第14話
足下に落ちた枝をぐっと握りしめると父親がまだ自分の帰りを待っている事を教えてくれているように思えてなりませんでした。
「ここで君と暮らせばきっと全てを忘れ楽しく暮らせるだろう。でも、私には待ってくれている気がしてらないんだ。それに例え誰も待っていなくても帰らなくてはいけない。そして自分の愚かさを背負い生きていかなければならないんだ。でも…君に心から惹かれていたのも事実だ、君が何者だったとしてもね。今まで本当にありがとう、君の幸せを心から願っているよ。」
男の目にもう迷いはありません。
そのまま女を通り過ぎただ前へと進みます。
男の目の前には樹々が長く枝を伸ばし蔦のように絡まるとトンネルのように森の出口へ続いています。
女は離れて行く男の背中を見つめながら溜息混じりにフッと笑うと湖の方へ向かいました。
辺りに立ち込める甘美な香りを纏い薄紫色の花に囲まれた湖の淵に立ちそっと覗きこむと美しい女の顔は次第にその姿を変え水面に恐ろしい悪魔が顔を見せました。
そして悪魔は大きく裂けた口を開くと女へ問いかけるのです。
「何故アノ男ヲ帰シタンダ?モウ少シダッタノニ。」
悪魔はニタニタと気味の悪い笑顔を浮かべながら続けます。
「ナアニ、イツモ通リニヤレバイイコトヲ。アイツハ美味ソウジャナイカ。」
女は聞こえてくる悪魔の低く嗄れた声に耳を塞ぎ唇をぎゅっと噛みしめると男の事を思い浮かべていました。
ーあの人は真面目でとても優しい人よー
「知ッテイルヨ、優シイ人間ハトテモ愚カダ。スグニ迷ウ、ダカラ美味イ。」
女は感情に任せて水面を手で大きく叩くと両手で顔を覆い声を殺しながら泣きました。
女の姿はいつの間にか水面に映っていた悪魔の姿と同じになっています。
悪魔はもうずっと昔から人に姿を変えこの森に入ってくる人間を惑わし魂を食べ生きており長い間独りでこの森に棲みとても孤独でした。
そして、やって来る人間達は皆、強欲で自分の事ばかり考えている人達でした。
しかし、男だけは違ったのです。
自分の危険を顧みず父親を想う心の美しさが悪魔には不思議でなりませんでした。
一緒に過ごしていた間も男は女の事ばかり気にかけ自分の事は何も言いませんでした。
悪魔は初めて見る誠実な人間に興味が湧きいつの間にか魂を取るつもりが自分の心を奪われていました。
そして初めて悪魔は願ったのです、男とずっと一緒に居たいと…