20話 触れた傷跡
レンは夢を見ていた。
暗い海の底へと沈む夢。
ゴボゴボと吐き出す息が気泡になって、水面へ向かって上がっていく。自分を助けようと、水の中に飛び込んだ人影が見えた。差し出された手に、必死にレンも手を伸ばす。息が苦しくて、ひたすらもがいた。 伸ばした手にやっと届いて引き上げられる。
――――これは、誰の手?
「ッ……!」
目を覚ましても、まだ水の中かと思うほど呼吸が苦しかった。手は、夢の中と同じように、むなしく天井に向かって伸ばされている。
「夢……」
レンはゆっくりと首だけを動かして、自分がどこにいるのかを確認する。部屋にはまん丸い窓が一つあるが、カーテンではなく、障子がはめ込まれていた。木目の天井も、宮殿に比べると随分低い。鶯色の土壁に、床は濃い茶色のフローリング。
畳がないけど、煌牙の住まいに少し似ているな。と、考えたレンは、そこでハッとする。
「そうだ私、意識を失う前に氷鯉の姿を見たんだ」
連れ去られたのだろうか? だけど、ここは牢獄ではない。ベッドから起き上がり、外の様子を見ようと丸い窓に手を伸ばす。障子に触れた瞬間、バチッと弾かれたような痛みが指に伝わった。
「いったッ」
痛みに思わず手のひらをブンブンと振った。
それと同時に自分の着ているものが視界に入り、あれっと動きを止める。いつものチャコールグレーに黒いネクタイの軍服ワンピースではなく、黄色味のかかった生成の生地に、大きな赤い金魚の模様の入った浴衣を着ていることに、そこで初めて気がついた。こんな時でなかったら、憧れの和装にはしゃいぎたいところだが、一体誰が着替えさせたのだろうと首をかしげる。
「うわ、浴衣似合うね。お人形さんみたい」
突然開いた扉に、レンはとっさに身構える。
眼帯に浅葱色の髪をした少年が、レンの姿を眺めて感心するようにうなずくと、遠慮もなくつかつかと歩み寄った。
「ちょっと、あんた誰よ? こっち来ないで」
手をかざし、威嚇するように小さな炎を出そうと指先に魔力を込めた。
「……あれ?」
うまく力が入らない。小さな炎どころか、煙すらもあがらなかった。
「あーごめんね。この部屋、炎除けの魔法陣書いたからさ、炎の能力は使えないよ。てゆーか、お姫様のくせに口悪くない? 見た目は可愛いのにもったいない」
汐音は手にしていた急須の乗った盆を、ベッド横のナイトテーブルへ置く。
「緑茶は好き? 冷たい飲み物の方がよかった?」
「待ってよ、あんたホントに誰? も、もしかして着替えさせたのって……」
両手で頬を押さえて、レンは「うそでしょ」と首を振る。そんな様子を冷ややかに見た汐音が、ふん。と鼻で笑った。
「風呂に入れて着替えさせたのは姉さんだよ。姫がお望みとあらば、僕が手伝ってあげてもいいけどさ」
「子供が生意気言わないでよ。姉さんって誰? あ! もしかして、氷鯉? 煌牙はどこにいるの?」
「子供って……年なんてキミとそんなに変わらないでしょ。しかも質問攻めだし」
やれやれと、汐音が大げさに両方の手のひらを上に向け、肩をすくめた。
「そう。氷鯉は姉だよ。煌牙様は……んー。どこから説明しようかな。まあ、後で本人と会った方が早いか。キミはしばらくここにいてもらうよ。試したかもしれないけど、この部屋からは出られないからね」
窓や扉を指さして、汐音が勝ち誇ったような顔で言うので、レンも負けじと、余裕ぶった表情を作る。
「全然平気、宮殿に戻れなくたって。ちょうどよかった。私、煌牙を助けたかったし」
その言葉に、汐音が小馬鹿にしたように意地悪く笑った。
「わかってないなぁ。助けられたのは、キミの方だよ? それに、今の煌牙様は闇の力で生きていられるようなものだからね。下手に闇を攻撃したりしないでよね」
「闇の力で? どういうこと? 煌牙は無事なんでしょうね」
レンが人差し指を突き立てるように、汐音に詰め寄った。
先ほどからの高圧的な態度にいい加減頭に来た汐音は、目に怒りの色を浮かべ、思い切りレンを突き飛ばす。レンは思いがけない衝撃に、後ろにあったベッドに仰向けに倒れこんだ。
「痛い! なにすん……」
言い終わらないうちに、自分の上にのしかかってきた汐音にぎょっとして、レンは固まった。
「いいよねぇ。皆に大事にされて、愛されてさ。宮殿で何一つ不自由なく暮らしていたんだろ? 辛い思いなんか、した事もないんだろうね。その上、煌牙様からも好意を寄せられてるなんて、ちょっと恵まれすぎてない?」
浅葱色の前髪が、レンの顔にかかるほどの近い距離で、汐音の敵意をひしひしと感じる。子供だと思っていたけれど、近くで見れば骨格はやはり男で、力では敵いそうもない。
「せめて煌牙様は、姉さんに譲ってちょうだいよ。……ああ、今ここでキミの事を汚しちゃえば、煌牙様の興味はキミから逸れるのかな?」
ニヤリと笑ったけれど、どこか寂し気な汐音の右目を、レンはじっと見つめ返す。その瞳の奥に、やり場のない怒りや、悲しみの感情が見えた気がした。同時に、なぜか汐音のこの痛みを受け止めなければ、この子は壊れてしまうのではないかという思いがこみ上げる。
「いいよ、好きにすれば。それであんたの気が晴れるなら」
思わず出た言葉に、レン自身も驚いた。
自分を安売りする気は全くない。だけど、とにかくここで逃げてはいけないような気がした。
「はぁ? この状況で本気で言ってんの? 温室育ちはこれだから困っちゃうよな。本当にヤッちゃうよ」
ぐっと浴衣の襟をつかまれても、レンは汐音から目を逸らさなかった。汐音の方が、なぜか泣きそうな顔をしている。
「馬鹿なことは、やめなんし」
「うわっ、姉さんいつからいたんだよ!」
氷鯉に頭を叩かれて、レンの体から飛びのくように離れた汐音が、頭をさする。
「ほんに馬鹿な子。あんたが手籠めにしたって、煌牙様は姫様を見限ったりしんせんよ。それに、そんな薄情な方なら、こっちから願い下げでありんす」
ベッドの上にちょこんと座った汐音は、しゅんとうなだれる。それでも、止めてもらえてどこかホッとしたような表情を見せた。
「姫様、こんな時は大きな声で助けを呼んでくんなまし。汐音が本気でなかったから良かったようなものの……馬鹿な男のために、痛い思いをする事なんてないでありんしょう」
起き上がったレンを包み込むように、氷鯉がよしよしと抱きしめ背中をさする。氷鯉からはまるで、小さな花束でも抱えているような、優雅な香りがした。
「ほら、汐音。ちゃんと姫様に謝りなんし。脅しだとしても、あんた最低だよ」
「……ごめんなさい」
ベッドの上で正座した汐音が、レンに向かって頭を下げる。
あまりに目まぐるしく変わる展開に、レンはぽかんと汐音を見つめた。頭を下げながら、チラッと上目使いでレンの様子をうかがう汐音に、思わずレンが吹き出す。
「いいよ。本気じゃないだろうと思ったし。ちょっと怖かったけどさ」
顔を真っ赤にさせてうつむいた汐音が、もう一度「ごめん」と口にした。何だか憎めない汐音の、伏せている頭を撫でたい衝動に駆られたが、また怒らせそうなのでやめることにする。ふと廊下から視線を感じ、そちらに顔を向けたレンは目を見開いた。
「煌牙!」
「何だ。騒々しい」
氷鯉の腕をすり抜けベッドから飛び降りると、廊下で欠伸をする夜霧に向かって勢いよく駆け出した。驚いた夜霧が、手を伸ばして扉の手前でレンの頭を押さえて止める。レンは「ぎゃっ」と変な声を出し、おでこのあたりを押さえながらうずくまった。
「痛いよ煌牙。何するの?」
「この部屋から出られぬとは聞かなかったか? あの勢いで部屋から飛び出せば、結界に弾かれてそんな痛みでは済まぬぞ」
レンは、呆れ顔の夜霧を見上げて、不思議そうに首を傾げた。
「誰……?」
夜霧を見つめたまま、レンがつぶやく。氷鯉のため息が聞こえた。
「それは、体は煌牙様なれど、中身は闇でありんす。今は闇と煌牙様が互いを補い合っている状態。夜霧と呼んでやってくんなし」
昼寝でもしていたのだろうか。眠そうな目をした夜霧は、首をかしげると頭を掻く。
「氷鯉、喉が渇いた。……生身の体は不便じゃの」
「お茶くらい、自分で淹れてくんなまし」
不満そうに頬を膨らませ「まったくもう」とブツブツ言いながらも、氷鯉は茶を淹れるために、台所のある一階へと向かう。夜霧は伸びをしながら、その後を付いて行った。
「何か、変な感じ。氷鯉の後を煌牙が付いて行ってる」
「だから、煌牙様じゃなくて、夜霧だってば」
汐音はベッドから降りると、急須に手を伸ばして湯呑に茶を注いだ。
「ごめん、冷めちゃった。淹れ直そうか?」
「ううん。そのままでいいよ。私も喉が渇いてたから、ちょうどいい」
湯呑を受け取ったレンは、ベッドの上でそれをゴクゴクと飲み干す。汐音は、ベッドの横にある丸椅子に腰かけた。
「僕、キミが羨ましかったんだ。だって、全部持っていそうだから」
突然、汐音がぽつりとつぶやく。
「誰からも愛されて、優雅な暮らしをして、希少な能力の持ち主で……。大切に守られて生きてる。僕とはエライ違いだ」
声のトーンに、嫌味や妬みなど感じられない。
レンはうつむく汐音の顔を覗き込んだ。目が合うと、顔を赤くした汐音は口をへの字に曲げて、ふいっと目を逸らす。
「ごめん。僕がキミが持ってるものを持っていないのは、完全に自業自得なんだ。だから、今までのは全部、八つ当たり」
顔はそっぽを向いたまま、汐音がため息まじりにそう言った。
「ねえ、質問してもいい?」
遠慮がちに尋ねたレンに、汐音がそっけなく「どうぞ」と答える。
「汐音は騎士団には入ってないよね? どこで煌牙と知り合ったの?」
汐音は少し考え事をするように、部屋の天井を難しい顔で見上げた。
「まぁ……キミになら話してもいいか。さっき怖がらせたお詫びもかねて」
「話しにくいことなら、無理に話さなくてもいいよ」
申し訳なさそうなレンを見つめて汐音は小さく笑うと、淡々と話し始める。
「そんな勿体ぶるほどの話でもないけどさ。僕ね、小さい頃一人で海に潜って遊ぶのが好きだったんだよね。水の一族は水中でも呼吸できるのは知ってる? 海の中ってさ、意外と明るくて真っ青で、本当に綺麗なんだよ」
汐音の話にうなずきながら、先ほど見た海底に沈む夢を思い出す。
そして表情から察するに、この後続くのはきっと辛い話なのだろうと、レンは静かに汐音を見守った。




