第1話:その名はジャネット・パテー
※本作は、19歳で理不尽に処刑された聖女ジャンヌ・ダルクの「もしも」を描いた歴史IF中編(全7話)+エピローグです。
全話一挙公開しておりますので、ぜひ最後まで一気にお楽しみください!
泥と、悪臭と、絶望。それが15世紀、百年戦争が終わりを迎えたフランスの真実だった。
長きにわたる戦火は大地を焼き尽くし、生き残った民の心をも荒ませていた。
理不尽な異端審問の法廷から、一人の少女が足を踏み出す。衣服はボロボロに汚れ、髪は乱れていたが、その瞳だけは濁っていなかった。
「ジャンヌ……!」法廷の重い扉の向こうで彼女を待っていたのは、処刑を望む野次馬の群れではなかった。
地平線を埋め尽くすほどの、鉄の軍勢。かつて彼女と共にオルレアンを、パテーを駆け抜けた、フランスの騎士や兵士たちだった。
国は彼女を見捨てた。王は彼女を裏切った。
しかし、戦場を共にした荒くれ者たちは、彼女の聖性を一瞬たりとも疑っていなかった。
「俺たちが無力なばかりに、あなたをそんな目に……!」
「国も王もクソ喰らえだ! 俺たちはどうすればいい? どこへ向かえばいいんだ!」
百戦錬磨の巨漢の騎士たちが、地面の泥に膝を突き、子供のように肩を震わせて泣き崩れる。
戦争が終わり、お払い箱となった彼らには、帰る場所も、信じるべき光も残されていなかった。
彼らの嘆願を見つめる少女の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
それは怒りでも、裏切りへの恨みでもない。
ただ目の前で道を見失い、泣いている「彼らの苦しみ」への、張り裂けんばかりの共感の涙だった。
「顔を上げてください、私の大切な友よ」少女は静かに、しかし誰もが従わざるを得ない澄んだ声で告げた。
「『ジャンヌ・ダルク』は、あの暗い法廷で死にました。私はもう、王のための聖女ではありません。これからは、ただのジャネット。かつて私たちが血に染めた、あの激戦地の名を背負う者――ジャネット・パテーと名乗ります」
彼女は武器を持たなかった。大旗も掲げなかった。ただ、跪く兵士たちの頭を一人ずつ優しく撫で、言葉を続けた。
「剣を振るう戦いは終わりました。ですが、傷ついたこの国を癒やす戦いは、これからです。私と一緒に、泥を耕し、命を救う旅へ出てくれませんか」
「ジャネット・パテー!」と、誰かが叫んだ。その公然の秘密のような新しい名は、瞬く間に数千の兵士たちの間で震えるような誓いへと変わった。
「おい、ぐずぐずするな! 奪った小麦をすべて荷車に戻せ! ほら、そこのお前はそっちの燃えた屋根の木材を運ぶんだ!」
さっきまで怒号と悲鳴が響いていた村に、全く違う性質の怒号が響き渡っていた。
先ほどまで獰猛な狼のように略奪を働いていた野盗(元傭兵)たちが、一転して、まるで正しい軍隊のような見事な手際で動き回っている。彼らの頭目は、村の長老の前にこれ以上ないほど深く土下座をし、額を泥に擦り付けていた。
「申し訳ありませんでした! すべて戦争が終わり、飢えに狂った我が身の愚かさゆえ! 奪ったものは一粒残らずお返しし、壊した家はすべて我らの手で元通りにいたします!」
あまりの豹変ぶりに、村人たちは呆然と立ち尽くすしかなかった。
元野盗たちは、ジャネットの後ろに控える本物の騎士たちに負けないスピードで、村の被害状況を把握し、即座に復興作業に取りかかっていく。
かつて戦場を震撼させた彼らの強靭な肉体と組織力は、建設の現場においてこれ以上ないほど頼もしい力へと変わっていた。
だが――。現実は、そう簡単に美談にはならなかった。
作業をする元野盗たちの背中に突き刺さるのは、村人たちからの痛いほどの「警戒」と「敵意」の視線だった。
「おい、あいつらを見るな。目を合わせるんじゃない……」
「さっきまで笑顔で人を殺そうとしていた連中だぞ。どうせ、後ろにいる騎士たちに怯えて、今は大人しくしているだけだ」
「夜になったら、寝首を掻きにくるに違いない……」ひそひそと交わされる不信の言葉。村の子供たちは母親のスカートの裏に隠れ、怯えきった目で大男たちを見つめている。元野盗たちも、その視線には気づいていた。彼らは元々、国から見捨てられ、荒むしかなかった男たちだ。
向けられる憎しみに胸が痛み、次第にその顔に、かつての険しさと、諦めのような暗い色が戻り始めていく。
「ちっ……やっぱり、俺たちはどこまでいっても人殺しのクズだ。何をやったって……」一人の若い男が、運んでいた丸太を地面に投げ出そうとした、その時だった。
「そっちの丸太、私も一緒に運びます!」小さな、けれど驚くほどに真っ直ぐな声が響いた。
白い衣服をすでに泥だらけにした少女――ジャネット・パテーが、男の持つ丸太の反対側に、小さな手をかけたのだ。
「聖……っ、いや、ジャネット様!? 何をなさる、こんな重いもの、俺が……!」
「いいえ、一緒に運びましょう。この村の冬は寒いです。一日でも早く、みんなの家を直さなくては」
ジャネットはふらつきながらも、必死に笑ってみせた。
彼女は、元野盗たちの心が再び絶望へ落ちていくのを、どうしても止めたかった。
そして同時に、村人たちの恐怖も痛いほど分かっていた。
だから、彼女は走った。村人と元野盗たちの間を、文字通り「架け橋」となって、小さな体で何度も、何度も飛び回った。
「おばあさん、この人たちは重い荷物を運ぶのがとても得意なんです。だから、あの壊れた納屋の片付けを頼んでみてください。大丈夫、私がずっと隣にいますから」
「そこのあなた! 刃物を持ったまま村の中を歩いてはダメです。村の人が怖がってしまいます。道具は使う時まで、袋にしまっておいてくださいね」
彼女は村人たちの手を握り、その恐怖を優しく解きほぐした。
一方で、冷たい視線に挫けそうになる元野盗たちのもとへ駆け寄り、「ありがとうございます、本当に助かっています」と、その泥だらけの手を両手で包み込んだ。「あの子は……」村の長老が、遠くからジャネットの姿を見つめていた。
顔や服を泥で真っ黒にしながら、重い水瓶を運び、元野盗の男たちを叱咤激励し、村の子供たちに笑顔で話しかけている少女。
その姿には、お高くとまった『聖女』の気配など微塵もなかった。
ただひたすらに、目の前の命と命を繋ぎ止めようとする、泥まみれの、一人の愛おしい少女の姿がそこにあった。
ジャネットの必死な姿を見るうちに、元野盗たちの目から、再び諦めの色が消えていった。
「おい……ジャネット様に、あんな小さな手で泥を弄らせるな! 俺たちがもっと動くんだ!」
「村の人たちに認められなくてもいい。ただ、あのジャネット様の涙を、二度と流させないために働くんだ!」男たちの動きが、さらに熱を帯びていく。
ジャネットが飛び回るたびに、村の凍りついた空気が、ほんの少しずつ、けれど確実に解け始めていた。
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小ネタ
「※ジャネット・パテーという新しい姓名の由来に気づいた方は、かなりの歴史通です(ふふっ)。実は、彼女の本当のプライドと祈りが込められた名前になっています。その秘密は、ぜひ最後の話のあとがきで確かめてみてくださいね!」




