第40話 凍る内城
薩摩国、鹿児島・内城。
南九州の覇を競う島津宗家の本拠たるその奥政庁には、初夏の生ぬるい潮風を完全に遮断したかのような、凍りつくような沈黙が張り詰めていた。
上座に端座するのは、島津家第十六代当主・島津修理大夫義久。
その切れ長の双眸には感情の揺らぎ一つなく、膝の上に置かれた細身の刀の柄へ、静かに指を添えている。
そのすぐ右隣、脇机に陣取っているのは、三男の島津又三郎歳久。手にした白竹の扇子をわずかに弄びながら、冷徹な監査官の光を帯びた細い目を、下座の二人の男へ据えていた。
そして義久の背後、影のように控えるのは、筆頭勘定役として宗家の金蔵と兵糧台帳を牛耳る伊集院掃部助忠棟である。
対する下座には、飯野城での戦後処理を終えて薩摩本国へ急行した島津兵庫頭義弘。
その隣には、大口城から駆けつけ、戦場で浴びた返り血の臭気をいまだ微かに鎧の隙間に残した大男――新納武蔵守忠元が、仁王のように胡坐をかいていた。
大隅・獅子目を任せている十四歳の妾腹――楠千代丸の姿は、ここにはない。
「以上が、木崎原における合戦の始末にございます」
義弘の太く低い声が、板敷きを震わせた。
「伊東の総大将・伊東加賀守祐安、ならびに先鋒の伊東新次郎祐信以下、名のある武将二百六十余名を討死せしめ、敵兵の過半を殲滅。されど、我が方の損害も甚大。宿老・遠矢志摩守良賢をはじめ、六重臣が討死いたしました」
遠矢良賢の戦死を聞いた瞬間、義久の眉がわずかに跳ねた。
内城の奥政庁に、重い空気が満ちる。三千の敵を三百余で破るという前代未聞の大勝でありながら、身代わりとなって散った老臣たちの血の重みが、勝利の美酒を苦い泥水へと変えていた。
「良賢を失ったか」
義久が低く呟いた。
「痛手であるな。されど、真幸院を呑み込まんとした日向の虎の喉笛を、完全にへし折った。義弘、武蔵守、大儀であった」
「はっ」
これで評定は終わる――はずだった。
だが、義弘は平伏を解かず、そのまま畳に拳を据えたまま、言葉を続けた。
「兄上。もう一つ、ご報告と、ご裁可を仰ぎたき儀がございます」
「申せ」
「加久藤城の搦手・鑰掛口を死守し、敵の横腹を塞ぎ止めた大隅の又八にございます」
義弘が顔を上げた。その双眸は、木崎原の泥田で愛馬とともに死線を越えた男の、揺るぎない光を放っている。
「あやつは自ら率いた手勢十五名をもって、三千の先鋒が殺到する狭隘地を保ちきり、部下三名の戦死を出しながらも、十二名を生還させました。功名に狂って首を追わず、人を預かり、城を保ったその働き、まことに見事。よって儂が烏帽子親となり、戦場にて元服を執り行いました」
パチン、と乾いた音が広間に鳴り響いた。
歳久が、手元の扇子を乱暴に閉じた音だった。
室内の空気が、目に見えて凍りつく。
義久の双眸が細められ、射抜くような冷気が義弘へ向けて放たれる。
「元服、だと?」
義久の声は低く、平坦だった。怒声よりもなお恐ろしい、冷徹な当主の響きを帯びている。
「義弘兄上、正気ですか」
口を開いたのは歳久だった。扇子の先で板敷きを小気味悪く叩きながら、三男の知謀が容赦なく兄へ突き刺さる。
「又八は、大隅の山奥・獅子目に捨て置いたはずの妾腹の小倅。肝付の防波堤として使い潰すはずの捨て石です。それがあの地で勝手に工兵を組織し、帳簿をつけ、高須の塩や紙を握り、くぐり衆の目を掻い潜る正体不明の影を抱えて膨張している。十四歳の童が一人で差配できるはずがない。背後に蒲生の老獪な残党、あるいは他国と通じる黒幕がおらねば説明がつかんのです」
歳久の眼光が険しさを増す。
「そのような危険極まりない異物を、なぜわざわざ元服させ、身内に引き入れるのです。蒲生の名のまま大隅で飼い殺しにしておくべきだった。本家の正統を脅かす火種になりかねんと、なぜ分からんのですか!」
義久もまた、冷ややかな視線を義弘に据えたまま動かない。
「亡き父上の遺言を忘れたわけではあるまいな、義弘。あやつは枠の中にいる限りは益を生む。だが、枠を踏み越えそうになったときは躊躇なく首を刎ねよ、と仰せられたはずだ。元服させ、島津の姓を与えるなど、枠を踏み越えさせる愚行ではないか」
当主と監査役による、冷徹な論理の包囲網。
二人の詰問を真っ向から受け止めながら、義弘は薄く笑った。
「歳久。お前は頭が良すぎるゆえ、机の上で幽霊を育てておるのだ」
「何だと?」
「黒幕など、最初からおらん」
義弘は言い切った。
「加久藤の死線で、孟宗竹を打ち込んで敵の足を止め、矢と石と水を絶やさず前線へ運び、城を守り抜いたのは、あいつ自身の頭じゃ。首級など一つも取らず、失った部下三人の死に本気で打ちのめされながら、率いた十二人を連れて帰ってきた。あれは小細工を弄する策士ではない。人を預かる覚悟を持った、本物の将だ。あいつ自身が、最初から化物だったのだよ」
「化物だからこそ、外に置くべきではないと申しているのです!」
歳久が語気を強めた。
「伊東を叩き潰した今、あやつを大隅の捨て石のまま放置してみろ。大友や、あるいは肥後の相良、南の大隅国衆どもが甘言を弄してあやつを担ぎ上げたらどうする! 蒲生再興の旗印として外で暴発された時、島津の正統はどうなる!」
「だからこそじゃ、歳久!」
義弘の声が広間に轟いた。
「外に置くから危険なのだ! 家の中に抱え込み、島津の一門として組織に組み入れ、儂が烏帽子親となって手綱を握る! 島津のためにその知恵と兵站を吸い尽くさせるのが、最も確実な手綱ではないか!」
「だが、名はどうした」
それまで沈黙を守っていた義久が、重く口を開いた。
「島津を名乗らせるということは、我が宗家の血脈に連なるということだ。まさか、父上の偏諱を与えたのではあるまいな」
義久の懸念はもっともだった。
通字である久の字は当然だが通字ではない貴久の「貴」の字を直に与えれば、それは宗家の家督継承権争いに直結する。正室方の反発を招き、内乱の引き金にすらなりかねない。
義弘はフッと息を吐き、首を横に振った。
「儂をそこまでの阿呆と思うてくれるな、兄上。父上の志を継がせるべく音は取ったが、貴の字は与えておらん。高く尊きを意味する『崇』の字に変造した」
「崇……?」
「そして、尻には母方の蒲生が代々受け継いできた通字『清』を据えた。名は、崇清。島津崇清じゃ」
歳久の扇子が、ピタリと止まった。
義弘の言葉の意味を、知謀の頭脳が瞬時に解読していく。
「父上の音を借りて敬意を示す体裁を整えつつ、正統なる宗家の通字を奪い、蒲生の清を刻み込んだか」
歳久の唇の端が、微かに歪んだ。
「なるほど。島津の一門として立ててやりながら、本家の家督を継ぐ目を永久に剥奪する首輪というわけですか。義弘兄上にしては、随分と政治的な細工を施されたものだ」
「武辺者とて、それくらいの知恵は回るわ。どうじゃ、兄上。これならば文句はあるまい」
義久は目を閉じ、顎に手を当てて思案した。
武将としての働き、外敵への抑止、そして家督継承権を封じた完璧な命名。義弘の申し出には、もはや宗家として拒絶する名分がどこにも見当たらない。
「相分かった。島津崇清の名、宗家として追認――」
「――お待ちくだされ、殿」
義久が裁可を下そうとした、まさにその瞬間だった。
薄暗い政庁の片隅から、氷を擦り合わせたような冷酷な声が差し挟まれた。
伊集院掃部助忠棟である。
手にした帳簿を膝の上に置き、忠棟がゆっくりと頭を上げた。その冷え切った眼差しは、武将たちの情義や手柄話など微塵も信じていない、冷徹無比な統治官僚のそれであった。
今回、崇清という名前について。
島津家の通字は『久』(貴久・義久・歳久・家久…)であり、副次的に『忠』も使われますが(この話の時点では義弘は忠平と名乗っていた)崇清にはそのどちらも与えられていません。それどころか前当主・貴久の偏諱『貴』の一字すら与えられていません。義弘が用意したのは『貴』の音だけを借りた別字『崇』と、母方蒲生の通字『清』の組み合わせ――つまり宗家の血脈を示す記号を一切含まない名前です。歳久が『首輪』と評した意味は「蒲生という血の交じるものには家督は決して譲ることはない」という冷徹な線引きだった、ということになります」




