49話 戦闘開始 〖挿絵アリ〗
水しぶきを上げながら、ニーズヘッグは尾だけを水面から出し、激しく海面を叩いた。いつの間にか、汐音の歌が止んでいる。
「汐音!」
浜辺まで降りたルージュは、右手に魔力を集め氷の太刀へと変化させた。
海の中でのたうち回るように暴れるニーズヘッグの影と、それを押さえようとする水の一族の影が見える。カンファーが両手から蔓を放つと、海中のニーズヘッグに絡みつかせた。
「引き揚げます! 戦闘の準備を!」
言うと同時に蔓が収縮し、ニーズヘッグの影はどんどん手繰り寄せられ、砂浜へと引きずり上げられた。まるで酩酊状態のように、フラフラとおぼつかない足取りのニーズヘッグは、地響きを上げて倒れ込む。それでも威嚇するように大きく口を開け、鋭い牙を見せた。
縛り上げられ、汐音の歌の効果で動きが鈍いにもかかわらず、ニーズヘッグの咆哮はその場にいた者達を圧倒した。横たわっていてもその体の大きさはよくわかる。太い前足で人ひとりを踏みつぶすなど、造作もないことだろう。
「レオ、美兎、最前線を頼む。ニーズヘッグの注意を引いてくれ」
「了解っす!」
ルージュの指示に従い、レオパルドと美兎がニーズヘッグの前に躍り出た。レオパルドが助走を付け、半身をひねりながら大剣をニーズヘッグの目に振り下ろす。ギロリと動いたニーズヘッグの目玉がレオパルドの姿を認識すると、頭を振って、レオパルドを弾き飛ばした。押さえつけていたはずの蔓が、何本かブツブツと切れる。
攻撃されたことに腹を立てたニーズヘッグは、興奮したように、横たわりながらも体をよじり、目を大きく見開いて再び吠えた。
意識はレオパルドに集中している。
その隙を見逃さなかった美兎の矢が、その見開かれたニーズヘッグの片目に命中した。
咆哮とは違う、悲鳴のような金切り声が海辺に響き渡る。
間髪入れず海面から水の一族が、薄い刃物のように研ぎ澄まされた水の手裏剣を、八方から放った。が、その中には汐音の姿だけでなく、氷鯉と雫の姿も見当たらない。
ルージュはその様子を見守りつつ、膝が浸かるほど海の中に入り汐音達の姿を探し始めた。
「汐音!」
歌が止んでいることに不安を覚えたルージュは、さらに深く海に入ろうと波を蹴り上げながら前に進む。
「参謀長!」
ルージュの目先の海面から、雫が顔を出した。
「雫! 汐音と氷鯉は?」
「今、上がってきます」
雫は肩で息をしながら、青白い顔で短く答えた。
海中で戦ったのだろう、着物が破れ、腕から血が出ているのが見える。
それからほんの少しの間をあけて、やや離れた場所に氷鯉が汐音の肩を抱きながら浮上した。
その少しの間がルージュにはひどく長く感じられ、氷鯉の姿を確認すると胸をなで下ろした。氷鯉と汐音が近くの船に引き上げられ、乗っている森の一族が一斉に回復魔法を唱えたので、船全体が緑色に光る。
「汐音が歌いだした途端、ニーズヘッグがこちらに突進してきました。そこで汐音を庇いながら戦闘になり……。ニーズヘッグは水属性で思うように歌が効かず、汐音も負傷したうえ魔力切れを起こしてしまって」
まだ呼吸の整わない雫に肩を貸しながら、ルージュは海から上がる。泣きそうな顔をしたマルベリーが駆け寄ると、目を閉じて魔法の詠唱を始めた。
「汐音の歌と、ユグドラシルの聖なる気が効いているようだ、動きが鈍い」
ニーズヘッグと交戦中のレオパルド達に目を向けてルージュが呟いた。回復魔法を受けた雫は、人心地ついたようで、ふうっと長く息を吐き出す。
「マルベリー、自分自身にも魔力回復魔法は欠かさず常にかけておいてくれ。回復役は全員で戦闘に参加せず、交代して休みながら魔力を使うように、皆に伝えてくれるか」
「はい! 伝えてきます」
マルベリーは小さな体をめいっぱい動かし、戦闘の前線へと戻っていく。海に目を戻すと、氷鯉たちを乗せた船が浅瀬で停泊し、そこから氷鯉の肩を借りて汐音がこちらに向かってくるのが見えた。
「ルージュさんごめん、寝なかった」
白い顔の汐音が、自嘲気味にははっと笑う。
回復魔法を施されても、追い付かない程の疲労が見て取れた。
「あそこまで弱らせれば上出来だ。傷は痛むか?」
「大丈夫、魔法で癒えたから……でも魔力がカラッポなんだ、ちょっと無茶しちゃった」
「汐音はよう頑張りんした。お前の歌が無かったら、ニーズヘッグを陸に上げるなど、到底無理な話でござんした」
弱った弟を砂浜に座らせると、氷鯉は辛そうな目で見守る。
「汐音はしばらくここで休め。マルベリーを呼んでくる。魔法の効果が絶えないようにしよう。氷鯉、雫、ここは任せた」
「はい」
マルベリーの元へ駆けながら、ルージュはどこか心がざわつくのを感じていた。
ここまでは順調だ。
このまま魔力を温存しながらニーズヘッグを倒せれば、そこにファロが現れたとしてもなんとか対応できる。
しかし――
ニーズヘッグが倒されるまで、大人しく待つとは考えにくい。
「マルベリー、すまない、汐音の元へ行って回復魔法を絶えずかけ続けてくれるか。交代要員でもう一人連れて行って構わないから」
マルベリーは頷くと、すぐに隣にいたマルベリーよりも幼い女の子の手を取った。
「任せてください!」
戦場には似つかわしくない、幼い少女二人に見えるが、そうは言ってもルージュよりもずっと年上のはずだ。
「ああ、頼んだ」
二人は手をつないだまま、汐音達の元へ走っていく。
片目に矢を刺したまま、荒れ狂ったように尾を地面に叩きつけ暴れるニーズヘッグは、先程よりも明らかに力が戻っているようだった。
「汐音の歌の効力が切れたか」
軽く舌打ちをしたルージュが、太刀を片手にニーズヘッグの元へ走り出そうとした瞬間だった。
突然、景色がゆらゆらと揺れ、スッと切れ目が入る。
それは夜霧が空間を移動するときに起こる現象だったが、なぜここにと、ルージュは太刀を構えて何が出てくるのかと固唾をのんだ。
「きゃっ」
短い悲鳴を上げ、その切れ目から飛び出してきたのはレンと香澄だった。突き飛ばされたようで、夜霧の右腕だけが一瞬見えたが、すぐにそれは引っ込んでしまい、結局夜霧はこちらには出てこないまま、空間の切れ目が消えて行く。
「レン! 香澄!」
驚いたルージュが、砂浜に倒れ込んだ二人に駆け寄る。
「ルー! コテージにファロが……」
「私たちだけを逃がして、夜霧さんが足止めするために残ったんです」
「なぜ遠くに逃げなかった!」
レンが首を横に振る。
「結界が……。夜霧の空間移動が使えないように、この島には結界が張られていたの」
「結界? だってそれは、森の一族が消したし、香澄を迎えにも行けたじゃないか。……まさか、新しい結界が張り直されたって事か?」
「うん、闇の結界は目くらましだった。宮殿へ行った後、新しい結界が発動されていたなんて!」
両手をついたレンが悔しそうにこぶしを握ると、砂浜にレンの爪痕が残った。
「夜霧が足止めしているうちに、ニーズヘッグを倒そう。レン、お前も戦えるか?」
「もちろん」
「香澄の力は、ファロと戦うまで温存しておきたい。今は周囲の警戒を頼む」
「はい」
ニーズヘッグへ向かって走り出すルージュは、横に並ぶレンの手を取る。
「俺から絶対離れるな。必ず守る」
「うん。死んでも離れない」
レンがルージュの手を握り返す。口には出さなかったが、レンもルージュを守りたいと願っていた。
「レオ、美兎、離れて!」
カンファーが縛り付けていた、最後の一本の蔓を引きちぎったニーズヘッグは、ゆっくりと立ち上がり体制を整えた。その前にレンは立ちはだかると、両手をつき出す。辺りを熱風が包み込み、レンの周りに黒炎が渦巻いた。その炎はまるで黒い龍のように飛び、ニーズヘッグに絡みつく。
激しく燃え上がる黒い炎は、硬い鱗も焦がした。
「すげぇ威力っすね」
一気に上昇した温度に、レオパルドが額に浮いた汗を拭う。ルージュは大太刀を構えると、眉間にしわを寄せた。
「ああ。だけど、注意を引き過ぎる」
ニーズヘッグは残った片目を見開くと、ゆっくりとレンに顔を向ける。ギラギラと黄色い眼で睨みつけ、炎で焼かれたまま、今にもレンに飛びかかりそうだ。そのニーズヘッグに向かって、ルージュは砂を巻き上げながら駆け寄ると、首元めがけ黒い炎ごと大太刀を下から上へと振り切った。
肉を絶つ鈍い音がしたが、骨までは届かない。
「くっそ」
後ろに飛んで再び距離をとったルージュは、右手に握る太刀を見て驚き、息をのんだ。
大太刀が、黒い炎に包まれている。
太刀が焼かれてしまったのかと慌てたが、そういう訳でもなさそうだった。
剣を通して、大きな力が湧くのを感じる。
「レンの黒炎が、太刀に宿った……?」
柄を両手で握り直すと、今度は前脚を狙い、再び斬りかかる。
それが見事に命中し、脚を失いバランスを崩したニーズヘッグは前のめりに倒れ込んだ。
そこに追い打ちをかけるように、魔法攻撃が降り注ぐ。
ルージュが振り返ると、レン自身も驚いたように太刀を見つめていた。目が合うと、笑顔でうなずく。
「さっさとニーズヘッグを倒して夜霧に加勢しよう」
「ルージュさん、上から何か来ます!」
もう一度と、太刀を構えたルージュに向かって、香澄が叫んだ。
その声に素早く反応し、レンの元へ駆けよると空を見上げる。
「ファロ……!」
大きな黒い鳥の形をした霧に乗り、あざ笑うかのようにファロが頭上を旋回した。
空に向かって放たれる攻撃魔法を、軽々とはじき返す。
「すまない、逃がした」
空間を通り抜け追い付いた夜霧が、口元に滲む血を拭った。
「いや、ニーズヘッグがもう少しで倒せる。時間稼ぎには充分だった」
不敵な笑みを浮かべながら、ファロがゆっくりとニーズヘッグの前に降り立つ。
着地すると同時に、黒い霧の鳥はファロの中へと吸い込まれていった。
面影が残っているとはいえ、初めて見るその姿に、レンは得体の知れない恐怖を覚えた。
黒い法衣をまとい、手には刃まで黒い剣を握っている。
浜辺に立つその姿は禍々しく、赤黒い髪はまるで血の色だ。
夜霧との戦闘で多少のダメージは受けたようだったが、それはどれもかすり傷程度だ。
レオパルドは斬りかかることも出来る距離にいたが、長い前髪からのぞく鋭い眼光に圧倒され、易々と近づけない。
瞳の奥に、狂気と執念のどす黒い炎が燃えていた。
「ニーズヘッグがこの有様か。なかなかやるじゃないか」
口角を上げ、ファロがニヤリと笑った。




