はだかの「じゆう」をもつおとこ
その男は裸だった。否、大事な部分は靄がかかっていた。意地の悪い仙人がいきなり現れて、その部分だけパクッと食べなければ、大丈夫だろう。
男が歩いていると、子連れの親子と出会った。
曇りなき瞳の女の子が、男を見て、母親に訊ねた。
「ねぇ、ママー、あのひと、はだかだよ」
母親は別のすれ違いで目が合ったイケメンとアイコンタクトをしていた。イイ感じだっただけに、子供の横やりに悪意を感じ、つい手をあげた。
バシンッ!
相当大きな音のフルスイングだった。母親の日頃の教育の賜物だろうか、その手つきはやたらと叩きなれていないと出せない音だった。
子供は思わず身構えた。だが、平手はやってこない。
子供が恐る恐る目をあけると、裸の男が代わりに叩かれていた。
「んー。痛いだけだな。愛がなく、容赦がないからな。ドМなら100点満点だろうがな」
「何なのよ、アンタは」
「俺は、はだかの『じゆう』をもつおとこさ」
母親は、ギョッと驚き、世間体もあってか、子供の手を無理やりとって、その場を離れようとした。
だが、裸の男が先回りして行方をふさいだ。そして、母親がしたようにおんなじ勢いの平手打ちを彼女に浴びせた。
女は遠慮のない痛みに遠い記憶を思い出し、顔をゆがめつつ、その場にうずくまった。
何のことはない。母親もまた彼女の母親から暴力を受けて育った。そのときの痛みを思い出したのだ。
「おい、おっさん、昼間っから何、人を殴ってんだよ」
先ほど母親と目が合ったイケメンがいつの間にか裸の男に近づいてきて、ぶん殴った。
イケメンは得意げにおっさんを見下し、その顔に唾を吐いた。
裸の男はスクッと立ち上がった。イケメンは腰が引け気味だったが、とっさにガードした。
「腰の入っていないパンチだ。弱いものいじめが好きな奴に多い。……が何よりも、子供の目の前で自慢げに見せる代物じゃない。-100点満点」
裸の男はさっきの母親にしてやったように、イケメンも殴った。ただし、こちらのパンチは喧嘩屋特有の殴り慣れたソレで、イケメンの顔は母親以上に醜くゆがみ、脳が激しく揺れ、ベターンと背中から倒れた。
母親だった女はその暴力を目の当たりにして、さらに恐怖に囚われた。なぜなら、女の父親の暴力は母親以上だったから。それを思い出してしまったから。そして、無意識に子供を盾にして母親はぶるぶると震え始めた。涙も怒涛のように流れ、嗚咽がところ構わず響いた。
「おじさん、けんかはダメだよ」
盾にされた子供だったが、曇りなき瞳に怯えの色はなかった。それどころか裸の男に意見をしてきた。
周囲に何人かの大人たちがいたが、事の成り行きを野次馬根性で見守るだけで何もしなかったというのに。
「君はお母さんに日頃から叩かれて傷ついているというのに、今だって、君を盾にして自分だけ助かろうとしているそこの女をかばうのかね?」
「おじさんがなにをいっているのかよくわからないけど、おかあさんをたたくのなら、わたしはたたきかえすよ」
子供の目にはうっすらと怒りの色が見えた。それでもなお、この子供は母親をかばった。
「君は強いな。おじさんの負けだ。さぁ、おうちに帰りなさい」
裸の男は子供に道を譲った。
子供は裸の男があまりにもあっけなく負けたので、考えが追い付いていなかった。というより、母親を護るために、ただただ夢中だった。
状況的に「今がチャンス!」と見た母親は、先程までのすべてが演技だったのでは? と疑いたくなるほどにあっさりと顔色を変えると、子供を抱えて、帰路へと向かった。
「よぉ、おっさん。今度は俺たちにケンカ売ってくれや」
先ほど倒したイケメンが子供とのやり取り中にスマホで仲間と連絡を取り合っていたのだろう。
チーマーと思しき若者の団体が、片手に鉄バットや角材等を持って凄んできた。
裸の男は、ため息をついた。
ため息を盛大に吐き終わるや、彼らと語るのはいろいろと無駄だといわんばかりに靄の部分へと手を伸ばすと、プラスチック形状の何かをぶんぶん振り回した。
パスパスパス……という音のあと、若者はアスファルト道路とキスをした。若干濁った涙を添えて。
じょわわわわ……。
唯一イケメンが、小便を漏らして、そこにいた。
逃げたほうがいいのに、残念ながら腰が完全に抜けて、それも出来なかった。
その夜。
家に戻った母親は、昼間のことも忘れて、些細なことに腹を立て、子供に対して手をあげた。
子供がいつものように目を閉じ、身体を硬直させて耐える準備をしていたら、「ピンポーン」とインターホンが鳴った。母親が無視しようとしたら、インターホンは執拗に鳴りはじめた。
「何よっ!」
いらだつ母親がドアを開けると、裸の男と目が合った。
ギャアギャアと叫ぶや、母親は台所へと走り、包丁を手にして玄関へと戻ってきた。
「ああ、いけません。そんなもの」
裸の男は両手を軽く左右に振って、制止した。だが、包丁を握って気の大きくなった母親は、怒りで恐怖を塗りつぶし、そのままの勢いで男を刺した。
男は特に叫ぶこともなく、黙って刺された。そして、母親と目が合った。
刺してしまったことに、自分の立場のまずさをようやく思い出して、母親は包丁から距離を取り、知らない知らないと首を振りつつ、震えた。
「あー、演技は結構ですよ。それに私、死神ですから刺されたぐらいでは死にません。安心してください」
男は自分の正体を明かし、母親に笑顔を見せた。
「し、死神がいったい何の用なのよっ!」
笑顔で気が緩んだのか、すでに正気を失くしたのか、自称・死神相手に意見する母親。
「死神の仕事と言ったら、死んだ魂を天国に運ぶことです。あなたのお嬢さんは私が見えていました。だから、お迎えに上がりました」
「はぁ? 何、バカなことを言っているのよ。あの子は元気いっぱいよ。嘘をつかないで」
「じゃあ、後ろを振り向いてお嬢さんのその健康をチェックしてくださいな」
言われるまでもないとばかりに、四つん這いになりながらも母親は子供のもとへと駆けよった。
子供は目を閉じて横たわっていた。息はしていなかった。
母親は慌てて子供の衣服を剥いだ。子供の身体から人目にははばかられる様々な傷跡があらわになった。
かつてないまでの必死さで心肺蘇生を行う母親の姿があった。だが、子供が目を覚ますことはなかった。
母親は泣いた。
近所迷惑も考えず、ひたすら大声で慟哭した。
やがて、母親は近隣住民の通報によって駆けつけた警察により、逮捕された。
―
裸の男は女の子と手をつなぎ、天国へと昇った。
天国には羽を生やした優しそうなお姉さんがいて、女の子に笑顔を向けると手を伸ばした。
だが、女の子はその手を受け取らなかった。
自分の母親を思い出したのだ。優しいけれど、突然、豹変する母親を。
だから、その優しそうな笑顔が信じられなかった。
「最近、こういう子が増えたなぁ」
「ええ、これが時代の流れですよ」
「世も末だなぁ」
「……そろそろですか?」
裸の男とお姉さんがいくつか会話を交わした後、裸の男は腰を曲げ、子供の視点に合わせた。
「もし、神様がいたら、君は何を叶えて欲しい?」
「やさしいママ。ママにあいたい」
子供は天国の門の前にもかかわらず、泣きじゃくった。
「こんな不幸、これ以上、野放しにしてもイカンな」
「ええ、昔に戻しましょう」
裸の男は靄の中からラッパを取り出し、パンパラパーンと音を奏でた。
世界は今一度生まれ変わるために、海の底から盛大な涙を流したのだった……。