第114話 雲上の蔓草(つるくさ)と琥珀の渇望
天正五年(一五七七年)初冬、大隅・獅子目。
博多での極限の緊張に満ちた商談を終え、志賀島の白帆を背に大隅の根城へと戻ってきた崇清を待っていたのは、安らぎなどでは微塵もなかった。
内城からは「亀寿の輿入れ準備と奥向きの統合」をめぐる細々とした書状が届き、先日の榴弾暴発事故の余波で鉄造たち鍛冶屋どもが裏でまた吹き飛ぶのではないかという労災の恐怖が胃を苛み続ける。
神経をすり減らした崇清は、草木も眠る深夜、総会所の奥深くでふらふらと立ち上がった。
「……弥三郎、厨房からあれを持って地下蔵へ来い」
「へ? あれって……まさか、さっき揚げさせた黒豚の唐揚げですか?」
寝間着の上から羽織を引っ掛けた弥三郎が、素焼きの深皿を抱えて目を丸くしながらついてくる。
皿の上には、純粋黒豚ラードでカリリと狐色に揚げられた、熱々の豚の唐揚げが山盛りになっていた。
二人が向かったのは、獅子目工房のさらに奥、深い谷陰に掘られた頑丈な地下貯蔵庫であった。
石積みの重い扉を開けると、地底特有のひんやりとした湿った空気が鼻腔を撫でる。
カンテラの淡い灯りの下、冷たい湧水を引き込んだ水槽の底に――楔と麻縄で厳重に封緘された、肉厚の孟宗竹の筒が数本、ひっそりと沈められていた。
崇清はその前に膝を突き、祈るように両手を合わせた。
「……やっと、この日が来た」
「若君……僕ぁね、もう呆れて言葉も出ませんよ」
弥三郎が水槽を覗き込み、心底から疲れ切った長いため息を吐き出した。
「足掛け三年ですよ。天正三年にあの雲の上の山奥へツル草を植えさせてから……大麦と人手をどれだけ注ぎ込んだと思ってるんですか。また昔みたいに井戸の底で大爆発を起こすんじゃないかと、僕の胃は縮みっぱなしなんですからね!」
弥三郎のボヤキを聞き流しながら、崇清の脳裏には、ここ数年にわたる泥沼の苦闘が走馬灯のように駆け巡っていた。
始まりは――天正三年の春であった。
かつて崇清は、あぜ道のヨモギで苦味をつけた「薩摩よもぎエール」を造り、日向国境の対陣では十薬(枯らしドクダミ)で酸味麦汁を仕立てて兵站の助剤とした。
あれらはあれで当時の現場を大いに救ったし、家中にも喜ばれた。
だが、純粋黒豚ラードで揚げた豚肉を口にするたび、崇清の前世の魂は狂おしいほどの渇望を叫び続けていたのだ。
(……違う。ヨモギの野草の苦味でも、ドクダミの酸味でもない。俺が飲みたいのは、あの柑橘と松ヤニの爽快な香りが弾け、喉を痛いほど鳴らして流れる……本物のホップが香る麦酒なんだよォォッ!!)
崇清の暴走が始まった。
天正三年、坊津に入港した南蛮船のポルトガル商人や明船に法外な銀を掴ませ、西洋の「ビールの苦味草の種」を血眼で買い集めさせたのである。
だが、植物の生理は冷酷であった。
最初の年、崇清が勇んで飯隈の平地の畑に蒔かせた苗は、初夏を迎えると同時に異変を起こした。南九州特有の高温多湿と強烈な日差しに晒され、根腐れを起こして梅雨の間にドロドロに溶けて全滅してしまったのだ。
ホップは冷涼で乾燥した高緯度の植物だ。日本の夏、それも南国の平地で育つはずがなかったという痛烈なやらかしであった。
『平地が駄目なら、雲の上だ!』
天正四年、崇清は大隅半島の最高峰――標高千メートルを超える高隈山を見上げた。
弥三郎と蒲生衆の山番たちを引き連れ、息を切らしながら高隈山の山頂直下、霧が立ち込める冷涼な尾根の斜面へと登り詰めた。
『こんな岩だらけの山奥にツル草を植えるために、僕が何町歩登らされたと思ってるんですかァッ!』と絶叫する弥三郎をよそに、甚兵衛たち木こり衆を動員して孟宗竹で長大な棚を組ませた。
夏でも冷たい霧が吹き抜け、朝夕の冷え込みが厳しい高隈山の頂で、二度目の苗はようやく根を張った。
そして今年の秋――天正五年の十月、竹棚一面に青々と実った緑の松ぼっくりのような「毬花」が、ついにまとまった量で収穫できたのだ。
山番が試しに一粒噛み砕き、『若君、舌が痺れるほど苦くて渋いぞ! 毒草じゃないのか!』と泡を吹いて騒ぐ中、崇清はその毬花の根元に詰まった黄金色の粉――「ルプリン」の鮮烈な柑橘香を嗅ぎ、山頂で狂喜の雄叫びを上げたのである。
そうして収穫したホップを乾燥させ、大麦麦汁とともに煮沸し、竹筒の中で炭酸を閉じ込め、地下の冷たい湧水で追発酵させながら冷やし続けた最後の一本が、いま目の前にあった。
「弥三郎、椀を出せ」
崇清は湧水の中から、ずっしりと重い孟宗竹の筒を引き上げた。
竹肌は濡れそぼり、指先が痛くなるほど冷え切っている。
小刀で麻縄を断ち切り、樫の木の栓の縁に木槌を当てる。
崇清が手首をスナップさせ、木栓をわずかに小突いた――その瞬間。
プシュッ……シュワァァァッ!!
乾いた心地よい破裂音とともに、冷たい白い霧が噴き上がった。
同時に、地下貯蔵庫の冷気の中に爆発的に広がったのは――。
青臭いヨモギでも、土臭いドクダミでもない。
洗練を極めたライムと松ヤニ、そして芳醇な麦芽の甘みが渾然一体となった、鮮烈極まりない本物の「ホップの薫香」であった。
「な……っ!?」
弥三郎が鼻をひくつかせ、目を見張った。
崇清は素焼きの深い平椀を傾け、竹筒から黄金の液体を一気に注ぎ込んだ。
トクトクトク……シュワシュワワッ!
純白のきめ細やかな泡が、盛り上がるように液面を覆い尽くす。
立ち上る炭酸の泡を透かして揺れるのは、深みのある美しい琥珀色。
崇清は震える手で黒豚の唐揚げを一つ掴むと、カリリと音を立てて齧りついた。
口いっぱいに広がる、香ばしい衣とジューシーな黒豚の濃厚な脂。
その脂が舌に残っているうちに、泡立つ琥珀色の液体を喉へと流し込む!
グビリ、グビグビッ、ゴクン……ッ!!
冷たい刺激が舌を叩き、無数の炭酸の粒が喉奥で弾け飛ぶ。
直後、ガツンと口内を蹂躙したのは――鮮烈にして暴力的なまでの、ホップの強烈な「苦味」!
だが、その苦味は舌に嫌らしく残らない。唐揚げの濃厚な脂をスパッと鮮やかに断ち切り、鼻腔を突き抜ける爽快な柑橘の薫香を残して、喉の奥へと驚くほど鮮やかに消え去っていく。
「…………ッッッ!!」
崇清は椀を下ろし、天井を仰いだ。
両目から、ポロポロと大粒の涙が零れ落ちる。
「……ビールだ。紛れもなく……本物の、ホップが香るビールだよ、弥三郎……ッ!!」
「若君、泣くほどですか……!?」
だが――その芳醇な香気と揚げ物の匂いは、あまりにも鮮烈すぎた。
ドガァァァンッ!!
貯蔵庫の分厚い引き戸が、乱暴に蹴破られた。
「おい崇清ッ!! 何の匂いじゃ! 厨房で美味そうな肉が揚がっておるのに、肝心の酒がねえぞッ!!」
「若君ーッ! 家久様が俺の唐揚げを奪おうとするんですバイ!」
怒鳴り込んできたのは、日向・佐土原城主の島津又七郎家久と、崇清の直属与力として獅子目に詰めている怪力少年・中馬重方(与八郎)であった!
佐土原の物資補給の詰めのために獅子目へ立ち寄って一泊していた家久が、夜中に厨房をうろついていたところ、揚げ物の匂いを敏感に嗅ぎつけて厨房を占拠していた重方と鉢合わせし、そのまま地下蔵まで追いかけて雪崩れ込んできたのだ。
「うわっ、家久兄上!? それに与八郎、お前ら夜中に何やってるんだ!」
「何じゃとはこちらの台詞よ! 勝手場に行ったら与八郎が大皿を抱えておってな、問答無用で追うてきたのじゃ! それよりその泡立つ汁は何じゃ!」
家久は崇清の手から椀を力づくで奪い取ると、躊躇なく一気に呷った。
グビグビグビッ……プハァッ!!
「――――にがっ!? なんじゃこの苦さは! 舌が千切れるかと思ったぞ!」
家久は顔を激しく歪めた。
だが、次の瞬間、その目がカッと見開かれた。
「……じゃが、なんじゃこの後味は……!? 口の中の苦味が、ふっと爽やかな風のようになって消えおったぞ……!?」
無言で重方の皿から唐揚げを鷲掴みにして口に放り込み、咀嚼した家久は、再び竹筒から直に液体を喉へ流し込んだ。
ゴクン、ゴクンッ……ッ!
「う……うおおおおッ!! 美味いッ!! 豚の脂が消える! いくらでも肉が腹に入るぞ! 与八郎、肉を寄越せ!」
「ああっ、家久様ずるいですよ! 俺の肉です! ……んぐ、んぐ、ぷはあっ! 若君、この苦い酒、舌がシャキッとしてたまらんですね! 飯がいくらでも食えます!」
重方も負けじと唐揚げを口に放り込み、もう一本の竹筒から豪快に呷って満面の笑みを浮かべる。
「ああっ、二人とも直飲みするな! まだ数本しかない貴重な試作なのに!」
「やかましい、美味い酒を前に出し惜しみするな! 弥三郎、厨房の竈に火を入れ直せ! 今夜は宴じゃッ!」
「ひえええ、僕の睡眠時間がァッ!」
日向の猛獣城主と、獅子目の現場重機に占拠された地下蔵は一瞬にして騒乱の酒場と化し、結局、朝方まで揚げ豚と琥珀の麦酒を酌み交わす狂乱の宴となった。
――東の空が白み始めた頃。
空になった竹筒と山のような骨を前に、大の字になって腹をさする家久と、満足げに高いびきをかいている重方を前に、崇清は手元に残った最後の一杯を揺らし、苦笑いを浮かべた。
「ふう……堪能したわ」
家久が上機嫌で天井を見上げた。
「ヨモギの酒も悪くなかったが、この苦い草の酒は格が違うな。……じゃが崇清、お前、さっきから何を難しい顔をしておるんじゃ? これほどの酒ができたというのに」
「……兄上。確かに美味いんですがね、これは俺が本当に造りたい麦酒の、まだ道半ばなんです」
「道半ばじゃと? これでか?」
「ええ。いま飲んだのは、酵母が常温で上に浮かび上がって発酵する『上面発酵』です。香りは華やかですが、少し重い。……俺が本当に目指しているのは、酵母を醪の底に沈めて、極限まで低温で静かに発酵させる『下面発酵』なんですよ」
崇清は遠い目をしながら、前世でお馴染みだった黄金の喉越しを思い描いた。
「雑味を極限まで削ぎ落とし、黄金色に透き通り、喉を痛いほど鳴らして何杯でも水のように流し込める……真の黄金の麦酒です」
「ほう……! まだそんな上がおるのか。なら、さっさとそれを造らんか!」
「そう簡単にはいかないんです」
崇清は首を振った。
「下面発酵を成功させるには、仕込みから何週間もの間、醪の温度を『五度から十度前後』という冷涼な低さに保ち続けなきゃならない。温暖な薩摩や大隅の平地じゃ、冬場の地下蔵ですら発酵熱で温度が上がりすぎて、どうしても上面発酵になっちまうんです」
「なるほどな……」
家久は顎髭を撫で、ニヤリと獰猛な笑みを浮かべた。
「平地が温いなら、話は簡単じゃ。あのツル草と同じよ。……高隈山の山頂近く、雪が積もり、氷のような谷水が流れるあの雲の上に、酒蔵を丸ごと建てちまえば良かろうが!」
「……え?」
「甚兵衛たち木こりや石工どもを動員して、山の上に氷室と醸造小屋を建てさせるんじゃ。与八郎のような怪力どもに岩を運ばせれば造作もなかろう。……幸い、大友との戦も耳川で一息つき、佐土原の守りも落ち着いてきた。……来年じゃな」
家久は立ち上がり、崇清の肩をバシッと力強く叩いた。
「来年――天正六年の冬までに、高隈のてっぺんに専用の醸造小屋を造らせい。儂も日向から人を回して手伝ってやる。そこでその、何とかいう『下面発酵』の真の麦酒とやらを仕込もうではないか!」
崇清は目を丸くし、やがて吹き出すように笑った。
(高隈山の山頂醸造所……! 物理の壁にぶつかったら、インフラごと山の上へ移転させるか。相変わらずこの兄貴の発想は脳筋だが、現場の突破力だけは天才的だな)
「……分かりました。博多も抑え、大友の始末をつける道筋も見えてきた。来年、天正六年――あの雲の上の醸造所で、必ず本物の黄金の麦酒を完成させましょう」
「応よッ! その時は豚を一頭丸ごと揚げて待っておれッ!」
朝焼けの光が、地下蔵の隙間から差し込んできた。
数年にわたるホップの苦闘は、極上のエールとして結実し、そして次なる「天正六年の下面発酵・山上醸造所」という大いなる野望へとバトンを繋いだのであった。
やっと、僕らがビールと認識する、ホップを使ったビールが完成しました!
日本で一般的に飲まれているラガーではなく、今回はエールですが。最近はエールも日本でずいぶん飲まれるようになりましたね。
製法の違いによる味の傾向を、細かいことは置いて大雑把に説明するなら、ラガーはすっきりとしたキレと爽快感があり、焼肉などの脂っこい料理と相性抜群。一方、エールは果物を思わせる芳醇な香りを持つものが多く、ビールそのものの味や香りを楽しむことが多い、といったところでしょうか。
もちろん、ラガーにもエールにもさまざまな銘柄があるので、一口では語れません。あくまで大雑把な話です。
さて、崇清は念願のビールを完成させたわけですが、本当に飲みたいのはラガーのすっきり爽快な味。
どうやら、まだまだ満足するつもりはないようです。
戦国薩摩のビール開発は、これからも続きます。




