第13話
形を変えた影はひどく痩せ細り長く垂れた尻尾は時折バタバタと左右に揺れながら耳の辺りまで裂けた口を開け何処か笑っているかの様にも見えます。
男は女の異様な雰囲気に困惑しながらも必死に平静を装いましたが目の前にいる女にどうする事も出来ず、更には女の言う通りなのかも知れないと思い始めているのです。
そんな男の気持ちの僅かな揺れに勘付いた女はそれまで物々しく張りつめていた空気を溶かすかのようにいつもと同じ柔らかな微笑みを見せつけると男に向かってこう続けます。
「あなたの恋人、あなたが町を出てしばらくして他の人と結婚したそうよ。家族を亡くし信じていた恋人にも裏切られ、そんな所に戻っても辛いだけだわ。可哀想なあなたをただ見ているなんて出来ないの。私ならあなたを悲しませない、ずっと傍に寄り添って支えるわ。それにあなたはバイオリン作りの素晴らしい才能を持っている、あなたの作るバイオリンの調べを毎日聴きながら私は洗いたてのシーツを外に広げ、それが終わるとあなたの好きなとっておきのスープを作るの、ねぇ素敵でしょう?」
語り掛ける女の声はとても穏やかで優しくそれでいて心を惹きつける力強さも持つオペラのベルカントのように男の心に入り込んでいきます。
(全てを失くしたんだ、このまま彼女と暮らした方が幸せなのかも知れない。彼女はこんなにも想ってくれている、それに自分を認め必要としてくれているじゃないか…)
影が怪しく手招きしながら男をこちらへと呼んでいます。
男は一歩、また一歩と女の方へ近づいていきました。
そうして女の手に触れようとした時、突然男の頭上にバサッと何か落ちたかと思うと今度は咄嗟に振り払う男の手に棘のようなものが刺さりました。
ふと上を見上げると男の背後には大きく真っ直ぐに伸びた唐檜の樹があり枝には無数に付けた針葉を尖らせています。
男は不自然に折れた唐檜の枝を暫く眺めると何か考え女の目をしっかりと見つめるのでした。