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ふたりの時間

作者: RDOFLC

ふたりの時間


 …お仕事中ですか? それとも、夕食の準備中ですか?

 ラジオの前のあなた。時間の方は午後6時を回りました。

 今日は、ペルセウス座流星群が地球から一番はっきりと観測できる日だそうです。深夜23時頃から、肉眼でも1時間に20個前後の流れ星が観測できるみたいですよ。

 夜中に車を走らせて、少しだけ明るい都会を離れて。

 あなただけのお気に入りの場所で、真夏の天体ショーはいかがですか?

 遥か彼方からの、光の記憶。

 今日のテーマは「流れ星、あなたは誰と観ますか? また、何をお願いしますか?」です。

 FAXとEメールで、番組終了まで受け付けております…



 「昔、誰かが言っていたな。夕方から夜に向かっていく時間、つまりマジックアワーの中では、人はひどく感情的になったり、情緒的になったりするって話」

 ラジオ番組の冒頭が小さいボリュームで流れている。

 青い水をかきわけ、泳ぎ、白い飛沫が浮かんでは消え、あらゆる角度へと向かう小さな波が、不規則にプールサイドへぶつかり、浸み出しては、消える。活気ある声と空中で交り合い、虹のかけらのように光りをあちこちにまき散らす。


 「でもそれって、要するにマジックアワーを体験している人間に限った話だろ? 忙しく働いている人たちや、オレンジ色から薄い青、濃い群青へ変わっていく空のグラデーションを見られない人たちには、関係のないことじゃないのかな」


 熱帯植物を集めた、大きなドーム型の室内プールがあった。

 あまりにも照明の数が多いため、室内の温度は常に高い。湿気を含んだ、粘り気の強い暑さと鼻の奥に引っかかるような黴の臭いが交り合い、濡れた床から立ち上ってくる。それはプールを取り囲むように植えられた熱帯植物の放つ気配と空間で絡み合い、甘く粘り強い粒子の束のようになって、辺りを漂っている。切り取ったアロエのような薄緑色で、周囲の光を吸い取って光りを放つ、断面の液体。果実をつける植物は一つもない、その筈なのに鼻を刺す、赤や黄色、橙色の幻の熱帯。子どもが悪戯して折ってしまった茎の断面からあふれ出て、一筋伝って落ちていく、ゆがんだ鏡のような粘液が反射して、光っている。

 乾いているのに水の中にいることを錯覚しそうな、下品な青いペンキを塗り重ねたようなプールの床。


 「例えばね、高台からふもとの街を眺めている。視線の先には海があって、海の隙間に沈んでいく日の光がぼんやりと見えている。そういう時ってさ、心が静かになる気がしないか? あたりはしんとしていて、まるで帰るべき場所を忘れてしまったみたいに淋しくて、胸が痛い。今までに一番楽しかった事を思い出すだけで、目を潤ませるような時間さ。そんな時に、感情的だったり、情緒的だったりするのは当たり前じゃないか」


 しかしそれは、水を引きはがし、大きく息をつぐ瞬間目の端から飛び込んでくる光に包まれた天井を見ている時。

 手の中に握った硬貨の湿り気を感じながらかき氷を買う列に並んでいる時。

 複数の友達同士でプールに来たはずなのに、ずれた水着から見えた日焼けの痕に強烈に異性を意識してしまった瞬間は、決して気づかない。


 「…それで、今、あなたはそういう気分だって言いたいのね?」


 それはプールを出て初めて気づく。

 外の空気に触れた時、まだ乾かない髪の間から、服と素肌の隙間から香る、塩素の匂い。涙の世界に包まれていたことを感じるのではなく、思い出す。気づくと同時に関節から微熱を持って広がる心地よい疲れ、その気配は日の陰りに合わせて、次第に強くなる。眠気と感傷、乾いていく肌。

 恥ずかしくて、人にはとても伝えられない感情。声を出して伝えるのが、ふしだらに思える感情。


 「そうだよ。この年頃の誘い言葉としては、上等じゃないかな。こう見えても俺は繊細で、デリケートなんだ。こんな例え話でも下敷きにしなきゃ、恥ずかしくてとても言えないよ」


 予約していた店は、プールから少し離れた海のそばに建っている。

 ライトアップされた緑の芝生の広大な海原。昼間は犬を散歩させる人で賑わう、全面ガラス張りのイタリアンレストラン。そう広くはない店だったが、まるでごった煮のような海水浴客で賑わう海の傍にしては、場違いなほど清潔感のある作りで、昼間はテラス席に暇とお金を持て余している主婦たちが群がっている。

 広いつばの帽子、ローズレッドに染めた髪。真鯛のカルパッチョと、白ワイン。細いフランス製のタバコと、下世話なおしゃべり。年に不釣り合いなスマートフォンのデコレート。

 周囲の闇から弾き出され、場違いなほど明るい店内。白いヌメ革を大きく使ったソファの席に、ふたりは座っている。ヤギ革のミュールの踵にあてた、保護用のソールが少しはがれ、芝生の土が詰まっている。


 「ねえ知ってる? イタリアの友人が言っていたの。イタリアではパスタはフォークにくるくる巻きつけて、一口で食べるものなんですって。ラーメンとか蕎麦みたいに、ずるずる啜るものじゃないのよ?」


 厨房で食器を片づける音、電話で予約をとるウェイターの低い声、エミール・ガレを模したアールヌーヴォー調のキャンドルが、かすかに燃える音。空気を撹拌するフロアーファン。どこか気流が不規則なのか、時折大きめの空気の塊が、髪を揺らしている。トリートメントをあまり洗い流さなかったため、ところどころカラスの羽のように光り、まだ乾いていない髪。


 「エスプレッソも最近、飲めるようになったのよ。ミラノにいた時お店の名前は忘れたけど、マリメッコの柄のカップでね、出てきたの。その頃あたしはまだコーヒーも砂糖とミルクがないとダメだったのに、何故かしらね。飲んだの、そのお店のエスプレッソを。本場だから、せっかくだからって貧乏くさい発想だったのかもしれないけど、覚えていないわ。でもね、美味しかったの。砂糖も入っていなくて、濃くて苦いだけなのは変わらないのよ。でも飲んだ時に頭の上の方までいい香りがしたのは覚えているわ。それ以来ね」


 ウェイターがゆっくりと二人の間に入り、デザートのプレートを置いていく。複雑にデコレートされたジェラートと、パイと、チョコレートの組み合わせ。ミントの葉がちりばめられ、カットされた苺がプレートの周囲を彩る。キャンディーを使ってコーティングされた、鮮やかな赤色を、大きなガラス窓の裏側から、一匹のヤモリが見つめている。


 中心には、ミントチョコレートを使って描かれた、筆記体の名前。薄い緑色のレンガを、硬質に磨き上げた文字のカーブは、細いロウソクの炎に周りから照らされて、鈍く光っている。ひときわ大きいカーブを描いた最後のスペルは、尻尾のようにカールして、そこに瞬きが集まっているかのように見え、白く瞳に飛び込んでくる。


 ―様、


 ロウソクが消えるときの臭いが一瞬テーブルに広がり、すぐに消える。青白い亡霊のような煙が頭の上を漂っている。朝日の射す寒い朝、バスルームから流れ出す湯気のように、目を凝らせば粒子の粒がひとつひとつ見えるようだ。視界の少し上を吹きすさぶように、天井の方へ、白いフロアーファンのたなびく残像に向かって、蹴散らされていく。逃げ遅れたようにテーブルを覆うクロスの赤いステッチに引っかかり、留まる硫黄のような匂いだけが、オレンジ色の光が視界から消えた痕を、くっきり残している。


 エスプレッソを口に含むと、強い酸味と苦みが鼻についた。ガラス越しにぼんやりと輪郭だけが映っている海は、薄暗く、水平線に沿って何も動きを見せない。波がないのか、風がないのか。空は水平線の街の明かりに焙られて、だらしなく、しわだらけのカーテンのように垂れ下がっている。少し離れた場所を走っている道路からは、時折車の音が波の代わりに届くだけだ。車のライトが作った影が芝生をなでていくものの、店の中までは届かない。煌々と輝く店内の光に負けて、砂利道の中へ溶けていく。外から眺めるふたりの時間は、人工的な白くて明るい箱庭の中で、冷凍庫の中で凍りついているように見える。

 

 ありがとう。あたし、男の人に誕生日祝ってもらったのって、もしかして、はじめてかも…


 「大きなテディベアをね、今すぐ持って来いって言ったのよ。車で2時間くらいかかる距離で、しかも真夜中だったの、その電話した時。なんでだか、その時はそうしてもらいたかったのよね。そういうのってない? 少し酔っていたのかもしれないし、単に淋しかったのかもしれない。今は覚えていないけど」


 ハワイアン風のカクテルバーは、いつもダーツとナンパに興じる若者たちで混み合っている。一枚板のカウンターと、座りの悪いスツール。強く締めないと鍵のかからないトイレには、デヴィッド・カーソンのサーフィンの写真が貼り付けられている。天井には赤と青のライトニング・ボルトのサーフボード。シャンパンの泡が、安物のグラスにまとわりついては、新しく生まれた泡に押されて、口元に運ばれ、消える。空調の利いていたさっきのレストランと違って、ここは蒸し暑い。作り物のヤシの木や、安物でスプリングがへたっているソファ、タバコの煙で環がかかる間接照明、暗くてよく見えない足元、すべての場所からアルコールの臭いがする。


 「もちろん。しかもシュタイフの奴よ。車の助手席に押し込んできたって言ってた。実は、いまだに部屋に飾ってあるわ」


 小さな笑い声は、店の雑音に紛れてしまう。ハイバックのソファに身体を預けると、少しだけ酔いが回ってくるのを感じる。耳元で、スプリングが立てる低く軋む音がなっているが、耳には届かない。すぐそばに座るお互いの身体が、近づき、離れるたびに熱を伝えてくる。むき出しの肩は少し汗ばんで、産毛に浮かんだ汗の粒が光っている。薄い唇は小さく開いて、打ち水をした後のアスファルトのような、シャンパンの残滓にまみれている。


 「あたし、捨てるの苦手なの」


 鏡を見るかのように瞳を見つめていると、どこまでも果てがないくらい、長くて細い漏斗のようなシャンパングラスに落ちていくように、身体が小さく消え去って、宝石のような薄くて丸い一つのレンズに変わってしまったかのように、鏡の中の金環日食を、温かい熱をもった優しい水流が流れ込んでは、レンズをゆっくり揺らして洗い流し、また去っていき、レンズよりも細かい金色の泡が頬や肩、膝の後ろをくすぐっていく。


 「そういや花火、観に行った?」

 「観てないわ。海には行ったけど。今年は1回だけ」


 産毛が雪山を走る稜線のように、銀色に光っている。素足に触れる毛足の短い絨毯の感触と、近くを走っていく車の音は、小さな地鳴りのように通り過ぎていく。闇にぼんやり浮かんでは消える、潤んで光るガラスのかけらは、たちまち溶けだして、ぬるい液体となって、再び暗がりへ消えていく。


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