初七日
注意:この本文には、オチがありません。スカッともしません。ただ陰鬱な気分になります。
事の詳細は覚えていない。
ただ、分かっているのは、
私が死んだという事だけだった。
ぎぃ、と音を立てて扉を開けた。
古い家だから、きっと風か何かで扉が開いたと家族は思うはずだった。
私は玄関を上がり、誰もいない廊下をそっと歩いた。
ぎしぎしと、まるで体重があるかのように、古い廊下はきしんだ音を立てる。
久しぶりの実家はやけに寒々しくて、窓から夕間暮れの日の光がかすかに差し込むだけで、暗くて陰鬱としていた。
半開きになった扉をするりと潜り抜けて居間に入ると、母と猫と犬がいた。
母は、椅子に放心したように座っており、猫と犬がそんな母を慰めるように寄り添っていた。
私は猫の名前を口に出しかけて、やめた。
私はもう、死んでいるのだ。
こうやって魂はあるのだけど、体はとうになくなっているのだ。
おかしなことに、物を持ち上げることも出来るし、指先の感覚もあるのに、私は、すでに死んでいて、もう幽霊なのだ。
「死んだ人間はね」
私は声のした方を見た。
若く華奢で美しい娘がいた。
「死んだ人間はね、生きている人間に気付かれてはならないの」
娘は鈴を転がすような滑らかで美しい声音で言った。
母はその声が聞こえていないようだった。
娘はそっと爪先立ちで、音を立てないように気をつけながら、私に近付いてきた。娘は猫と犬の横をするりと通ったが、猫も犬も気付いていないようだった。
「音を立てては、駄目。しゃべっても駄目よ。アナタの声は、きっとアナタを思う人たちには届いてしまうから」
声を立てたら、気付いてもらえる。
娘が言ったのは、そういう意味である。
気付いてもらえることが分かっているのに、それをするなと私に強制しているのだ。
「私はアナタを監視するためにいるの。私の事を『死神』って呼ぶ人もいるわ。でも、私は人間を殺すわけではないのよ。ただ、死んだ人間が生きている人間に何か影響を与えようとしないか、監視するだけ」
真っ白いワンピースを着た、色素の薄い娘だった。腰まで伸びた栗色の髪に、細い手足。そのまま夕間暮れの闇に溶けていきそうなほど、透明な印象のある娘だった。鈴を転がすような柔らかく高く滑らかな少女の声が響く。
「死んだばかりの人間はこの世界に思い入れが強いから、人や物に触ることが出来るの。アナタが何かに触ったり、ましてや生きている人間に接触を図らないように、私はアナタを見張らなければならないの」
私は、ただただ娘を見つめた。
そして、母に視線を戻した。
母は、泣いていた。
ぽたぽたと涙を流していた。
椅子にもたれ、涙を拭おうともせず、嗚咽もあげずに、ただ涙だけを流していた。
犬と猫が、そんな母を心配そうに見つめていた。
泣かないで。かあさん、泣かないで。
私は声も出せず、駆け寄ることも出来ず、ただ涙を流す母を見ていた。
ぽたり。
私の目から流れた涙が、床に落ちた。
ぽたり。ぽたり。
猫が、私の方を見た。目が合った。猫は、母の元を離れ、私の足元に来ると、いつもするように体をこすり付けてゴロゴロ咽を鳴らした。
猫を撫でようと、私は無意識に手を伸ばしていた。
「駄目よ」
娘の鋭い声が飛んだ。私は、伸ばしかけた手を止めた。
「触っては、駄目。無視しなさい。猫は気付いてしまったけど関わっては駄目。触っては、駄目。我慢しなさい」
ぽたり。
私の頬を伝った涙が、猫の額に落ちた。
猫は、私を見つめると、いつものように「にぃ」と小さく鳴いた。
ふいに、母が椅子から立ち上がった。
「ねえ、いるの?あんたには、見えるの?ねえ、あんたにはあの子が見えるの?」
母は、猫をじっと見た。幾筋もの涙の跡が頬にあった。
「あんたはいつだって、あの子の足元でそうやって鳴いていたわよね。ねえ、いるの?いるんでしょ?あの子がここにいるんでしょ?」
猫は私の足元で、私の足に体をぴったりとくっつけて咽を鳴らし続けていた。
母が、こちらに近付いてくる。一歩。また一歩。
「来なさい」
娘が私の腕を引っ張った。
「今の母親は、きっとアナタに触れることが出来てしまう。駄目よ。触れられないように、避けるのよ」
私は娘に引っ張られて、母親が一歩近付くたびに、一歩遠ざかった。
猫は相変わらず私の足に纏わりついてた。
かあさん。私はここだよ。ここにいるの。
私は声も出せずに、ただ泣いた。
私は、死んだのだ。
もう、母に触れてはいけないのだ。
母に、私への未練を残させてはいけないのだ。
ここだよ。ここにいるのに。
「いるんでしょ。わかっているわ。そこにいるんでしょ」
近付いてくる愛おしい母の手をかいくぐって、抱き寄せようとする温かい母の手を交わしながら、私は泣いた。
ここにいるよ。私はここにいるよ。
「いるんでしょ。そこにいるんでしょ」
母はとうとうその場に泣き崩れた。
私は、母の背中を撫でてやることも出来ずに、一緒に泣いた。
ごめんね、母さん。ごめんね。
愛しているから。
私は、触れることが出来なくても、ずっとずっと側にいるから。
夕日はもう沈んでしまって、窓から射し入る街灯の灯りだけの部屋は暗くて寒かった。
ある日見た夢を書き出してみました。