第42話 召喚と査定の刃
大隅から錦江湾を渡る平底船の底板は、波頭を叩くたびに鈍い振動を骨の奥まで伝えてきた。
初夏の風が孕む塩の匂いと、甲板に積まれた濡れ俵の饐えた匂い。十四歳になったばかりの俺――島津崇清の身体は、木崎原の死線で浴びた硝煙と泥の感覚をまだ皮膚の薄皮一枚の下に残したまま、薩摩本国の内城へと運ばれていた。
船尾では、弥三郎が手すりにしがみつき、青ざめた唇を引き結んで海面を睨みつけている。二八坂を駆けずり回り、加久藤の泥濘を這いずり回った草鞋の擦れ傷が、今も足首に生々しい赤みを残していた。
「若君。いや、崇清様」
弥三郎が掠れた声を絞り出した。
「僕ぁね、加久藤で伊東の三千を迎撃した時、もうこれ以上の地獄はないと思ってましたよ。あれで今年の分の寿命は全部使い果たしたと、そう信じ切ってたんです」
「息を整えておけ、弥三郎。胃液を海に吐き出している暇はないぞ」
「吐き出せるもんなら全部吐き出したいですよッ! なんで敵の首も取らずに生き残った直後に、今度は本丸の査定喚問なんですか! 義久様に歳久様、それにあの算盤坊主の忠棟まで揃い踏みですって!? 役員総出の詰め腹切り裁判じゃないですか! 飯野で兵庫様(義弘)に首輪を嵌めてもらったと思ったら、今度は本丸で首ごとへし折られに行くんですよ俺たちは!!」
弥三郎は喚き散らしながらも、膝の上に抱えた麻袋の結び目を指先で器用に解き、中に入った帳簿の木板の角を丁寧に揃えていた。口でどれほど絶望を叫ぼうと、現場の実務を担うその指先だけは、かつて内城北の丸で冷水に手を突っ込んで紙を漉いていた頃の規律を寸分たりとも乱さない。
「喚くな」
船首に仁王立ちしていた甚兵衛が、太い二の腕を組んで振り返った。その背には、加久藤で命を落とした中村孫六兼貞の欠けた十文字槍が、麻布に厳重に包まれて括り付けられている。
「若君は木崎原の修羅場を越え、島津の姓を堂々と賜ったのじゃぞ! 本丸の評定が何じゃ! 算盤侍の寝言など、この老骨が――」
「甚兵衛、その槍を本丸に持ち込むなよ。無用の摩擦を生む」
俺は低く制した。
腰に佩いた母・楠御前からの守り刀を、上からそっと押さえる。木崎原の泥の中でも一度も抜かなかった刃。前世の経営コンサルタントとしての脳髄が、これから踏み込む「内城大広間」という名の、刃傷沙汰よりも遥かに冷酷な処刑場の見取り図を組み立てていた。
内城の表門を潜ると、城内の湿気は一層重く、肌にまとわりつくように沈殿していた。
広間へと続く白砂の庭には、市来や伊集院の郷中から集められた警固の武士たちが抜き身の槍を立てて等間隔に並び、微動だにせずこちらを見下ろしている。その視線は、戦場から生還した一門を迎える温かさなど欠片もなく、他領の間者か謀反人を値踏みする冷え切った警戒そのものだった。
弥三郎が喉を小さく鳴らし、俺の半歩後ろで身を強張らせる。
「島津崇清殿、御着座」
取次の低い声が広間に通った。
大広間の重い唐戸が左右に開かれた瞬間、吹き抜けてきたのは、線香の灰と冷えた井戸水の臭気――そして、人の胃壁を内側から締め上げるような、圧倒的な重圧だった。
上段の正座に据えられているのは、島津家第十六代当主・島津修理大夫義久。
三十九歳。すでに薩摩・大隅の動乱を統べる若き巨頭の佇まいは、戦場の泥臭さを微塵も感じさせず、漆黒の小袖の胸元をぴたりと合わせ、伏せた双眸の奥に底知れぬ深淵を湛えている。
その左脇には、飯野の戦場から戻ったばかりの次男・島津兵庫頭義弘。木崎原で老臣たちを失った痛痕を鎧の下に押し殺し、腕組みをしたまま、射抜くような眼光で俺を見据えている。
右脇には、三男の島津又三郎歳久。手元の白竹の扇子をわずかに弄び、薄い唇の端に、獲物の解体手順を検分する外科医のような笑みを浮かべていた。
そして四男・又七郎家久は、下座の柱際で刀の柄を両手で挟み、じっと前線叩き上げ特有の研ぎ澄まされた殺気を放っている。
だが、この広間の空気を最も鋭利に支配していたのは、四兄弟の武威ではなかった。
上段と下段を分かつ敷居の際、分厚い紙束と算盤を前にして端座する痩身の男。
伊集院掃部助忠棟。
剃髪した青白い側頭部に初夏の光を反射させ、浅黄の法衣を乱れなく着こなした青年奉行の目は、感情の起伏を完全に削ぎ落とした無機質な光を放っていた。
下座の末席には、新納武蔵守忠元が巨大な体を丸めて胡坐をかき、その隣で市来の武頭・中馬大蔵が、板敷きに爪を立てるようにして胡坐を組んでいる。
前線の泥と血を知る二人の猛将が、忠棟の背中に向けて隠しようもない敵意を漲らせていた。
「島津又八改め、島津崇清にございます」
俺は下座の中央へ進み出ると、膝を折り、板敷きに両手を突いて深々と額を擦り付けた。
頭頂部に突き刺さる無数の視線。
前世のコンサルタント時代、再生計画の不備を突いて会社を解体しようとする監査役会に単身で乗り込んだ時の、あの胃の奥が焼き切れるような感覚が蘇る。だが、ここは現代のオフィスではない。一言の失策が、自分だけでなく、大隅の獅子目で田を耕す蒲生の民数百人の首に直結する戦国乱世の法廷だ。
「面を上げよ、崇清」
義久の静かな声が、大広間の梁に反響した。
感情を交えない、氷のように澄んだ響き。
俺がゆっくりと顔を上げると、義久の切れ長の双眸が、俺の面構えから、帯びている無傷の刀、そして背後に控える弥三郎の指先に至るまでを、瞬時に撫で回すように検分した。
「木崎原での働き、義弘より逐一聞き及んでおる。加久藤城の鑰掛口を保ち、部下を連れ帰ったこと、見事であった。兵庫頭が烏帽子親となり、父上の志を継ぐ『崇』の一字を与えたこと、宗家としても追認する」
「ははっ、身に余る光栄にございます」
定型の儀礼。だが、本題はここからだ。
「されど」
義久の言葉を継ぐように、歳久が扇子をパチンと鳴らした。
「名を与えられたからとて、すべてが片付いたわけではないぞ、崇清。大隅の獅子目に押し込められたはずの童が、なぜ自前の兵を養い、孟宗竹なる未知の防塞を築き、伊東の三千を足止めできるほどの差配を振るえたのか。そなたの背後にいる見えざる影の正体について、家中にはいまだ疑念が渦巻いておるのだ」
歳久の追及に、下座の新納忠元が太い眉をピクリと跳ね上げ、口を開きかけた。
だが、それよりも早く、滑るような衣擦れの音とともに割って入った影があった。
「歳久様の仰る通りにございます」
伊集院忠棟だった。
忠棟は膝の上の分厚い出納帳を両手で持ち上げると、音もなく立ち上がり、敷居を跨いで俺の斜め前へと進み出た。
床板を踏む足音すら立てない。その白磁のような無表情の奥から、数字の刃を研ぎ澄ました官僚の冷徹な殺気が立ち上る。
「恐れながら殿、ならびに兄上様方。手前が問題視しておりますのは、背後の黒幕云々という曖昧な疑心暗鬼ではござりませぬ」
忠棟は出納帳の紙片を、パラリと一枚めくった。
「帳簿の数字でございます。大隅国、獅子目。元はシラスの断崖に囲まれた、草木も生えぬ痩せた泥の谷底。そこに蒲生の遺臣三百余名を連れて入植したのが、永禄十一年のこと。本家が扶持として給したのは、年間わずか三十石の玄米のみ。餓死を待つだけの捨て石であったはずのその場所から、今、何が生み出されているか」
忠棟の細い指が、紙面に並ぶ墨文字をなぞる。
「高須の塩田における製塩高、年間四百俵。自生するクスノキと木灰を用いた純白の薬石――サボンの密造、博多および堺の商人への横流しによる外貨獲得、年数百貫。さらには大姶良の間道を押さえ、楠行者衆なる山伏共を私兵として使い、霧島から大隅に至る独自の通信網を敷設。直近では、北薩の大口城番・新納殿の元へ、本家の蔵を通さぬ闇の兵糧・塩・火薬原料が、高須から極秘裏にピストン輸送されております」
「忠棟ぇッ!」
下座から忠元の怒声が飛んだ。老将の全身から、煮え滾るような怒気が噴き出す。
「畳の上で米を数えるしか能のない貴様が、どの口でそれを抜かすか! 北薩で儂らが飢え死にしかけた時、『大口へ回す米はない、現地で自給せよ』と冷酷に切り捨てたのはどこのどいつじゃ! 泥水をすすって前線を死守していた儂らの喉元へ、極上の塩と兵糧を送り届けてくれたのが誰であったか、もう忘れたのかッ!」
忠棟は忠元の咆哮を一瞥もせず、冷え切った声で淡々と返した。
「それは本家の備蓄を維持するための、冷徹な計算でございます。……これらはすべて、宗家の台帳の外側――すなわち治外法権の暗がりにおいて行われております。島津は今、薩摩・大隅・日向の三州に散らばる不服従の国衆を従え、義久公を頂点とする中央集権――すべての米、すべての塩、すべての武器を本家の蔵と法で一元管理せねば、大友や相良の波に呑まれて滅びる瀬戸際にあります。にもかかわらず、この十四歳の少年は、武士の誉れである名誉も領地も求めず、ただひたすらに港を握り、職人を囲い込み、物流を押さえ、本家の法の届かぬ自立した経済圏を勝手に作り上げている。これは手柄ではござりませぬ。宗家の屋台骨を内側から食い破る、極めて危険な癌腫にございます」
「言わせておけば、小賢しい屁理屈を並べおって!」
床板を蹴破るような音を立て、中馬大蔵が立ち上がった。
身の丈六尺の巨躯、筋骨隆々の太い腕を振り回し、大蔵は土足同然の勢いで忠棟へ詰め寄る。
「おい忠棟! 前線で命を張る武士の生き死にも知らぬ癖に、何を偉そうに能書きを垂れとるんじゃ! ああ!? 貴様ら蔵役人はな、五歳の頃から内城の吹き溜まりで、冷水に手を突っ込み、竈の灰をこねて病気の母親を養ってきたこの男を、ずっと『掟破りの不穏分子』と蔑んできただけじゃろうが! 泥水をすすり、生きるために必死こいて知恵を絞ってきた小僧が、いまや前線の命を繋ぎ、島津の城を保つまでの男になったんじゃぞ! それを……帳簿に収まらんからと泥溝で使い潰せだと!? 現場の血も汗も知らん算盤侍が、前線で命を張る武士を踏み躙るような真似をするなら、この大蔵が貴様をここで叩き割ってやるぞ!!」
「大蔵、控えよ」
義久の低く、鋭い一喝が広間を貫いた。
大蔵がギリリと奥歯を噛み鳴らし、殺気を呑み込んでその場に踏みとどまる。
義久はゆっくりと視線を下段へ戻し、忠棟の告発を静かに受け止めた後、俺の目を真っ直ぐに見据えた。
「崇清」
「はっ」
「忠棟の申すこと、一理ある。島津の内にありながら、島津の法に従わぬ富を抱える者は、いかに血を引く弟とて生かしてはおけぬ。申してみよ。そなたは大隅の泥溝で、一体何を企んでおる」
広間の空気が、極限まで張り詰めた。
義弘の険しい視線、歳久の冷笑、忠元の焦燥、大蔵の怒気、そして忠棟の研ぎ澄まされた敵意。
逃げ場はない。
俺は深く息を吸い込み、畳に突いていた手を膝の上へと引き上げた。十四歳の身体の奥底で、前世から引き継いだ冷徹なビジネスマンの思考が、完全にギアを噛み合わせた。
「忠棟殿の仰せ、まことに正論にございます」
俺の口から出た平坦な肯定に、忠棟の眉が微かに動いた。
「宗家による蔵と法の一元管理。戦国を生き残る上で、これほど正しく、欠くべからざる統治の道はございません。されど」
俺は視線を上げ、忠棟の双眸を真正面から射抜いた。
「忠棟殿のそのやり方では――島津は、三年と持たずに内側から破綻いたします」
あとがき
忠棟さん、優秀なんですよ。
数字も見られる。制度も理解している。宗家全体のことを考えている。
たぶん、こういう人がいないと島津家も大きくはなれません。
ただ……どうも欠点がある。
人間を、かなり平然と切り捨てる。
『銀河英雄伝説』で言えば、ちょっとオーベルシュタイン寄りです。
本人からすると「必要な損切り」なんでしょうけど、切られる側からすればたまったものではありません。
そして今回、その忠棟の「正論」に対して崇清が出した答えが、
「はい、それは正しいです。でも、そのやり方では三年で島津が壊れます」
という、なかなか嫌な返答でした。
さて、ではどうするのか。
次話から、いよいよ「土地を持つこと」と「土地を経営すること」を分ける話に入ります。
よろしければ、続きもお付き合いください。




