第11話
夜の森はとても静かで虫達の澄んだ羽音がまるで耳元で鳴っているかの様です。
時折吹く風は樹々の葉と共に音を立て自分の存在を示しています。
男はふと空を見上げ十三夜の月の明るさを知ると持っていた外灯を消し青白く映る森の美しさに魅せられていました。
不思議と男に恐怖心は無く茂みの中へと入って行くとぶわっと一瞬風が舞い思わず顔を横へ背けると微かな水面の波打つ音に混ざりながら水の匂いがする事に気が付きました。
腰ほどまである草を夢中でかき分け覗き込むとそこには月明かりに揺れる水面がキラキラと光る湖があります。
ー昼間見た光の正体はこれだったのかー
男はこの幻想的な光景を前に鼓動が早まりただただ圧倒されその場で立ち尽くしてしまいました。
薄暗い森の奥深く、静寂が男の五感をこの上なく働かせ目や耳、鼻だけでなく肌に触れる空気ですらこの場所が特別な所である事を知らせています。
「こんな素晴らしい所があるなんて思いもしなかった。彼女もこの場所を知っているのか?次は一緒にこの景色を見に訪れたいものだが約束を破り森の奥へ来てしまった私を許してくれるだろうか…」
男は今になり女との約束を破った事を後悔していました。
ー彼女を悲しませてはいけないー
早く家へ帰ろうと引き返しはじめると足下に咲く一輪の花に気が付きました。
その花は細く真っ直ぐ伸びた茎と百合のように大きな薄紫色の花弁を付け妖艶な姿をしています。
男はその花を見ているうちに頭に小さく、でも規則的に起こる痛みを感じました。
「この花…どこかで聞いた事があるような…」
何かが引っかかりでもそれが一体何なのかわからず頭の痛みは増すばかりです。
男はその花にスッと手を伸ばし手折ると顔へ近付け香りを嗅ぐと急に目の前がぐらっと大きく揺れ頭の中はグルグル回り立っている事もままならず男は頭を抱えながら地面へ座りこんでしまいました。
しばらくして強烈なめまいが治り目を開くと茂みの中はそれまで見ていた葉だけが固く長く伸び掻き分ける度に指が切れた草では無く男が手にしていた薄紫色の花が湖を囲むようにして一面に咲いているのでした。