅子に腰を下ろした。
パソコンの電源を入れると、HDDが回転を開始する独特の機械音が俺の周囲に鳴り響いた。
さて、ここで「ワープロ部」が何をする部活なのかという話をしておこう。
「ワープロ」という呼び方がもはや今では古風な呼び方なのだが、実際に本物の「ワープロ」を使用するわけではなく、使うのは現代のパソコンである。
そしてそのパソコンで何をするのかというと、「タイピングの技術」を身に着けるために日々鍛錬を行うことこそ、この「ワープロ部」の明確な活動理由である。
早い話が「タイピング部」ってところだな。
もちろんタイピング技術をただ身に着けるだけではなく、ほかの運動部の部活動と同じように「競技」が存在する。
競技名はシンプルに「ワープロ競技」という名称で、「どれほど正確に」「どれだけたくさんの文字を入力することができるか」を競うのが「ワープロ競技」であり、この競技で好成績を残すことこそ、このワープロ部の活動の最終的な目標となる。
ワープロ部は商業系の部活なので、俺は工業科にいながら商業系の部活動に所属をしている、この月が平商工の特色を最大限に活かした学校生活を送っていることに……
なる、と言いたいよなあ。
しかし、現実はそうは甘くはなかった。
さっきも似たような言い回しをしたが、ここまで聞くととてもいい部活に聞こえる。
だが、このワープロ部の現状を目の当たりにすると、そんな言葉だけで解決できるような状況ではない重大でかつすごくしょうもない現実に返されることとなる。
まず……このワープロ部。
俺が入部してから一年が経過した今、いまだに部員は俺ただ一名しか存在しない。
俺が入部をした時は…俺の二つ上の、当時三年生の先輩たちが6~7人くらいは在籍していたのだが、端的に言うと「その先輩たちがあまりにも酷すぎた」のだ。
新入部員勧誘のためのポスターには「県大会で優勝」「全国大会で入賞」などの輝かしい成果が大きく書かれていたのだが、なんとその成果を上げたのはその当時在籍していた俺の先輩たちによる成果ではなかったのである。
その輝かしい実績を残したのはその先輩たちの「さらに先輩」で、彼女たち(俺の先輩には女の先輩しかいなかった)が自ら成果を残したことは「二年間の活動で一度もなかった」のだ。すなわち、過去の栄光を餌に新入部員を獲得しようとしていたのだ。
このことがわかったのは入部してからかなり後になってからのことだったから、当時の俺の浅はかさときたらもう今では後悔することしかできない。
その先輩たちは、当時新入部員だった俺の目線から見ても、まったくやる気があるようには見えなかった。
そこにいた先輩たちは、さきほどの俺のクラスにも少し存在した、いわゆる「腫れ物」のような存在の人たちばかりで、見た目を輝かせることに全力を注いでいるような人たちばかりだった。
部室はただ仲間内でだらだらと駄弁るだけのスペースとして利用され、タイピングの練習をしているところなんて一度も見たことがない。
タイミングが悪いことに、その時の顧問はその年にやってきた新人教師だったらしく、その現状をまるで疑問視することなく、ろくに部室に足を運ぶこともないまま一年後の今年、異動した。
結果顧問もいなくなり、何もせず結果も残さない先輩たちは八月に引退(笑)し、俺はそのままこの部室に取り残されて現在に至る。
かつては強豪たちが集うかなり強い部活だったらしいが、今はまるでそうは見えず、遠目に見たらもはや部活をしているのかどうかすら、そこに存在しているのかどうかすら不明瞭な「空気部」となってしまった。
そして、「ワープロ競技」は、三人一組でチームを構成することが規定となっており、部員が一名しかいない我が部ではこの競技に参加をする資格すら与えられていない。
以上、この「空気部ワープロ部」が抱えている現状である。
「なんでこんなことになっちまったんだろうな」
俺はパソコンのディスプレイをぼーっと眺めながら、ぼーっと呟いた。
俺は夢を持ってこの部活に入部を決めた。
確かに「夢」だけはあった。
あまりにも悲惨だった中学生活にいた自分を変えたくて、部活探しをした。
三年間、部員みんなで力を合わせて乗り越えて。
辛くてもみんなで協力して。
みんなで勝って、みんなで笑えるような、そんな生活に俺は憧れていた。
しかし、その「夢」は。
「目標」へと変わる前に散ってしまったのだった。
入部から一年が経過した今、俺は独学ながらしっかりと「ワープロ部」らしい技術は身に着けた。
「タッチタイピング」と呼ばれる、キーボードを見ることなく指先の感覚だけでキーボードを素早く入力する技術のことだ。
(ブラインドタッチとも呼ばれるが、ブラインド(見えない、目隠し)という言葉が差別用語だという指摘がされたらしく、ここ数年で呼び方が見直されているらしい)
それ自体はすごくいいことなのだが、いいことずくめでもないのがこの環境だ。
それゆえに、授業中などにこの技術を披露する機会があると、周りのやつらの偏見の目はやはり絶えることはない。
キモいだのなんだの、冷やかしの言葉はもう耳が腐るほど浴びせられ、すっかり慣れてしまった。
心無い男どもは俺のような存在とはまともに話そうともしないからこっちからも会話したくない。(会話するにしてもそれらはすべて彼らからの一方的な冷やかしや脅しのようなものだけ)し、女子とは接点すらない。
先輩はみんな女だったし少しは会話したりもしたが、結局それは部活で完結するだけの会話で、それ以上はない。
最初から今までずっとこうだった。
俺の生活は、変わらない。
卒業まで、きっと変わらない。
だが。
人生何が起こるかわかったものではないということを、俺はこのあと身をもって知ることになる。
こんな、
夢も希望も将来も何もかもが真っ暗な闇に包まれた憂鬱タラタラなくそったれな生活が、
これから大激動を起こそうとしていることなど、
今部室でだらだらとパソコンとにらめっこしている俺は、まるで予想もしていなかった。