天津ダック
その街は乾いていた。乾いた上に恐ろしく冷え込んでいた。星の見えない冬の夜だ。
時折吹き過ぎる風は、1900年代初頭の租界時代から百年近くそこに建っている石造りの瀟洒な建物と、取って付けた様に真新しく整備されたアスファルトの道路の表面を嬲るように渦を巻く。湿り気一つ無い、冷たいだけの大陸の風だ。
そんな乾いた寒風は、しかし何処か懐かしい匂いを運ぶ。とっぷりと陽の暮れた夜の歩道。五年前に影も形も無かったネオンの光が照らす表通りを避けるように、路地を一本奥に入った歩道で、男はその匂いに赤くなった鼻をヒク付かせる。鼻腔にマイナス十五度の冬の空気が飛び込むと、男は途端に咳き込み始めた。一瞬で鼻腔を鼻汁が満たす。
寒さだけでは無かった。乾いた空気は細かい土埃を巻き上げる。今、天津の解放北路は一帯が開発の波に晒されている。北京オリンピックを三年後に控えた今、そこから南に百数十キロ離れた天津の街も変わろうとしていたのだ。
以前は、通りの左右の建物の一階にはギッシリと食べ物屋が入っていた。どの店も安っぽいアルミのサッシに薄い硝子板を嵌め込んだ店構えで、椅子の数は十脚ほど。そして、店を構えることのできない売り子達は、辺り構わず屋台を出していた。本当に賑やかな時は、真っ直ぐ歩くことも困難なほど屋台が出て、近くの労働者達が水餃子や羊肉の串焼き等を肴に安い酒を飲んでいたものだ。
そんな賑やかな通りだったが、一年の間に様変わりしていた。
男はまばらな街灯に照らされた道の両脇を見る。やけに赤いナトリウム灯の下では、敷き詰めて石畳とするためのタイルやセメントの袋を積み込んだ、日本では珍しいボンネットタイプの三輪トラックと、日本の何処かの工務店が倒産で手放したようなボロいパワーシャベルが停められている。
今の天津では、何処にでもある光景だった。あと半年もしない内にこの通りも、取って付けたような近代風の垢抜けて白っぽい、温もりの無い通りに生まれ変わるのだろう。そしてその通りでは、しぶとく屋台を再開しようとする人々と景観を重視する公安のイタチごっこが繰り広げられるのだろう。
男はコートの前を強く握るようにピッタリと合せると、そんな感慨と共に工事現場の横を行き過ぎる。男にとって天津は何度も訪れた街だが、昨年一年は商売が低調で脚を運ぶ機会が無かった。そのため、一年振りの訪問となるのだが、通い慣れた屋台街が姿を消してしまったことに落胆を覚えていた。
そんな男は、微かに鼻腔を擽った、ある匂いを求めて、更に通りを奥へ進む。そして、五分ほど歩き続けたところで、目の前、丁度通りがT字に交差する場所の突き当りに、懐かしい店の姿を見つけていた。
チカチカと明滅を続けるネオン管の看板。一部の字は簡体字が読めない男には分からない。しかし、男の視線はしっかりと「――天津焼鴨」という文字を捉えていた。
「はぁ、あった……」
ようやく発せられた男の声は、安堵と空腹を孕んでいた。
************************************************
元は透明なガラスだったのだろうが、古びて白っぽくなった硝子の引き戸。それがこの名前も分からない食堂の入口だ。男は引き戸を開けると中に入る。一瞬で、冷え切った体の表面を炙るような熱気が頬を撫でる。通りを歩いていた時から感じていた独特の匂い ――石炭ストーブの匂い―― が熱気と共に押し寄せる。
男は、着ていたコートを脱ぐと、それを丸めて適当な椅子の上に置く。そして、その隣の椅子に座る。店の奥では中年の女性が、少し高い場所に置かれたテレビから男の方へ珍しそうな視線を送ってくる。その様子に、男は一つ苦笑いを浮かべると、一度咳払いしてから店の女に声を掛ける。
「おばちゃん、ビーチューイーガー。それとピータントーフー」
発音もヘッタクレも無い。男は知っている中国語のほうが少ないのだ。しかし、それで困ったことは全くと言って良いほど無かった。また、言葉が通じなくて恥ずかしいと思ったことも無い。外国語を外国人が喋っているのだ、伝わらないほうが普通である。そう考えて居直っている節の有る男は、少し困惑した表情で店の女が持って来たビール瓶とコップを受け取る。当然、王冠が付いたままだ。
「王冠を開けてくれ」などという高度な中国語は知らないし、喋るつもりもない男は、手で王冠が邪魔で飲めないと派手な身振りをする。すると、店の女は可笑しそうに笑う。そして、カウンターの裏からステンレス製のスプーンを取り出すと、グッと指で押さえて梃子の原理でパチンと空けてしまった。薄緑色のビール瓶は大きく揺れるが、泡が立つことは無かった。
男は、ビール瓶を受け取ると硝子のコップに注ぐ。薄黄色い液体は僅かな泡しか立てない。グラスが汚れているのか、気が抜けているのか、中国のビールはそう言う仕様なのか、男には分からないが、それでいいと思っていた。そして、グラスに注がれた真冬のビールを半分飲み干して、薄切りにされた皮蛋がドッサリと豆腐の上に盛られた「皮蛋豆腐」の皿を受け取る。
日本人は皮蛋に馴染みが無い人が殆どだ。確かに見た目は悪い。その上作り方も、とても食べ物の製造方法とは思えないものだ。しかしアルカリ環境で長年寝かされた家鴨の卵は独特の濃厚な味わいを持っている。それを薄く切り、日本の絹豆腐のような四角い豆腐の上に盛りつけたのが「皮蛋豆腐」だ。店によって味付けは色々だが、男の記憶通り、この店の味付けは塩と味の素、それにごま油のみというシンプルなものだった。薬味のネギすら添えられていないこの食べ物の見た目は、白い豆腐の上に緑かかった黒い物体が乗っているだけだ。しかし、男は構わずにステンレス製のレンゲで豆腐と皮蛋を一緒に掬い口に放り込む。そして、ビールを一口。男の口の中に、まず硫黄めいた香りと共に何とも丸みと濃厚さを伴った食感と味が広がり、ついで豆腐とごま油のさっぱりとした感覚が通り過ぎる。
「……んっめぇ」
その味がどうであるか、人による、としか言えないが、男の感想はこうであった。そして、三度ほどそれを繰り返した男は何かを思い出したように店を見渡す。その様子に店の奥に引っ込んでいた女が近寄ってきた。丁度店の女が近くに来たとき、男は入口のガラス戸にペンキで書かれていた「焼鴨」という文字を見つけると、
「おばちゃん、ジェーガー、半分!」
と言う。皮蛋豆腐も良いが、男の目当てはこの「焼鴨」だった。この料理を男は「天津ダック」と呼んでいた。それが正しい名前なのかは分からないが、会社を辞めた先輩から教えられた料理だった。
************************************************
それは、銀色のステンレスの皿に乗せられて運ばれてきた。背骨の部分で縦に切られた半匹分のダックだ。表面は飴色に焼かれて光沢を持っている。しかし表面の質感は北京ダックの物よりも柔らかそうに見える。それをトンと男の前に於いた女は、そのあと、白ネギやキュウリ、甘味噌に餅皮が乗せられた皿を次々と男の前に運ぶ。そして、ひとしきり準備が出来たところで、素手の左手で半身のダックを掴むと右手に持った大きな牛刀で、たっぷりの身が付いた皮を削ぎ切りにして、器用に皿に並べるのだ。
この「焼鴨」が「北京ダック」と大きく違うのは、このたっぷりと鴨の肉が付いた皮の切り方だと、男は思っている。そんな男は、目の前に切られた皮つきの鴨肉を前に早速餅皮に手を伸ばす。この餅皮も北京ダックを出すような洒落た店の物とは違う。上品な薄皮ではない。もちっと分厚く、表面に焼き目がついている様はインド料理のナンのようにも見える。その餅皮の上に、削ぎ切りの鴨肉、ネギ、キュウリを乗せると、甘味噌をたっぷりと付ける。そして見栄えを気にする事も無く適当に包んで口に運ぶのだ。
それは、咬んだ瞬間外側の餅皮が石炭ストーブの匂いを発する。そして、直ぐにネギときゅうりのシャキリとした食感が前歯に当たり、直ぐに滋味あふれる焼鴨に到達する。香ばしい皮と独特のコクを持つ脂、そしてジックリと焼かれてこその肉の柔らかさが混然と一体化し口の中に広がるのだ。
日本を離れて千数百キロ、マイナス十五度の冬の夜、男は名前も知らない食堂で、言葉も通じない者が作った料理で幸せになる。そして、その手は休むことなく次へ、次へと動くのだ。しかし、男が「天津ダック」という料理はこれで終わりでは無かった。
いつの間にか、男の目の前から店の女の姿が消えている。彼女は、削ぎ切って骨ばかりとなったダックを持って一旦店の奥へ引っ込んでいた。そして、その様子を気付かないように見送った男は、やがて削ぎ切りにされた鴨肉を食べきると満腹に溜息を吐く。
男の様子を見計らったように、店の女は蓋付きの白い陶器の鉢を持って現れる。そして、満腹になった男の前にそれを置くと、おもむろに陶器製の蓋を開けた。温かい店内であっても、尚濃い湯気が上がる。そして湯気の下には、先程の焼鴨の骨と冬瓜が煮込まれた薄く白濁したスープがナミナミと揺れていた。
女は、残さず綺麗に平らげた男の様子に、何か一言を言うと、そのスープを碗に注いで男の前に置く。男は、それを両手で持つと一度だけ、フーっと息を吹きかけてから口先を伸ばすように啜るのだ。
作法として、中国ではとんでもなく下品なやり方だ。しかし、文句を言う者も、嘲るものも居ない食堂での出来事だ。店の女は、男がスープを飲み切るのを待っているように、その場を動かない。一方の男はそれを飲み切ると、トンと碗をテーブルに置き、
「あー」
とだけ言うのだった。
************************************************
改めて見るまでもなくボロい食堂。開発の波はアッと言う間にこの食堂を呑み込んで消し去るだろう。
そんな感慨と共に男はホテルへの帰路を歩く。振り返りたい気持ちはあるが、敢えて振り返ることは無かった。この日出会った味は、喩え同じ店が同じように残っていたとしても、二度と味わうことが出来ないものだ。美味い物に出会う。そしてそれを味わう。味わえば別れがくる。別れは再開への序章だが、往々にして永遠の別離になる。しかし、男の心には寂しさは無かった。良い人との別れが爽やかさで彩られるように、旨い食い物との別れは満腹感で彩られるのだから。
中華料理美味しいですよね。