第6話 青年よ、野望を抱け
あたたかくて、やわらかいものが、ずっと俺の顔に密着している。
――エレナの胸だな。
目をつぶったままで、俺はそう思った。
俺は何を言うでもなく、その大きくはない胸の柔らかみの中に、顔を埋める。
「エレナ――」
呼びかけながら、目を開ける。
当然エレナの顔があるだろうと思って頭を上げると、そこにあったのは――
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「か、母ちゃん!?!?!?!?!?」
俺は、眠りの底から一気に跳ね起きた。
息が上がっている。
――最悪の寝覚めだ。
悪夢を振り払うように首をブンブンと振ってみる。
それから、何の気なしに天井を見上げた。
ところが、そこにあるのは、見知らぬ天井。
まだ寝ぼけているのかと、目をこすってからもう一度見上げてみるが、やはり俺の目に狂いはない。
……ここはどこだ?
『松屋』の二階の、俺の寝室ではないのか?
そう思いかけて、自分のむき出しの上半身に包帯が幾重にも巻かれていることに気付いた。
その瞬間、梅干しまみれで死んでから、騎士長に負けるまでの記憶が鮮明に蘇る。
布団の横には、着ていたシャツと、『松』の字がでかでかと縫い付けられたエプロンが、きれいに畳んで置いてある。
戦いの中で相当汚したはずだが、洗濯してくれたようで、どこにも汚れは残っていない。
そうだ。
ここはエレナの家だ。
気を失った後のことはよく憶えていないが、恐らくそうだろう。
コンコンと、誰かがドアをノックした。
「入ってもいいでしょうか?」
――間違いない。
エレナの声だ。
断じて、母兼『松屋』専務の声ではない。
俺は、ああ、とだけ答える。
ドアが軋みながら開いた。
「よかった。お目覚めになったんですね」
エプロン姿のエレナが入ってくる。
「すまない、心配かけたな。
……手当てもお前がしてくれたのか?」
「私ではありません。
ツナグさんが気を失ったあと、騎士団の方々が治療してくださったんです」
「騎士団が、俺のような得体の知れない人間の治療をしてくれたのか?」
「はい。ルフォン様のご命令で」
「……ルフォンって、誰だ?」
俺が尋ねるのを聞いて、エレナはあっ、という顔をした。
「……そう言えばツナグさん、気絶なさっていたんでした。
騎士長様の本名、ルフォン様、と言うんだそうです」
ルフォン騎士長、か。
今思い出しても、べらぼうに強かった。
それにしても、あの杓子定規が、奴の弁を借りるなら、『王国の脅威』である俺を治療するよう命じたと言うのか?
一度は殺そうとした相手を救うとは、随分な気の変わりようだ。
俺は、ふと、まだエレナに助けてもらった礼を言っていないことを思い出した。
「そういえば、あのとき助けてくれて……あ、ありがとな」
なんだか照れ臭くて、まともに目を見て言えなかった。
抱きしめられたときに感じた、エレナのぬくもりと柔らかさが思い出されて、つい赤面してしまう。
「そのことなら……もう忘れてください……」
エレナも顔を赤らめる。
ああ、もう!
小っ恥ずかしくてやってられん!
「そ、それじゃあ、お食事を持ってきますね。
眠り通しで、お腹が空いてらっしゃるでしょう?」
エレナは、きまりが悪いのをごまかすように、部屋から出て行った。
そう言えば、この世界の食文化はどうなっているのだろうか?
漬物屋としては、是が非でも米食であってほしいのだが。
エレナの服装を見るに、縫製技術は中世ヨーロッパ並みのようだ。
家の造りからして、建築技術もその程度の水準だろう。
食文化も、そのくらい発展しているといいのだが。
「お待たせしました」
エレナがお盆を俺の前に差し出す。
盆に乗っていたのは、クロワッサンのようなパンと、色とりどりの野菜を具材としたスープ。
俺の漬物屋的勘によると、どうにも嫌な予感がする。
「このセカ……じゃなくて、この国ではこれが普通の食事なのか?」
「ええ、まあ、そうですね。
1日3食、パンとスープは欠かせません」
グッ……。
そうか、やはりパン食か……。
「米は食べないのか?」
俺は一抹の期待を込めて尋ねた。
「そうですね、今はもう食べられません」
今は?
……これは、もしかすると希望が持てるかもしれない。
「と言うと、昔は食べていたのか?」
「はい。ウェゲニアでは栽培できないので、他国から輸入していたのです。
ですが、ナヴァルディアやロズネルが侵略に乗り出して以来、交易路が絶たれてしまったので……」
――勝った。
今は手に入らないとしても、この国にはかつて米食、という文化が存在していたのだ。
米あるところ、漬物あり。
米さえ再び流通させれば、この国でも……。
それにしても、侵略、というのは聞き捨てならない単語である。
「物騒な話だな。
ウェゲニアは大丈夫なのか?」
「はい。
この辺りで一番の強国ですので、今の所は安全です」
「なら、ウェゲニアは侵略戦争はやってないのか?」
それだけの強国なら、勢力圏を広げようとしても何ら不思議はない。
「そんなことはしません!」
エレナが少しだけ力を込めて言った。
「す、すまん……」
彼女は、なかなかの愛国者のようだ。
とりあえず謝っておいたほうが得策だろう。
「ウェゲニアは周辺諸国の安定を最優先にしています。
ですから、侵略戦争なんか、断じてしません」
俺は、そうか、と呟きながらスープに口をつける。
具材はニンジン(らしき野菜)、大根(らしき野菜)、キャベツ(らしき野菜)などだ。
フーフーやって冷ましてから、一口飲んで、思った。
……味が薄い。
かろうじて野菜のだしが出ているが、それだけだ。
なるべく表情に出さないように、そっとスープの器を下ろしたのだが、エレナに勘付かれてしまった。
「……味、お口に合いませんか?」
エレナは、大きなブルーの瞳を、少しだけ潤ませている。
……悪いことをしてしまった。
「いや、美味しくないわけじゃないんだが、俺の故郷の料理と比べると味が薄くてな」
「……すみません。
最近、シオが手に入らなくて……」
シオ、とは塩のことだろうか?
「シオってのは、あのしょっぱい塩か?」
「はい。
ウェゲニアでは唯一ソドムという村だけで作られているのですが、半年ほど前から市中に出回らなくなってしまったんです」
どうやら、この世界にも塩は存在しているらしい。
塩は漬物づくりのマストアイテム。
逆に言えば、塩と具材さえあれば、なんとでもなるのが漬物だ。
しかしながら、エレナは漬物を知らなかった。
ひょっとすると、この世界では、塩の持つ保存料としての性質は発見されていないのかもしれない。
「塩は調味料としてしか使わないのか?」
尋ねてみると、エレナの顔にクエスチョンマークが浮かんだ。
「どういう意味でしょう?
塩はただのしょっぱい調味料ではないのですか?」
……やはりそうか。
とすると、俺の漬物に関する知識には、もしかしたらこの世界を変えるほどの価値があるのかもしれない。
「知らないのか?
塩には食べ物を長持ちさせる効果があるんだが」
俺は、あえて当たり前のことのように言ってみる。
無論、俺にとっては当たり前のことだが、エレナにとっては世紀の大発見かもしれないのだ。
どうだ、驚いたか!と内心でドヤ顔を決める。
しかし、俺の期待に反し、エレナはいつまでたってもキョトンとしたままだ。
「……食べ物を、長持ち……?」
顎に手をあてて、俺の言葉を必死に飲み込もうとしている。
どうやら、理解が追いついていないらしい。
しばらくの沈黙ののち、エレナは瞳をまん丸に見開いて、唸った。
「ええっ!?
塩にそんな効果があったんですか!?」
驚きの声を上げたかと思うと、ものすごいスピードで俺の傍に這い寄ってきて、鼻と鼻がくっつくほどに顔を近づけてくる。
「それ、本当ですか!?」
「あ、ああ。事実だ」
俺は、両手を上げて、後ずさりしながら答える。
「大発見です!
ツナグさんの故郷は随分と科学が発展しているんですね」
……まあ、たしかに科学は発展しているが、その段階は軽く2000年前には超えていたはずだ。
とはいえ、日本でも、塩漬けした野菜から塩を抜いて食べる技法が完成したのは江戸時代中頃からと言われているから、塩蔵の知識が広まっていないのも、あり得ない話ではない。
「昨日タクアンを食べさせただろう?
あれも大根を塩と米ぬかに付け込んで作った、保存食なんだ。
大根をしっかり乾燥させて、塩を多くすれば1年近く保存がきく」
「一年も……」
エレナは息をのんだ。
「別に大根だけじゃない。
他の野菜や肉だって、塩漬けするだけでかなり日持ちするようになる。
まあ、ものによっては、味の保証はできんが」
「美味しくなくなってしまうんですか……」
エレナは残念そうにつぶやいた。
実際、単に塩漬けするだけでは、不味くなってしまう野菜も多い。
――だが、漬物は違う。
漬物なら美味しくて、さらに、発酵させるので単なる塩漬けよりも保存性が高い。
今は手に入らないが、この世界には塩も、米も存在する。
この事実が意味することは一つだ。
――この瞬間、俺の心の中に、ある野望が芽生えた。
第6話 お読み頂きありがとうございました。
次回は、いよいよ別れの時……(?)
ツナグの野望が動き出す第7話も、是非よろしくお願いします!