失われる日まで。グラサン美容師
本作を手に取っていただき、ありがとうございます。
この物語は、人が抱える孤独や希望をテーマに描いた作品です。登場人物たちの葛藤や成長を通じて、読者の皆さまに何か感じ取っていただければ幸いです。
最後までお楽しみください。
雨の日も晴れの日も、その男はサングラスを外さなかった。
「なんでいつもグラサンなんですか?」
客に聞かれるたび、彼は笑った。
「カッコつけだよ」
店中が笑う。
だが本当の理由を知る者はいない。
彼の名前は黒崎。
予約は三か月待ち。
一度切ればわかる。髪が伸びても形が崩れない。鏡の前に立つ客は皆、驚きの声を上げた。
「あんた、日本一だよ」
そう言われても、黒崎は照れたように笑うだけだった。
しかし彼には秘密があった。
目の病気だった。
視野が少しずつ欠けていく難病。
最初は遠くが見えにくいだけだった。
だが一年、二年と経つにつれ、失われる視界は広がっていった。
医者には言われていた。
「いずれ美容師は続けられなくなります」
その言葉を聞いた夜、黒崎は一人で泣いた。
ハサミしかなかった人生だった。
だが翌日から、彼は誰にも弱音を吐かなかった。
今日見えるなら今日切る。
明日見えるなら明日切る。
来てくれるお客様全員に、自分の最高傑作を届ける。
それだけを考えた。
サングラスは、目の異変を隠すためだった。
年々、施術時間は長くなった。
誰にも気付かれないよう、何度も確認しながら切った。
常連客たちは言う。
「最近さらに丁寧になったね」
黒崎は笑った。
本当は必死だった。
そしてその日が来た。
朝、鏡を見た時には、もう輪郭しか見えていなかった。
店に立てる最後の日。
予約はすべて断った。
閉店後の静かな店内。
長年使ったハサミを手に取る。
鏡の前に座った。
サングラスを外す。
ぼやけた世界。
ほとんど何も見えない。
それでも、感覚だけは残っていた。
指で前髪をつまむ。
ハサミを入れる。
シャキッ。
静かな音が響く。
また一束。
また一束。
髪が落ちていく。
客のためではない。
誰かに褒められるためでもない。
美容師として最後に切る髪だった。
自分の髪。
切り終えると、黒崎はハサミを机に置いた。
鏡の中の自分はもう見えない。
だが仕上がりはわかっていた。
何万回も繰り返した感覚が教えてくれる。
黒崎は小さく笑った。
「悪くないな」
そしてサングラスをかける。
店の灯りを消す。
扉に鍵をかける。
人生最後の営業が終わった。
誰もいない夜の街へ歩き出す。
その背中だけが、不思議なほど誇らしく見えた。




