EP 20
盤上の悪魔
白昼のポポロ村に、異質な静寂が落ちていた。
漆黒のスーツを着た男。その背に生えた蝙蝠のような翼が、彼が人間でも獣人でもない「魔族」であることを雄弁に物語っている。
「いらっしゃいませ。お客様」
俺は愛想笑いを浮かべ、男の前に進み出た。
キャルルが鋭い呼気と共に魔導脚甲『紫電』の出力を上げ、モウラが鎖を鳴らす。村の空気が一瞬で沸点に達しようとしていた。
「ほう?」
男は薄い唇を歪め、俺を見下ろした。
血のように赤い瞳。その奥底に広がるのは、底知れぬ虚無と、圧倒的な暴力の気配だ。
「俺の放つ『恐怖』にあてられて、立っていられる人間がいるとはな。……お前が、噂の書記官か?」
「ええ。しがない村長補佐の、若林と申します」
胸ポケットの【黒革の手帖】が、焼火箸を押し当てられたように熱い。
対象が放つ情報量が多すぎるのか、あるいは、世界そのもののバグのような存在だからか。
「俺はサルバロス。魔族を統べる者……人間どもは『魔王』と呼ぶらしいがな」
魔王。
その言葉が出た瞬間、キャルルが息を呑んだ。
三すくみの一角、最凶の覇王が、なぜ護衛も連れずにこんな辺境の村に?
「ようこそ、ポポロ村へ。……立ち話も何ですから、中へどうぞ」
「おじさん!? 正気!?」
「キャルルさんは、お客様に出す『最高のお茶請け』の準備を」
俺は魔王を村長宅の応接室へと案内した。
サルバロスは面白そうに喉を鳴らし、軋む木製の椅子に腰を下ろした。
「面白い男だ。タイガの野郎を動かしたのも、ルミナス帝国の豚を飼い慣らしたのもお前だろう?」
「さて。私はただの調整役ですので」
俺はルチアナ通販で取り寄せた『高級玉露』を急須で淹れ、静かに彼の前に置いた。
魔王は湯気を一瞥し、薄く笑った。
「三国が睨み合うこの大陸の勢力図を、お前はたった一つの村から引っくり返そうとしている。……まるで、盤上の遊戯だな」
「遊戯、ですか」
「ああ。俺たち魔族から見れば、人間も獣人も、盤の上を這い回る駒に過ぎん。だが、お前は盤の外から手を突っ込み、駒の配置を勝手に変えている」
サルバロスは赤い瞳を細めた。
「帝国の徴税官を脅し、獣王国の将軍を兵糧で買収する。……見事な手際だが、やりすぎだ。光が強くなれば、俺たち『闇』が侵食しやすくなる」
俺は玉露を啜り、静かに答えた。
「私の故郷に、『将棋』という盤上遊戯がありましてね」
「ショウギ?」
「ええ。チェスなどと違い、この遊戯の最大の特徴は……『敵から奪った駒を、自分の持ち駒として盤上に打てる』という点です」
俺は真っ直ぐに魔王の目を見返した。
「バロスも、タイガ将軍も、私にとっては敵から奪い、盤上に打ち込んだ『持ち駒』に過ぎません。……そして、将棋において最も恐ろしいのは、盤面が複雑に絡み合った終盤戦です」
「……俺も、その盤上の駒だと言いたいのか?」
殺気が膨れ上がる。室内の温度が一気に急降下し、淹れたての玉露の表面に薄氷が張った。
だが、俺は懐から【黒革の手帖】を取り出し、テーブルの上に置いた。
熱を持ち、微かに脈打つ黒い革表紙。
俺はそのページを、魔王の目の前でゆっくりと開いた。
『魔族統治者 サルバロス』
【氏名:サルバロス】
【種族:魔族(吸血鬼の真祖)】
【表の顔:冷酷無比な魔王】
【裏情報:数百年生きる中で『不眠症』と『極度の味覚障害』を患っている。人間の血も魔獣の肉も砂を噛むようにしか感じられず、慢性的な苛立ちから世界を滅ぼそうか考え始めている。唯一の望みは、「心から美味いと感じられるもの」に出会うこと】
(……なるほど。この男もまた、飢えている虎と同じか)
俺は手帖を閉じ、ため息をついた。
世界を滅ぼす理由が「飯がマズくて眠れないから」とは。スケールが大きすぎるのか小さすぎるのか分からない。
「サルバロス様。あなた、最近よく眠れていないでしょう?」
「……ッ!?」
魔王の赤い瞳が、驚愕に見開かれた。
「な、なぜそれを……。俺の側近ですら知らぬ事実だぞ」
「私は調整役(秘書)ですから。トップの体調管理も仕事のうちです」
俺は立ち上がり、戸棚から一つのボトルを取り出した。
地球の技術と時間が育んだ、琥珀色の液体。
そして、氷を入れたグラスにそれを注ぎ、炭酸水で割る。
「……血の匂いはしないな。毒か?」
「異界の霊薬です。味覚を失ったあなたでも、これの『刺激』と『香り』なら、脳髄に届くはずだ」
サルバロスは警戒しながらも、グラスに口をつけた。
シュワッ、という炭酸の弾ける音。
直後、魔王の身体が雷に打たれたように硬直した。
「……!!」
冷たい炭酸の刺激が、麻痺していた彼の味覚神経を強制的に叩き起こす。
そして、鼻腔へと抜けるスモーキーな樽の香り。
それは人間の血よりも濃密で、どんな魔薬よりも強烈な「快楽」だった。
「あ……あぁ……」
サルバロスはグラスを両手で包み込み、震える唇で液体を飲み干した。
何百年ぶりかに味わう『美味い』という感覚。
そして、アルコールが急速に血を巡り、強張っていた神経を優しく解きほぐしていく。
「……信じられん。砂の味しかしない俺の舌が、喜んでいる。……それに、なんだこの心地よい気怠さは。今すぐ、泥のように眠れそうだ……」
魔王の顔から、あの凶悪な殺気が完全に抜け落ちていた。
ただの、疲れ切った不眠症の男の顔だ。
俺はグラスに二杯目を注いだ。
「この酒、我がポポロ村から魔王領へ、定期的に輸出しましょうか?」
「……条件はなんだ」
酔いが回り始めた目を細め、サルバロスが問う。
「簡単なことです。私の『将棋』の邪魔をしないこと。そして……いざという時、私の持ち駒として働いていただくこと」
魔王を脅迫し、買収する。
キャルルが聞けば卒倒するような提案だ。
だが、サルバロスは二杯目のハイボールを喉に流し込み、深く、本当に深く息を吐いた。
「……悪魔のような男だ。人間にも、これほどのタマがいるとはな」
サルバロスは立ち上がり、よろめきながらも満足げな笑みを浮かべた。
「よかろう。俺の睡眠を邪魔する奴は、俺が滅ぼしてやる。……酒の準備を怠るなよ、若林」
漆黒の翼が羽ばたき、魔王は窓から飛び去っていった。
後に残されたのは、空になったグラスと、微かなウイスキーの香りだけだ。
「おじさん……! 今の、本当に魔王だったの!?」
ドアの外で待機していたキャルルが、飛び込んできた。
「ええ。ですが、ただの『お得意様』になりましたよ」
俺はスーツのシワを伸ばし、窓の外を見た。
帝国を操り、獣王国に牙を剥かせ、魔王を酒で手懐けた。
三すくみの均衡は崩れ、今、世界はこのポポロ村を中心に回り始めている。
「さあ、仕事に戻りましょうか。……次期国王の戴冠式の準備がありますからね」
元・議員秘書、若林幸隆。
彼が黒革の手帖を片手に、異世界を裏から完全に支配する日は、もうすぐそこまで来ていた。




