セクション03:いいのですよ浮気をしても
「はあ、今日もダメだったな……」
更衣室で制服に着替え終えたツルギは、大きくため息をついた。
持っていた携帯電話を取り出すと、メールが来ていた。父からだ。
嫌な予感がしつつも、ツルギはメールを開く。
明日、出張から帰る。スルーズ航空の最新鋭機、B787に乗ってだ。
帰ったらすぐに退学の準備をするからな。仲間達に別れの挨拶でもしておけ。
父より
一瞬、息が止まる。
嫌な予感は、見事的中した。
恐れている日は、すぐそこに迫りつつある。
その日が、この学園を去らなければならない日だ。
説得しようにも、こんな状態では説得などできるはずがない。
そして、こういう時に限ってパートナーたるストームが倒れてしまっている。
「どうしよう、このままじゃ――」
メール画面を消したツルギは、自然と不安を口に出していた。
このままでは、本当に退学させられてしまう。
ここで得たものが、全部無に帰ってしまう。
それだけは、それだけは――
「ツルギ」
ふと声がして、ツルギは我に返った。
そこには、水筒を手にしたミミの姿があった。
「今回はお疲れ様でした。緑茶でもいかがです? もちろん、甘味抜きですよ」
「ああ……ありがとう。もらうよ」
ミミは車いすの隣にあったベンチに腰を下ろすと、水筒の蓋に緑茶を注いてツルギに差し出した。
ツルギは受け取ると、ゆっくりと口に運ぶ。
緑茶の渋い味が口中に広がると、心が少し落ち着いた。
「ミミ……今日は、ごめん。僕が迷惑かけちゃって――」
「そんな事ありません。むしろとても助かりました。本当だったら今日やった写真撮影も、操縦しながら私1人でやらなければならなかったのですよ? あの『悪魔の子』には感謝しなければいけませんね。私の専用機が不調を起こしたおかげで、ツルギと一緒に飛べたのですから」
今回のフライトは、臨時的に組まれたものだった。
ツルギはストームが欠席したためにパートナー不在となり、本来なら飛べないはずだった。
一方のミミは、専用機に不調が確認されたために急遽別の機体で飛ぶ事になった。
この偶然から、ミミは複座型のミラージュを割り当てられ、ツルギを後席に乗せて飛び実習をフォローする事になったのである。
そう、これは偶然でしかない。別にツルギでなくとも起こり得た事なのだ。
「でも、そんな事は僕以外の人だってできる。いや、むしろ僕以外の人の方が――」
「いいえ。そんなどこの馬の骨とも知らない人よりも、気心も実力も知れたツルギの方がパートナーとして信頼できます。あんな事をいつでもしてもらえるなら、私もイーグルに機種転換したいですね」
ふふ、と嬉しそうに笑うミミ。
だが彼女の言い分は、あくまで親しい間柄だからこそ通じるものだ。相手が赤の他人ならば、ただの迷惑にしかならないだろう。
ツルギが顔をうつむけたまま黙り込んでいると。
「ツルギ、今日の放課後時間あります?」
今度はミミが話を切り出した。
「え? あるけど……」
「なら、私とデートしましょう」
ミミはにこやかに笑いながら、そんな事を提案した。
「デートか――ってデート!? ちょ、ちょ、ちょっと待て! それって――!」
ツルギはその意味に口にしてみてから気付き、激しく動揺した。
「言葉通りの意味ですよ。今日ほど穏やかな日はないのですから、絶好のデート日和だと思いません?」
「そ、そ、そ、そんな! 姫様とデートなんて、と、とんでもない!」
「平民だからと遠慮なさらなくていいのですよ? これは私の愛するツルギだけの特権です。遠慮なく使ってくださいな」
ミミはおもむろに扇子を開き、口元を隠しながら横目でツルギを見つめてくる。
誘っているようなその目付きと、愛するといいうストレートな言葉に、思わず胸が高鳴る。
「で、で、でも、僕は――」
「身も心もストームのもの、と言うのですか? ツルギは本当に生真面目な人ですね」
すると、ミミが急に体を乗り出し、ツルギに顔を近づけてきた。
「いいのですよ、浮気をしても。浮気はみんなしているものです。よく浮気は男の何とやら、と言うでしょう?」
ミミの口から「浮気」という単語が出た事に、ツルギは驚いた。
「な、何変な事言ってるんだ!? もしかして、ストームに風邪移されたのか!?」
「私は自分の思いに正直になっただけですよ、ツルギ」
ミミはツルギの頬にそっと口付けた。
ストームと恋人になって以来、初めて他人にされたキス。
その一撃だけで、ツルギは頭が混乱し始めてきた。
「私の気持ちは今でも変わりません。そもそも、先に告白してファーストキスをいただいたのは私なのですよ? そんな私がいいと言っているのですから、ためらう必要などどこにもありません」
優しく見つめる碧眼が、宝石のようでとてもきれいだ。
それに吸い込まれそうになるのを残った理性で何とか押し留め、ツルギは周囲を見回す。
更衣室には、ツルギとミミ以外誰もいない。
まずい。
このままでは大変な事になりかねないと、直感が告げている。
だというのに、行動に移せない。
「ですから、ツルギも自分の気持ちに正直になってください。いつもあのアバズレ女に振り回されてばかりなのですから、たまには私と穏やかに過ごすのもいいでしょう?」
ミミの手が、そっとツルギの手に重ねられる。
そして、もう片方の手がツルギの頬に触れ、顔を向かい合わされる。
そのまま、ミミは再び顔を近づける。
ゆっくりと目を閉じ、互いの唇を重ね合わせるために。




